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第T部

第1章 先史の世界

 人類は直立二足歩行することによって両手で道具をつくることができ,頭脳の発達をうながし,言語を用いて文化をつくりだした。人類は,約 400万年前に発生した猿人から,原人・旧人・新人へと進化した。新人になってからも,文字がなく記録が残っていない時代が続いた。これを先史時代という。
 人類がはじめに使った石器は,打製石器で,狩猟・採集・漁労の生活をしてきたが,数千年前から磨製石器や金属器を用い,農耕・牧畜生活をいとなみ,初期農村,やがて都市国家を形成した。このころになると文字による記録を残すようになって歴史時代に入り,文明が発生した。世界最初の都市文明は,ティグリス・ユーフラテス両河,ナイル川の流域におこり,これをオリエント文明という。つぎにこの影響をうけてインダス川流域,黄河流域,地中海地方に文明がおこり,ユーラシア大陸はいくつかの文化圏にわかれて発展するようになった。一方,アメリカ大陸においてはメキシコ地方・アンデス地方に独自の文明が成立した。

1 人類の出現

●最古の人類●
 人類は霊長類ヒト科の動物で,他の動物ともっとも大きくちがうのは,直立して二足歩行し,両手で道具をつくって労働し,文化@を持った点である。現在のところ最古の人類と認められるのは,アフリカで発見されたアウストラロピテクスやホモ=ハビリスなどの猿人で,その出現は約 400万年前にさかのぼる。彼らは野生の動植物を食料として社会生活をいとなみ,なかには単純な打製石器(礫石器)を使用するものがいた。
 更新世(約 170万〜1万年前)の中期(約50万年前)になると,原人が出現する。ジャワ原人(直立猿人)や北京原人もこれに属し,旧大陸の広い範囲に広がった。脳容積は猿人の約2倍で1000cc以上のものが多く,握斧(ハンド=アックス)など形のととのった打製石器をつくった。また北京原人は火を使用し,ことばも話したようである。これらの原人は河岸や洞穴に住み,採集や狩猟をおこなって生活した。


@ ここでいう文化とは,生物学上の遺伝によらず,社会生活をつうじて身につけ伝達される行為や生活様式をさす。先史時代の人類は,道具をつくり,集団で狩りをし,火を使い,言語を持っていたことなどの事実や痕跡があるため,文化を持っていたことがあきらかである。

●旧   人●
 更新世の後期初めころ(約20万年前),いっそう進化して現生人類に近い旧人があらわれた。脳容積は現代の人類(約1300〜1600cc)とかわらず,精神文化が進み,死者の埋葬などの宗教的行為をおこなった。道具では剥片石器が多く用いられ,また毛皮の衣服や炉をそなえた住居など,寒い気候への適応が進んだ。彼らを代表する人類は,ヨーロッパに分布したホモ=サピエンス=ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)である。

●新人の登場●
 更新世の末期(約4万〜1万年前)になると,新人(現生人類)があらわれた。ヨーロッパのクロマニョン人や中国の周口店上洞人などがこれにあたる。剥片石器をつくる技術はおおいに進歩し,用途に応じて石器の種類も増えた。石器のほかに,骨や角を材料とした槍・銛・釣針・針などの骨角器もさかんに使用され,採集や狩猟・漁労の生活が豊かになった。
 生活の充実とともに,石・貝・牙・角などを材料とした装身具が着用され,また女性裸像や動物像の彫刻,刻線や彩色によって動物などをえがいた洞穴美術@がうまれた。これらは多産や狩猟の成功をねがう呪術的行為からでたものである。埋葬も死体をおりまげた屈葬がおこなわれ,種々の副葬品をいれるなど,入念になっている。
 この時期には,当時陸続きであったベーリング海峡をとおってアメリカ大陸に,また東南アジアからオーストラリアにわたった人類もあり,こうして人類は旧大陸・新大陸Aの全土に広がり,各地で環境に応じた独特な生活様式をいとなむようになった。


@ スペインのアルタミラ,フランスのラスコーなどはその好例である。
A ヨーロッパ人がアメリカをあたらしく発見したという意味で新大陸とよぶのに対し,アジア・ヨーロッパ・アフリカを旧大陸という。

●新環境への適応●
 更新世がおわり,後氷期に入ると,気候はしだいに温暖となり,氷河は後退して,海陸はほぼ今日のような形になった。寒系の大形獣(マンモス・トナカイなど)は消滅するか,より寒冷な地方に移動し,暖系の小形獣(野猪・シカなど)や水鳥・魚介類などが繁殖した。こうして完新世(約1万年前)になると,人類は自然環境の変化に対応しながら,地域ごとに生活様式をかえていった。
 完新世初期のユーラシア北部では,細石器の鏃をつけた弓矢の普及と,オオカミを家畜化した犬により,小動物(テン・キツネ・ウサギなど)の狩猟の獲物が増え,骨角器の銛や釣針,網の使用で漁労も容易になった。ユーラシア南部の草原地帯でも,弓矢や槍を使用して,移動的な狩猟生活がいとなまれた。彼らのなかには,狩猟・戦闘・舞踏などの生活場面を岩壁にえがいた岩絵を残すものもあった。
 一方,西アジアや東地中海の一部では,採集・狩猟民が,カモシカ・ヤギ・羊・豚・牛などの野生動物や,麦・豆などの野生植物を主要な食料とし,また泥土や石積みの壁の家をつくって,農牧と定住生活への道を進みつつあった。
 このように,人間が自然環境の変化に応じて,あたらしい生活に移っていった時代を中石器時代とよぶ。それは,人類がもっぱら打製石器を使用して採集・狩猟生活をいとなんだ旧石器時代から,磨製石器を常用して農耕・牧畜生活をいとなむ新石器時代に移る中間期であった。
2 文明へのあゆみ

●農耕・牧畜の開始●
 人類が採集・狩猟の獲得経済から農耕・牧畜の生産経済に移ったことは,革命的な変化であった。生産経済によって,人類ははじめて積極的に自然に働きかけ,これを利用し,自力で生活を発展させるようになった。このときから現在まで,基本的に農牧生活が人類の生活をささえ,文明の基礎となったのである。
 このように重要な意義を持つ農耕・牧畜は,イラン西南部からアナトリア高原南部をへて,ギリシア地方にいたる西アジアから東地中海域を中心にはじまった。この地域では,野生の穀類や,家畜として飼うのに適した野生動物が存在したため,住民は有利な自然条件を利用して,前7000年ころには,他にさきがけて麦の栽培と,食用の家畜(ヤギ・羊・牛・豚など)の飼養をおこないはじめた。また磨製石器とともに土器や織物もつくり,土や日干し煉瓦で小屋をたて,集落を形成した。イラク東北部のジャルモなどが新石器時代最古の遺跡である。しかし初期の農法は,主として雨水にたよる乾地農法であり,肥料をほどこさない略奪農法でもあったから,ひんぱんに耕地をかえる必要があり,農村は数年で移転しなければならず,大集落に発展することはなかった。

●初期農村から都市国家へ●
 初期の農村は,農牧による生産と祭祀を中心に形成された集落である。そこでは,住居や衣服,食料の調理・貯蔵のための器具,農工具など,生活に不可欠なものが数多くつくりだされた。人々の生活は自給自足を原則としたが,かなり遠隔の地方との交易もおこなわれ,文化の伝播がみられた。前5000年ころからは彩文土器がつくられ,簡単な銅・青銅製品も使用され,しだいに私有や権利といった観念も発達した。しかし,初期農村が神殿を中心とする都市にまで発展したのは,オリエントの大河のほとりで潅漑農業がはじまってからである。
 こうした初期農牧文化は,前5000年ころから東西に伝播しはじめ,前3000年ころまでに旧大陸の沿岸や大河の流域などに農耕・農牧文化圏が成立した。その結果,西は大西洋沿岸から東は中央アジアのオアシスをへてインドの北西部や東アジアまで,磨製石斧と彩色や線刻の文様を持つ土器を特徴とする初期農耕民の新石器文化が広がった。ナイル川,ティグリス・ユーフラテス両河,インダス川,黄河の流域がその中心で,これらの地域から世界の4大文明が発生した。また中央アジアからイラン・シリアをへて北アフリカにいたる乾燥した草原地帯には,細石器を使う原始遊牧民の新石器文化が成立し,さらにバルト海からシベリアにおよぶ北方の寒冷な森林地帯には,土器や打製・磨製石器とともに骨角器をさかんに使用する採集・狩猟・漁労民の新石器文化が発達した。日本の縄文文化もこれに属する。

●人種と語族の分化●
 人類が採集・狩猟の生活から,農耕・牧畜の生活に移っていく過程で,世界各地の人類のあいだには,身体上の特徴の違いが大きくなり,ほぼ今日のような人種の区別ができあがった。主要な語族や民族の分化も,そのような人類の生活文化の変化・多様化・伝播のなかで形成されたのであろう。
 人種ということばは,身長・頭形・皮膚の色・毛髪・目の色・血液型・遺伝子といった生物学上の特徴で人類の集団を分類する場合に用いるもので,文化とは関係がなく,大別して白色人種(コーカソイド)・黄色人種(モンゴロイド)・黒色人種(ネグロイド)にわけられる。語族とは,ほんらい言語を分類する場合に用いる@。民族とは,言語や宗教や社会的慣習など,広い意味の文化的伝統を同じくする集団をさす場合に用いるA。


@ ただし,同じ系統の言語を話す人間集団を語族とよぶこともある。
A なお,国家社会では,国家の成員を国民という。したがって多民族国家の場合には,同じ国民といっても,民族や人種のちがう人々がふくまれる。
第2章 オリエントと地中海世界

 オリエント文明は,古代文明のうちもっともはやく成立したもので,大河の治水・潅漑にもとづく神権政治は,インダス文明や黄河文明と共通している。この地域の政治形態は後世のイスラム世界にも引きつがれた。また文化的にはエジプトの太陽暦,メソポタミアの六十進法,フェニキアの表音文字などがヨーロッパに伝播し,パレスチナにうまれた一神教はキリスト教の母体となった。つぎに,エーゲ文明はエジプトの新王国やバビロン第1王朝と時期を同じくし,王権の強大な点でオリエント文明と共通性を持つ一方,流動的で自由な海洋的文明はのちのギリシアにつらなった。
 エーゲ文明の崩壊後におこったギリシア文明は,自由市民団の形成するポリスを基盤としている点で,オリエントとは性格がことなる文明であった。とくにアテネは,奴隷制にもとづく社会であったが,前5世紀には直接民主政を実現し,また精神文化においては,人間的な神々への信仰にもとづく文学・美術や,哲学をうみだした。このような人間中心で,合理主義的な文化思潮が広義のヘレニズムである。ヘレニズムはアレクサンドロス大王によってオリエント地方に広まったが,この地域の文明の性格そのものまでをかえるものではなかった。これに反し,ローマ帝国をへて,さらにヨーロッパに広まったヘレニズムは,とくにルネサンス以後,今日にいたるまでの西洋文明の基調となった。
 ローマ文明はギリシア文明と基本的に共通した性格を持つが,その共和政は,アテネとことなりやがて1人支配の帝政へと移り,在来の各種の文明社会を包含する大地中海帝国を形成した。そして「ローマの平和」のなかで,古典古代の基盤をなす奴隷制が衰退し,中世的社会へと変貌していくのである。
 1世紀にうまれたキリスト教は,帝国の迫害に耐えて民衆や奴隷などのあいだに広がり,ついに国教の地位を獲得した。キリスト教の思潮はヘブライズムといわれ,神中心,超合理主義な点でヘレニズムとは対照的であるが,この二つの思潮があいまって今日の西洋文明の流れを形成している。

1 古代オリエント

●オリエント世界の風土と民族●
 オリエントとは「太陽ののぼる所」を意味し,ヨーロッパからみた東方,今日「中東」とよばれる地方をさす。この地方は一般に雨がきわめて少ないうえに気温が高いため,砂漠・草原・岩山をなす地域が多い。そこでは長いあいだ遊牧生活がいとなまれたが,農業は沿海や河川流域の平野,あるいは点在するオアシスでおこなわれ,麦・豆類の耕作やオリーヴ・ナツメヤシなどが栽培された。しかしティグリス・ユーフラテス川,ナイル川など大河の流域だけは特別で,毎年一定の時期の氾濫がもたらす沃土を利用して,はやくから穀物農業がおこなわれ,大規模な定住が進み,高い文明が発達した。
 ティグリス・ユーフラテス両河流域のメソポタミア@では,前3000年ころから都市文明が栄えた。しかし,この地は外から侵入しやすい地形ということもあって,アラビア半島や周辺の高原からセム系(アフロアジア系)やインド=ヨーロッパ系の遊牧民族が侵入し,複雑な歴史をくりひろげた。ナイル川のほとりのエジプトは,一時は異民族の侵入があったが,メソポタミアとことなり砂漠と海に囲まれているため,ハム系(エジプト系)の民族が長期にわたって高い文明をつくった。またこの両地方の交通路にあたるシリア・パレスチナ地方では,セム系のいくつかの小民族が交易に活躍した。
 オリエント社会では,大河の治水・潅漑のために,はやくから強い宗教的支配を特徴とする神権政治がうまれたが,文化も現人神の権力や宗教の権威を象徴する性格のものが多かった。


@ メソポタミアとは「川のあいだの地方」の意味で,ほぼ今日のイラクにあたる。

●メソポタミアと小アジア●
 大河を利用して潅漑農業を発達させたメソポタミア南部では,前3500年ころから人口が急激に増え,大村落が神殿を中心に数多く成立し,やがて文字が発明され,銅・青銅器などの金属器が普及しはじめた。前3000年ころには,農牧に直接従事しない神官・戦士・職人・商人などが増え,大村落は都市に発展した。やがて各都市はそれぞれ独立し,前2700年ころまでに民族系統不明のシュメール人の都市国家が多数形成された。ウル・ウルクなどがその代表である。都市国家では,最高の神官・戦士でもある王を中心に,神官・役人・戦士などが都市の神をまつり,政治や経済・軍事の実権をにぎって人民や奴隷を支配する階級社会が成立した。土地は原則としてすべて神のものとされ,外国との交易も神殿が独占し,戦争や平和も神の名においてなされた。こうした神権政治にもとづく各都市国家は,大規模な治水や潅漑によって生産を高め,交易によって必要物資を入手し,たがいに覇権をきそった。そのため優勢な都市国家の支配層には莫大な富が集まり,壮大な神殿,宮殿,王墓がつくられて,豪華なシュメール文化が栄えた。しかし,たえまない戦争のため,一般人民が疲弊して国家はおとろえ,セム系のアッカド人に征服されてしまった。
 アッカド人は前24世紀に,メソポタミアやシリアの都市国家を統一して,広大な領域国家をつくった。しかしこれもまもなくほろび,一時シュメール人が勢力を回復したが,やがてセム系のアムル人のバビロン第1王朝(古バビロニア王国)がおこり,ハンムラビ王のとき全メソポタミアを支配した。王は運河の大工事をおこなって治水・潅漑を進め,また有名なハンムラビ法典を発布して中央集権をはかり,領内の多民族を支配した。この法典によれば,王は神の代理者として統治し,刑法は「目には目を,歯には歯を」の復讐法の原則にたち,また被害者の身分によって刑罰がちがっていた。
 ハンムラビ王の時代に栄えた文明は,周囲の諸民族を開化し,やがて彼らはその富をねらって侵入をくりかえすことになった。前1500年ころまでに,イランや小アジアの高原地帯の牧畜民は,中央アジアや南ロシアのインド=ヨーロッパ系の遊牧民とともに民族移動をおこし,青銅の武器と,戦車と騎馬によって,各地の先住民を征服して国家を形成した。そのうち,はやくから鉄製の武器を使用したヒッタイト人は,前17世紀なかばころ小アジアに強力な国家を建設してバビロン第1王朝をほろぼし,シリアに進出してエジプトとたたかった。またカッシート人は南メソポタミアに侵入してバビロニアを支配した。このほか北メソポタミアからシリアに広がったミタンニ王国も強大であった。こうしてオリエントでは前15〜前14世紀に,エジプトの新王国をもふくめて,諸王国が並立する複雑な政治状況がうまれ,数世紀間の混乱が続くことになった。
 メソポタミアでは多神教がおこなわれたが,優勢な民族の交替が激しかったため,そのときどきによって信仰される最高神もかわった。文字はシュメール人がはじめた楔形文字がセム系やインド=ヨーロッパ系の民族のあいだでも使用され,アケメネス朝のペルシア人にいたるまで,言語はことなってもみな楔形文字を用い,粘土板に書いた。また六十進法や太陰暦の使用,それにもとづく閏年の設置など,天文・暦法・数学・農学など,実用の学問が発達した。

●エジプトの統一国家●
 メソポタミアとならんでもっとも古く文明がおこったエジプトでは,「ナイルのたまもの」@ということばどおり,ナイル川が用水と沃土をもたらしただけでなく,重要な交通路でもあった。ここでははやくから流域に多くの村落(ノモス)が分立していた。しかしナイル川の治水には住民の共同労働と,彼らを統率する強い指導者が必要であったため,しだいに統合への歩みとその支配機構がととのうことになった。
 そのため多数のノモスは,やがてナイル下流デルタ地帯の下エジプトとそれより上流の上エジプトの二つにまとまり,さらに前3000年ころには,メソポタミアよりはやく,王(ファラオ)による統一国家がつくられた。以後,一時的に周辺民族の侵入や外国の支配をうけたこともあったが,国内の統一は保たれた。この間約30の王朝が交替したが,これを古王国・中王国・新王国の3期に区分する。
 エジプトでは現人神としての王の専制的な神権政治がおこなわれた。全国土は王が所有し,少数の神官・役人などは王から土地をあたえられたが,人民の大部分は不自由な農民で,生産物の租税と無償労働を課せられた。下エジプトのメンフィスを中心に栄えた古王国時代のクフ王らが,自分の墓としてきずかせたピラミッドは,神である王の絶大な権力を示している。中王国時代には,中心は上エジプトのテーベに移ったが,その末期に,シリア方面から遊牧民ヒクソスが侵入して,一時混乱が生じた。しかし前16世紀に新王国がおこってヒクソスを追いだし,さらにシリア方面にまで進出した。前14世紀には,アメンホテプ4世(イクナートン)が,従来の神々の崇拝を禁じてアトン一神の信仰を強制し,テル=エル=アマルナに遷都した。この改革は王の死によっておわったが,一時的にもせよ,古い伝統を破り,エジプトにはめずらしい写実的な美術をうんだ(アマルナ美術)。しかし前12世紀ころからエジプトの勢威はしだいにおとろえた。
 エジプト人の宗教は太陽神ラーを中心とする多神教で,新王国時代には首都テーベの守護神アモンの信仰と結びついてアモン=ラーの信仰がさかんになった。エジプト人は霊魂不滅とオシリス神が支配する死後の世界を信じてミイラをつくり「死者の書」を残した。彼らが使用したエジプト文字には,主として碑文や墓室・石棺などに刻まれる象形文字の神聖文字(ヒエログリフ)と,パピルス草からつくった一種の紙(パピルス)に書かれた民用文字(デモティック)があった。エジプトの測地術は,ギリシアの幾何学のもとになったといわれ,太陰暦とならんで用いられた太陽暦は,のちにローマで採用されてユリウス暦となった。


@ ギリシアの歴史家ヘロドトスのことば。ナイル川は毎年7〜10月に増水・氾濫して,上流から沃土を運んだので,下流では肥料なしで年2〜3回の収穫ができた。

●地中海東岸の諸民族●
 地中海東岸のシリア・パレスチナ地方は,海と砂漠にはさまれてせまく,また丘陵や入江で小地区にわけられていたため,大きな民族国家の形成には適さなかった。しかしエジプトとメソポタミアを結ぶ通路として,また東地中海への出入口として,海陸交通に便利であったため,前1500年ころからセム系のカナーン人が活躍した。ついでアッシリアがおこる前後から,いわゆる「海の民」@の侵入により,この地方を支配していたエジプト・ヒッタイトの勢力が後退したのに乗じて,セム系の3民族(アラム人・フェニキア人・ヘブライ人)が特色ある活動を開始した。
 アラム人はシリアに多くの都市国家をつくり,前1200年ころからダマスクスを中心に内陸の中継貿易に活躍した。そのためアラム語が国際商業語として広く使われるようになり,アラム文字は東方の多くの文字の源流となったA。
 フェニキア人は,シドン・ティルスなどの都市国家をつくり,クレタ・ミケーネの海上貿易がおとろえたあとをうけて地中海貿易を独占し,またカルタゴをはじめ多くの植民市を建設した。フェニキア人の文化史上の功績は,カナーン人の使用した表音文字から線状文字をつくり,これをギリシア人に伝えて,アルファベットの起源をつくったことにある。
 ヘブライ人Bはもと遊牧民であったが,前1500年ころパレスチナに定住し,一部はエジプトに移住した。しかし,そこで新王国の圧政に耐えかね,前13世紀に指導者モーセにひきいられてパレスチナに脱出した(「出エジプト」)。前1000年ころヘブライ人の国家は王政となり,ダヴィデ王とその子ソロモン王のもとに栄えたが,ソロモン王の死後,国は北のイスラエルと南のユダに分裂した。このころ何人かの預言者があらわれて,人々の堕落をいましめ,民族の結束を説いたが,イスラエルはアッシリアにほろぼされ(前 722年),ユダも新バビロニアに征服されて,前 586年住民の多くはバビロンにつれさられた(バビロン捕囚)。約50年後アケメネス朝がバビロンを占領したとき,ユダヤ人は帰国を許されたが,彼らの政治的不幸はその後も長く続いた。
 ヘブライ人は,古代オリエントで一神教をかたく信じた唯一の民族で,彼らが信仰したのはヤハウェの神であった。彼らは出エジプトや亡国,バビロン捕囚などの民族的苦難をうけても信仰をかえず,やがてこの唯一全能の神によりユダヤ人だけが救われるという排他的な選民思想や,救世主(メシア)の出現を待望する信仰がうまれた。ユダヤ人はバビロンから解放されて帰国すると,イェルサレムにヤハウェの神殿を再興し,儀式や祭祀の規則を定めてユダヤ教を確立した。そこに説かれた最後の審判や天使・悪魔の思想には,ゾロアスター教の影響がみられる。彼らのあいだには,のちに信仰や日常生活の規則である律法を極端に重んずるパリサイ派もあらわれたが,この形式化した信仰にあたらしい生命をふきこんだのがイエスであった。なお,ヘブライ人が書き残した伝説や神への賛歌,預言者のことばなどをまとめたユダヤ教の経典は,『旧約聖書』として,イエスの教えを伝えた『新約聖書』とならんでキリスト教の経典となり,のちにギリシア・ローマの古典とともにヨーロッパ人の精神の糧として,思想・芸術の大きな源泉となった。


@ ギリシア・エーゲ海諸島方面より,この地に海路侵入した諸民族をいう。その系統は不明の点が多い。
A アラム文字から派生した文字としては,ヘブライ文字・アラビア文字・シリア文字・ソグド文字・突厥文字・ウイグル文字・モンゴル文字・満州文字などがある。
B ヘブライ人とは外国人によるよび名で,彼ら自身はイスラエル人と称した。またバビロン捕囚後は,ユダヤ人とよばれることが多い。

●古代オリエントの統一●
 セム系のアッシリアは,前2千年紀@初めに北メソポタミアに建国し,小アジア方面との中継貿易に活躍したが,前15世紀には一時ミタンニ王国に服属した。しかし,やがて独立を回復し,鉄製の武器と戦車・騎兵によって周囲に勢力をのばし,前7世紀前半に全オリエントを征服した。アッシリア王は典型的な専制君主として中央集権的に軍事・政治・宗教を統括し,国内を州にわけ,駅伝制を設け,各地に総督をおいて統治した。この最初の世界帝国は,重税と圧政によって服属民族を苦しめたため,反抗をまねき,前 612年には崩壊して,オリエントにはエジプト・リディア・新バビロニア(カルデア)・メディアの4王国が分立することになった。なかでも新バビロニアはもっとも優勢で,ネブカドネザル2世のときメソポタミア・シリア・パレスチナなどの地を支配した。
 しかし前6世紀のなかばころ,インド=ヨーロッパ系のペルシア人(イラン人)のアケメネス朝がおこり,キュロス2世のもとで諸国を征服し,第3代のダレイオス(ダリウス)1世は,西はエーゲ海北岸から東はインダス川におよぶ大帝国を建設した。彼は全国を約20州にわけ,各州に知事(サトラップ)をおいて統治し,「王の目」や「王の耳」とよばれる監察官を巡察させて中央集権をはかった。また金・銀貨を発行し,税制をととのえ,海上ではフェニキア人の貿易を保護して,財政の基礎をかためた。陸上では全国の要地を結ぶ「王の道」とよばれる国道をつくり,駅伝制をしいた。服属した異民族に対しては,その風習を尊重し,自治を認めて寛容な政治をおこなった。アケメネス朝は約 200年間オリエントを支配したが,前5世紀前半にギリシアとたたかって敗れ(ペルシア戦争),前4世紀には知事の反乱になやみ,ついにアレクサンドロス大王に征服された(前 330年)。
 ペルシア人は,領土内の諸民族の文化を統合して,より高い世界的文明をきずこうとして,建築や工芸などに成果をあげ,また楔形文字を表音化してペルシア文字をつくったA。彼らの信仰したゾロアスター教(拝火教)は,この世を善(光明)の神アフラ=マズダと,悪(暗黒)の神アーリマンとのたえまない闘争と説き,人間の幸福は,光明神の恩恵をえて,最後の審判により楽園におもむくことにあるとしたB。またインド・イラン起源の神秘的なミトラ神信仰は,ゾロアスター教の一部にもとり入れられたが,のちにローマ世界に伝えられてミトラ教となった。


@ 前2千年紀とは,紀元前2000〜前1001年までの1000年間をさす。前何千年紀という表現は,先史や古代において,はっきりした年代が不明な場合に用いられることが多い。
A 公用語としてはペルシア語・エラム語・アッシリア語(新バビロニア語)・アラム語などが用いられた。
B この教えはユダヤ教やキリスト教にも影響をあたえ,南北朝・隋唐時代の中国に伝わり,」教とよばれた。
2 ギリシア世界

●地中海世界の風土と民族●
 ヨーロッパ古代文明の舞台である地中海沿岸は,東は小アジアから西はイベリア半島まで,ほぼ共通の自然条件を持っている。ナイル川をのぞき,大河や大平野はなく,土地は石灰岩質でやせ,雨は少なく,とくに夏の乾燥は激しい。北イタリアのように穀物農業に適した地域もあるが,多くはオリーヴ・ブドウなどの果樹栽培や羊の牧畜に適している。人々は海岸に沿って都市をつくって分立したが,地中海はこれら諸都市を結ぶ交通路となった。穀物やオリーヴ油など各地の特産品がさかんに取引され,文化も相互に伝播した。古代の地中海沿岸が文化的に一つのまとまりを持つ世界を形成したのには,こうした地中海の役割が大きい。
 地中海北岸のヨーロッパ側では,主としてインド=ヨーロッパ語族の西方系の言語を用いる諸民族が活動し,南岸のアフリカ側ではセム・ハム系の諸族が活動した。これらのうち,ヨーロッパの古代文明にもっとも大きな役割をはたしたのは,インド=ヨーロッパ系に属するギリシア人と古代イタリア人(代表的なものがラテン人)である。

●エーゲ文明●
 ヨーロッパの古代文明は,前3千年紀の初めころからオリエントの影響をうけて,地中海東部からひらけた。前20〜前12世紀に栄えたエーゲ文明がこれである。この文明の内容は19世紀なかば以後,ドイツのシュリーマン,イギリスのエヴァンズらの発掘によってしだいにあきらかになった。
 はじめ文明の最大の中心地はクレタ島であった。クレタ文明(ミノス文明)をつくった民族の系統や社会組織はまだあきらかではないが,クノッソスの複雑な構造を持つ大宮殿の遺跡から,強い権力を持った王の支配や,海上貿易がさかんであったことが推測される。当時はまだ青銅器文化の段階にあったが,宮廷の婦人や海の動物をえがいた壁画,動植物をえがいた壷絵などから,オリエントとはちがったいきいきと写実的で,はなやかな海洋的な性格を持っていたことがわかる。
 ギリシア人の一部(アカイア人)は,前20世紀ころからギリシアの地に侵入・定着し,クレタ文明やオリエントの文明の影響をうけて,ミケーネ文明をうんだ。前15〜前13世紀ころにギリシア本土のミケーネ・ティリンスなどで栄えた文明がこれである@。これらの小王国は巨石できずいた城塞を持ち,役人を使って人民から貢納をとりたてるなど,オリエント的な専制国家に発展する傾向を持っていた。
 一方,小アジアのトロヤにも古くから文明がおこっていたが,のちギリシア人にほろぼされ,ミケーネ文明も,ギリシア人のうちでおくれて南下したドーリア人(ドーリス人)のため,つぎつぎに破壊されてしまった(前1100年ころ)。このころからギリシアは鉄器文化の段階に入るが,以後数世紀間,暗黒時代とよばれる混乱が続くことになった。


@ ミケーネ時代のギリシア人はクレタの絵文字(未解読)をうけてあたらしく線状文字をつくったが,その一部はイギリスのヴェントリスらによって解読されている。

●ポリスの成立●
 ギリシアは,平野にとぼしく,島が多く,複雑な海岸線を持っている。ギリシア人は前20世紀ころから南下定住をはじめ,前12世紀ころドーリア人が南下すると,先住のギリシア人は,追われてエーゲ海の島々や小アジア西岸にも移住した。移動がおわるころには,彼らは方言の違いにより,イオニア人・アイオリス人・ドーリア人にわかれていた。
 ミケーネ文明の滅亡後,長い混乱が続いたが,各地に分立したギリシア人は,前8世紀ころから,王や貴族のもとでアクロポリス(城山)とアゴラ(広場)を中心に集住(シノイキスモス)し,多数のポリスが成立した。ポリスはそれぞれ独立の小都市国家で,その間には戦争のたえまがなく,古代のギリシア人は一つの国にまとまることはなかった。しかし,彼らは共通の言語や宗教,ホメロスの詩,デルフィのアポロン神の神託,オリンピアの民族的祭典,隣保同盟などによって,一民族としての意識を失わず,自分たちをヘレネス,異民族をバルバロイ@とよんで区別した。古代ギリシア史は,ポリスの発生・発展・没落の歴史といえる。


@ 「聞きぐるしいことばを話すもの」という軽蔑的な意味。

●ポリスの発展●
 ギリシア人のあいだには,すでに貴族・平民・奴隷の別があり,各ポリスははじめ王を頂いていたが,これはオリエントのような専制的な支配者ではなく,貴族の第一人者という性格のものであった。このため前7世紀ころまでには,馬を飼い,高価な武具をそなえて国防をになう貴族が政治を支配するようになった。このころ人口が増加し,土地が不足したこともあって,ギリシア人は広く地中海や黒海沿岸に進出し,各地に植民市を建設して貿易をおこなうようになった。
 前7世紀に小アジアのリディア王国ではじめて貨幣がつくられ,ギリシア人もそれにならうと,商業がさらにさかんになり,これに従事する富裕な平民があらわれた。また工業が発達して武具の価格が安くなると,一般の平民でもそれを買って参戦できるようになり,彼らの重装歩兵部隊が軍隊の主力になった。その結果,平民は貴族の政権独占に対し参政権を要求して争うようになり,アテネのドラコンのような立法者があらわれて,法による秩序の維持をはかった。前6世紀初めのアテネでは,ソロンが貴族と平民の争いを調停し,財産の大小により市民の権利義務を定め(財産政治),また負債を帳消しにして市民の奴隷化を防止した。ついで不満を持つ平民の支持をえて貴族の政権を倒し,非合法に独裁権をにぎる僭主が多くのポリスにあらわれたが,一般に僭主政治は専制的で,その支配は永続しなかった。しかしなかには,アテネのペイシストラトスのように,農民を保護し,文化を奨励したものもあった。ついでアテネでは,クレイステネスが陶片追放(オストラシズム)@の制を設けて僭主の出現を防ぐなど,大改革をおこなって民主政治への道をひらいた。
 前5世紀初めころ,東方の大帝国アケメネス朝ペルシアの支配に対し,小アジアのミレトスを中心にイオニア植民市の反乱がおこり,これを機として,ペルシア戦争がはじまった。アテネはペルシア軍の侵入をマラトンの戦い(前 490年)で撃退した。さらに前 480年ふたたびペルシア軍をテミストクレスのひきいる海軍がサラミスの海戦で撃破し,陸上ではスパルタと連合してプラタイアで勝利をあげた。この勝利は,東方の専制政治に対して,ギリシア市民の自由と独立をまもったものとして意義ぶかい。
 この戦争で中心となってたたかったアテネは,ペルシアの報復にそなえて結成したデロス同盟Aによって,ほかのポリスを支配したが,反面,アテネでは軍艦のこぎ手として働いた無産市民も政治に参加するようになった。その結果,成年男子市民の出席する民会が政治上の最高機関となり,ペリクレスのもとで民主政治が完成した。将軍職など特別のものをのぞいて,ほとんどすべての官職や裁判の陪審員が市民に開放されて抽選で選ばれた。この民主政はほかのポリスにも普及したが,今日の民主政とちがう点は,奴隷制度を基礎としていたこと,参政権が成年男子市民にかぎられており,代議制でなく,すべての市民が集まって議決する直接民主政であったことや,政党がなかったことなどである。


@ 市民が僭主になるおそれのある人物の名を陶器の破片(オストラコン)に書いて投票し,投票総数が6000票以上あったとき最高得票者1人が(または6000票以上の票をえたものが)10年間,国外に追放される制度。
A サラミスの海戦ののち,エーゲ海一帯のギリシア諸都市が前 478〜前 477年ころにつくった同盟。その金庫がはじめデロス島におかれたので,このようによばれた。

●奴隷制度●
 ギリシアのポリス社会は,古代のイタリアとともに,世界史上もっとも奴隷制が発達した社会である。奴隷として売買されたものは,捕虜や,借財のため転落した市民,また奴隷として輸入された異民族などで,前5世紀のアテネでは,異民族の奴隷が人口の約3分の1くらいを占めていた。その多くは家内奴隷であったが,鉱山の採掘には多数の奴隷が使われ,工業にも多く使われた。
 アテネとならぶスパルタはドーリア人のポリスで,参政権を持つ少数の市民が,商工業に従事するペリオイコイ(周辺の民)や多数の被征服先住民のヘロット(奴隷身分の農民)を支配した。ここでは国防を強化し,またヘロットの反乱にそなえて,リュクルゴスの制として知られるきびしい軍国主義的生活規定がうまれた。古代ギリシア・ローマの市民が農業以外の生産活動を重視しなかったのは,奴隷制度が影響している。

●ポリス社会の没落●
 アテネはデロス同盟の盟主としてほかのポリスを支配したが,これに反発したスパルタはペロポネソス同盟をひきいてアテネと争い,前 431年ペロポネソス戦争がおこった。この戦争のあいだに,アテネの民主政治は扇動政治家(デマゴーゴス)のもとに衆愚政治におちいり,ついにスパルタに屈服した。前4世紀前半にはスパルタにかわってテーベが一時有力になったが,多くのポリスはペルシアにあやつられて抗争を続けた。このたえまない戦争で農業は荒廃し,ポリス社会は大きく変質していった。貨幣経済の浸透によって貧富の差が激しくなり,土地を失う市民が続出したため,傭兵の使用が流行して,市民みずからがポリスをまもる原則はくずれた。こうしてポリス社会が内部からくずれはじめた前4世紀後半,北方からおこったマケドニアのフィリッポス2世がギリシアに侵入した。アテネのデモステネスはテーベと連合してこれとたたかったが敗れ(前 338年,カイロネイアの戦い),フィリッポス2世は多くのポリスを集めてコリント同盟(ヘラス同盟)をつくり,ギリシアを支配することになった。

●ギリシア文化●
 ギリシア人は東方の先進文化をうけいれ,しかもこれとは異質の明るい人間的で合理的な文化をつくりだした。それは自由なポリス市民の公共生活のなかからうまれたものであった。彼らの宗教はゼウスを中心とするオリンポス12神の信仰で,神は人間と同じ姿を持ち,人間と喜怒哀楽をともにすると考えられ,オリエントのような特権的神官も固定した経典もなかった。現世を肯定する美しいギリシア神話はこうした自由な宗教生活からうまれ,文学や美術にも影響をあたえた。
 最古の文学はホメロス(ホーマー)の叙事詩(『イリアス』『オデュッセイア』)で,トロヤ戦争に題材をとり,長くヨーロッパで親しまれている。ヘシオドスは神話を整理し(『神統記』),勤労の尊さをうたった(『労働と日々』)詩人であるが,こうした労働観はポリス社会ではまれであった。前7世紀ころから人間の個性にめざめた叙情詩がさかんになり,アナクレオン・ピンダロスや女流詩人サッフォーがあらわれた。ついで演劇が栄え,アテネでは前5世紀,悲劇にアイスキュロス・ソフォクレス・エウリピデスの3大詩人,喜劇に『女の平和』などの作品で世相を風刺したアリストファネスがでた。
 現世を肯定し,人になぞらえた神を創造したギリシア人は,写実的で均整と調和のとれたみごとな美術をうみだした。フェイディアスやプラクシテレスらのつくった神像は,崇高さや肉体美の理想を示している。今は失われたフェイディアスの「アテナ女神像」はその代表的作品であった。ヘレニズム期の「ミロのヴィーナス」はこの伝統をついだすぐれた作品である。建築では均整が重んじられ,おもに柱の様式により,荘重なドーリア式,優雅なイオニア式,繊細なコリント式などにわかれた。アテネのパルテノン神殿はドーリア式建築の代表である。
 学問の分野では,まず前6世紀初めにイオニアの都市ミレトスを中心に自然哲学がおこり,タレースをはじめとしてピタゴラス・ヘラクレイトス・デモクリトスらがでて自然の本質を合理的に探究した。ついで民主政の発展期には,民会や法廷での弁論を教える職業教師ソフィストがあらわれ,その代表者プロタゴラスは,「人間は万物の尺度である」として,絶対的な真理の存在を否定した。これに対しソクラテスは絶対的真理の存在と知徳一致を説いて,ポリス市民の生き方を教えたが,誤解されて刑死した。ポリス社会の変質期にでたプラトンは,ポリスの理想的なあり方を求めてイデア論・理想国家論を説いた。またその弟子アリストテレスは古代最大の総合的哲学者で,その学説は中世スコラ学に大きな影響をあたえた。一方,自然哲学の流れから自然科学もおこり,ピタゴラスによる数学,ヒッポクラテスによる医学の発達などがあったが,奴隷という労働力があったため,科学知識は工業生産には利用されなかった。
 また市民のなかには,自由な立場で歴史を書くものもあらわれた。ペルシア戦争史を物語風に書いたヘロドトス,ペロポネソス戦争史を批判的・教訓的に書いたトゥキディデス,政体循環史観にたってローマの歴史を書いたポリビオスらが重要である@。


@ ホメロスの詩をはじめとするギリシアやローマの文芸や学問・思想に関する作品は,近代のヨーロッパ人により,「古典中の古典」として尊重されたため,ギリシア・ローマ時代は西洋の「古典古代」とよばれる。
3 ヘレニズム世界

●ヘレニズム時代●
 ギリシアを征服したフィリッポス2世の子がアレクサンドロス大王である。当時ペルシアはしばしばギリシアに干渉を加えていたが,大王はこれを討つためにマケドニア・ギリシアの兵をひきいて東方遠征(前 334〜前 324年)に出発し,わずか10年のあいだにギリシア・エジプトからインド西部にまたがる大帝国を建設した。彼はオリエント風の専制君主として支配し,また東西の融合という大理想の実現をはかったが急死した。その後は部下の将軍たちが領土をめぐっていわゆるディアドコイ(「後継者」)の争いを続け,帝国は前3世紀前半にはエジプト(プトレマイオス朝),シリア(セレウコス朝),マケドニア(アンティゴノス朝)などの諸国に分裂した。アレクサンドロス大王の東征からのち約 300年間をヘレニズム時代という。
 ヘレニズム時代の3王国は,前1世紀までにはすべてローマにほろぼされた。この3世紀間に,経済・文化の中心は東方に移った。ことにプトレマイオス朝の支配するエジプトは,マケドニア人・ギリシア人がエジプト人を支配した専制国家として富強を誇り,首都アレクサンドリアはおおいに繁栄した。またこの時代には多数のギリシア風の都市が東方に建設されたが,オリエント古来の社会の性格はかわらず,のちにローマ帝国がおとろえると,オリエントはふたたび東方文化の世界に復帰した。

●ヘレニズム文化●
 ヘレニズム時代にはギリシア人がさかんに東方に移住したため,ギリシア文化が広く普及し,東方の要素と融合して,あたらしい文化がうまれた。これをヘレニズム文化(ギリシア風の文化)という。美術もはなやかではあるが,こまかい技巧に流れる傾向をうんだ@。またポリスが没落し,ギリシア人としての民族的意識がおとろえたため,個人主義や世界市民主義(コスモポリタニズム)の風潮がおこった。これを反映して,哲学も政治からの逃避や個人の心の平安を追求するようになり,禁欲を説くゼノンのストア派や,精神的快楽を求めるエピクロス派(エピクロスが祖)がさかんになった。
 この時代にはギリシア語(コイネー)が共通語となり,アレクサンドリアの王立研究所(ムセイオン)を中心に,自然科学が隆盛をきわめた。エラトステネスは地球の周囲の長さをほぼ正確にはかり,アリスタルコスは太陽中心説を説き,アルキメデスは数学・物理学の諸原理を発見した。エウクレイデスは平面幾何学を大成し,また医学も解剖学を基礎に発達した。これらは,のちにイスラムの自然科学の発達に寄与し,またギリシア美術の様式は,東方のインドから遠く中国・日本にも影響をあたえている。


@ ヘレニズム時代の彫刻として「ラオコーンの群像」や「ミロのヴィーナス」などが有名である。
4 ローマ帝国

●共和政ローマ●
 ドーリア人がギリシアに南下した前12世紀ころ,同じインド=ヨーロッパ西方系のイタリア人も,イタリア半島に南下定着した。ローマはイタリア人の一派のラテン人が,半島中部のティベル河畔に建設した王政の小都市国家からおこり,前6世紀末に先住民族のエトルリア人からでた王を追放して,共和政をつくった。ローマでは,このころすでに貴族と平民の分裂がおこっており,初期の共和政は貴族の手ににぎられていた。役人は任期1年であったが,最高官の2名の執政官(コンスル)をはじめ,あらゆる官職は貴族に独占され,貴族出身の終身議員で構成する元老院が国政上の実権をにぎっていた。やがて中小農民を主体とする平民も,重装歩兵として国防をになうようになったため,参政権を要求して貴族と争い,前5世紀初め平民出身の護民官の制度がうまれた。前5世紀なかば,ローマ最古の成文法である十二表法@が制定され,前 367年にはリキニウス=セクスティウス法により,執政官の1人は平民からだすようになった。前3世紀には,あらゆる官職が平民に開放され,またホルテンシウス法(前 287年)によって,平民会の決議が元老院の承認をへず国法と認められることになり,貴族と平民の政権争いはおわった。しかしローマはアテネとちがって農業国であったから,平民会は土地所有者に有利にしくまれ,また元老院が市民に対して大きな権威を持って国政を指導した。非常時のために任期半年の独裁官(ディクタトル)の制度を設けたのも,ギリシアの民主政とちがっていた。


@ 貴族が独占的に伝えてきた慣習法を成文化して12枚の板にしるし,平民にも公開したもので,平民の地位の向上に役立った。

●ローマの発展と内乱●
 前4〜前3世紀のローマでは,軍隊の主力である農民の重装歩兵が健在であった。貴族と平民とは政権を争う一方,対外進出には協力してしだいに支配を広げた。前3世紀前半にはイタリア半島を実権下におさめ,軍道や植民市をつくり,被征服地の待遇に差別を設ける分割統治の原則で支配し,彼らの団結や反抗を防いだ。ついでローマは地中海に進出し,当時西地中海に大勢力を持っていたフェニキア人の植民市カルタゴとのあいだに,3回にわたるポエニ戦争(前 264〜前 146年)をおこした。その第2回目の戦いでは,カルタゴの名将ハンニバルのイタリア侵入をうけたが,スキピオの活躍によって危機を脱し最後の勝利をえた。また前2世紀以来,東地中海にも出兵してギリシアやマケドニアを征服し,同世紀なかばには,地中海は事実上ローマの内海となった。
 しかしこの急速な対外発展の裏には,そのにない手であった中小土地所有農民の没落がおこっていた。重装歩兵として働いた彼らが多年の従軍によって窮乏する一方,奴隷制農業にたつ大所領(ラティフンディア)の発展によって,彼らの土地はつぎつぎに買い占められた。さらに属州@から安価な穀物が大量に輸入されたことなどのため,イタリアの農民のなかには農業をすてるものが多くあらわれた。これらのおちぶれた農民のうちには首都ローマに集まって,「パンと見世物」を要求するものが多かった。他面,前2〜前1世紀は奴隷制Aの最盛期で,シチリアや南イタリアの大反乱など,あいつぐ奴隷反乱が市民をおびやかした。市民のあいだでも貧富の対立が激化し,名門出身で元老院の権威を重んずる閥族派と,平民会に拠る平民派とが対立し,また土木事業や徴税の請負などで財力をたくわえた騎士とよばれる人々が政界に進出して,ローマは内乱の状態に入った。
 この危機をくいとめようとしたのがグラックス兄弟である。兄弟はあいついで護民官に選出され(兄前 133年,弟前 123・前 122年),大土地所有者の土地を没収して貧民にわけ,自作農を多数つくって政治・軍事のにない手を再建しようとした。しかしそれも大地主の反対にあって失敗し,前1世紀には平民派のマリウスと閥族派のスラとが,私兵化した軍隊をひきいて激しく争うようになった。また前1世紀初めには,ローマ市民権を要求する同盟市との戦争や,東地中海の海賊の活動,スパルタクスのひきいる剣奴の反乱などがあいつぎ,ローマの混乱は頂点に達した。前60年には平民派のカエサルと大富豪クラッスス,および海賊討伐に功をたてたが元老院と不和になったポンペイウスの3人が結んで元老院をおさえ,共和政とはあいいれない第1回三頭政治(前60〜前53年)をはじめた。そのとりきめの結果,ガリア(今のフランス・ベルギー地方)を任地としたカエサルはここに遠征し,この地のケルト人を平定した。やがてポンペイウスが,彼をねたんで元老院と結んだため両者が対立したが,カエサルが勝利をえて天下を平定した(前46年)。
 カエサルは文武にすぐれた政治家で,貧民の救済,属州政治の改革などに成果をあげた。しかし元老院を軽視して独裁にはしったため,ブルートゥスらの共和主義者に暗殺され,ローマはふたたび乱れた。その間第2回三頭政治がカエサルの養子オクタヴィアヌスとカエサルの部下アントニウス・レピドゥスによっておこなわれた。やがて東方でプトレマイオス朝の女王クレオパトラと結んだアントニウスを,オクタヴィアヌスがアクティウムの海戦で破り, 100年におよぶ内乱はようやくおさまった(前30年)。


@ イタリア半島以外のローマの征服地をいい,第1回ポエニ戦争で獲得したシチリアが最初の属州である。
A ローマでは,家内奴隷や鉱山業・手工業の奴隷のほか,大所領での農牧や果樹栽培に奴隷が大規模に使用された点で,ギリシアよりも奴隷制がいっそう徹底していた。

●ローマ帝国●
 オクタヴィアヌスは元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号をうけ(前27年),文武の要職をにぎり,国政・軍備の整備,文化の奨励などに成果をあげた。彼は共和政の形式を尊重し,プリンケプス(第一の市民)として政治をおこなった(元首政)が,実際には独裁君主であったので,これ以後を帝政時代という。以後いわゆる五賢帝@の時代がおわるまで,約2世紀のあいだ,ときにはネロのような暴君もでたが,帝国は一般に平和でA,最盛期をむかえた。この間,トラヤヌス帝のとき,ローマの領土は最大となった。経済活動もさかんで,インドとの季節風貿易もおこなわれ,アジアの香辛料・絹などがもたらされた。帝国内には多数のローマ風都市が建設され,そのなかには,ロンドン・パリ・ウィーンなど,今日まで栄えているものが少なくない。また自由に政治に参加できるローマの市民権も,属州に拡大され,3世紀初めのカラカラ帝のとき,帝国全土の自由民にあたえられた。
 しかし五賢帝最後のマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の治世の末ころから,帝位をめぐる争いなどで帝国の政治は乱れはじめ,3世紀には各地の軍隊がかってに皇帝をたてて争う軍人皇帝の時代となった。また北方のゲルマン人,東方のササン朝などの侵入が激しくなり,帝国の支配は動揺した。


@ ネルヴァ・トラヤヌス・ハドリアヌス・アントニヌス=ピウス・マルクス=アウレリウス=アントニヌスの5人の皇帝をいう。
A アウグストゥスから五賢帝にいたるまでのローマ帝国の最盛期を「ローマの平和」(パックス=ロマーナ)という。

●古代の終末●
 3世紀末になってディオクレティアヌス帝が混乱を平定し,帝国の安定をはかるため,皇帝崇拝を強化してオリエント風の専制支配をおこなったので,これ以後を専制君主政時代という。彼はまた帝国を4分して,2人の正帝と2人の副帝によっておさめる策をとったが成功しなかった。ついでコンスタンティヌス帝は帝国統一の必要から,従来の皇帝たちが敵視していたキリスト教を公認し,ビザンティウムをコンスタンティノープルと改称して都を移し( 330年),巨大な官僚制度を確立して帝国を支配し,人民の職業選択の自由を制限しようとした。この結果,ギリシア時代から続いた市民の自由は失われた。しかしこれらの大改革も帝国の解体を防ぐことはできず, 395年テオドシウス帝は,ついに帝国を東西に分割して2子にわけあたえた。そのうち東ローマ(ビザンツ帝国)は以後1000年あまり続いたが,西ローマは 476年に滅亡した。
 西ローマがほろびるまでには,北方からゲルマン民族がしきりに領内に侵入していたが,帝国がこれを防げなくなったのには多くの理由があった。本土のイタリアは,このころまったく兵をださず,国境をまもるべき属州の軍隊に多数のゲルマン人の傭兵が採用されていた。これら多数の軍隊と役人に要する費用をえるため,歴代の皇帝が都市に重税をかけたので都市が没落し,都市を中心とする経済や文化もおとろえた。また都市を去って地方に移った有力者の大所領が帝国の行政からしだいに独立するようになって,中央政府の支配力が弱まった。
 一方,大所領の内部でも重大な変化がおこっていた。帝政中期以後,多数の奴隷を使って商品生産をめざす大規模な奴隷制経営にかわって,奴隷の地位を向上させたり,自由な小作人の移転を禁じたりするようになった。こうして生じた隷属的な小作人(コロヌス)から地代をとって自給自足する小作制(コロナートゥス)が普及し,これが中世の農奴制の先駆となった。また都市の衰退や政府の貨幣改悪などによって商業もふるわなくなり,社会はしだいに封建社会に近づいていった。

●ローマ文化●
 ローマ人は,先進のギリシア人の精神文化がきわめて高かったので,ギリシア人のような独創的文化をつくりだすことができず,多くはその模倣におわった。
 アウグストゥス時代はラテン文学の黄金時代といわれ,ローマの建国伝説をうたった叙事詩『アエネイス』の作者ヴェルギリウス(ヴァージル)や,ホラティウス・オヴィディウスらの詩人がいるが,いずれもギリシア文学の模倣が著しい。ギリシア思想をローマ人に普及させるのに功績があったのは,ローマ最大の散文家・雄弁家のキケロであった。ストア派の哲学も上流社会の実践倫理として流行し,セネカ・エピクテトス・マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝@などの哲人がでた。またローマ人の宗教はギリシアと同じく,現世的色彩の強い多神教であったが,帝政期の民衆のあいだにはミトラ教など東方の神秘的宗教が流行し,キリスト教もしだいに広まってきた。
 歴史家としてはリヴィウス(『ローマ史』),タキトゥス(『ゲルマニア』)などが名高く,プルタルコス(プルターク)は『対比列伝』(『英雄伝』)を残した。自然科学は『博物誌』を書いたプリニウスによって集大成され,プトレマイオスは天動説をとなえ,その説はアラブ人をつうじて中世ヨーロッパに伝えられた。このほか『地理誌』をあらわしたストラボンなどがいるA。
 他面,ローマ人は政治の実際面に長所を発揮し,ローマ法は後世に大きな影響をあたえた。これは慣習法を成文化した十二表法にはじまったが,帝政期になって市民権が拡大され,ヘレニズム思想の影響が加わるにつれて,ローマ市民だけに適用されていた市民法は世界的な性格を持つようになった。その結果,帝国内のあらゆる民族に共通な万民法が成立した。6世紀前半,東ローマのユスティニアヌス帝は,トリボニアヌスらの多数の法学者を集めて,その集大成である『ローマ法大全』を編集させた。
 ローマ人はまた土木建築などの実用面にすぐれ,各地に道路・水道をしいたほか,闘技場・浴場・凱旋門など,壮大な公共建築物をつくった。アッピア街道やローマ市のコロッセウム(円形闘技場),パンテオン(万神殿)など今日まで残るものも少なくない。建築は芸術というよりは実用を主とし,アーチの使用が特色である。このほかカエサルはエジプトの太陽暦を修正してユリウス暦をつくったが,これを改良したのが,今日用いられているグレゴリ暦Bである。またローマ人はギリシア文字からうまれたローマ字を使い,そのことばであるラテン語を帝国内に普及させたC。


@ 外征の陣中にギリシア語で書いた『自省録』は有名である。
A プルタルコス・プトレマイオス・ストラボンなどはいずれもギリシア人であって,武力で征服されたギリシア人が,文化のうえではローマ人を征服したといえる。
B 16世紀末にローマ教皇グレゴリウス13世が改良してつくった。
C 現代欧米諸国の文字(アルファベット)や,イタリア・スペイン・ポルトガル・フランスなどのロマンス系言語は,いずれもこれからでたものである。
5 キリスト教の成立と発展

●キリスト教の成立●
 ローマの属州となったパレスチナでは,ローマ帝政のはじめころ,ヘブライ人の一神教から発展したユダヤ教が信仰されていた。伝えによれば,この地にうまれたイエスは,ユダヤ教の一派であったパリサイ派の人たちの偽善と戒律主義を激しく批判し,身分や貧富の差をこえた神の絶対愛を信じ,おのれを愛するように隣人を愛すべきことを説いた。この教えは,神の国は信ずる人の心のなかにあること,それは最後の審判によって完成されることを約束した。イエスにしたがうものは,彼を神のつかわした救世主(メシア),すなわちキリスト@とみなしたが,ユダヤ教の祭司やパリサイ派の人々は彼を敵とし,民衆もまた彼の教えが内面的で,現世的な救いをもたらすものではないことに失望した。反対派はイエスをとらえ,彼をローマに反逆をくわだてるものとして総督ピラトに訴えた。イエスはイェルサレムの郊外で十字架の刑に処せられたが(30年ころ),まもなく弟子たちのあいだに,イエスは復活したとの信仰がうまれ,十字架上の死は,神のひとり子が人間にかわって罪をあがなったものと信じられ,これらの信仰がもとになってキリスト教が成立した。


@ メシアとは「膏をそそがれたもの」,つまり神から特別に祝福されたものの意味で,キリストとはメシアのギリシア語形である。

●キリスト教の発展●
 キリスト教は,ペテロなどの使徒の活動や,とくにパウロの異邦人(ここではユダヤ人以外の人々)への伝道によってローマ帝国内に広まり,各地に信者の団体(教会)がうまれた。彼らは,現世の利益を求めるギリシア・ローマの多神教とあいいれず,また皇帝崇拝を認めようとしなかったので,ネロ帝以来,たびたび迫害をうけて多くの殉教者をだした。しかしキリスト教は,3世紀ころまでに,下層市民や奴隷のあいだに広く普及し,しだいに上流社会にも広がっていった。このあいだに,キリストの言行をしるした『福音書』,初代使徒の活動をのべた『使徒行伝』,および使徒の書簡などが集められて『新約聖書』が成立し,『旧約聖書』とともにキリスト教の経典となった。
 残酷な迫害にもかかわらず,キリスト教徒はますます増加した。そのため皇帝も,彼らを敵としては帝国の統一が不可能なことをさとり,4世紀初めのディオクレティアヌス帝の「最後の大迫害」のあと, 313年,当時帝国の西半部を支配していたコンスタンティヌス帝は,ミラノ勅令をだしてキリスト教を公認した。さらに 324年,彼が帝国を統一すると,キリスト教は全帝国の公認宗教となった。ところが当時,教会には神学上の見解の対立があったので,帝は 325年ニケーアに公会議(宗教会議)をひらき,キリストを神の子と認めるアタナシウスの説を正統教義とし,キリストの神性を否定するアリウス派を異端とした。アタナシウスの説は,のちに三位一体説@として確立した。4世紀後半に,「背教者」として知られるユリアヌス帝は,古典文化の復興をくわだて,キリスト教をおさえたが成功せず, 392年,テオドシウス帝はついに正統のキリスト教を国教として,ほかの宗教を厳禁するにいたった。
 このころまでに教会の組織化が進み,一般信徒の指導・管理にあたる司教や司祭などの聖職者身分が成立するとともに,教父とよばれる学者が多くあらわれ,正統の教義の確立につとめた。なかでも『告白録』や『神の国』などを書いたアウグスティヌスの思想は,後世の神学の発展に大きな影響をあたえた。
 ニケーア公会議で敗れたアリウス派は北方のゲルマン人のあいだに広まったが,その後も公会議がしばしばひらかれ,さまざまの教説が異端とされた。なかでもネストリウス派は,5世紀にエフェソスの公会議で,キリストの神性を十分認めないとの理由で異端とされたが,ササン朝をへて唐代の中国にまで伝わり,景教とよばれた。


@ 三位一体説とは,父なる神と,子なるキリストおよび聖霊とは,三つでありながらしかも同一であるとする説。
第3章 アジアの古代文明

 西アジアでは,アレクサンドロスの帝国の分裂によりギリシア系のセレウコス朝が成立したが,そのなかからパルティアやササン朝などイラン人の王国がおこった。とくにササン朝はギリシア・ローマの影響をうけ,ゾロアスター教を中心とする高度な国際的文化を形成した。イラン人は7世紀にアラブ人に征服され,イスラム教に改宗したのちも独自の文化的伝統を維持しつづけた。
 インドでは,メソポタミアの影響をうけて最古の潅漑文明の一つであるインダス文明が栄え,ついで西北から侵入したアーリヤ人は,バラモン教のもとに独自のカースト制度の社会をうみだした。やがてこれを批判する仏教その他の新宗教がおこり,とくに仏教文化は,マウリヤ朝やクシャーナ朝の諸王に保護されて発展し,東南アジア・中国・朝鮮・日本などに伝播した。しかし,カースト制度の束縛が強いインドでは,やがてヒンドゥー教にとってかわられ,仏教はしだいに衰退した。
 東南アジアは東西の海上交通の接点にあり,インドや中国の影響のもとにおくれて文明がおこった。とくにインドのヒンドゥー教・仏教の影響が強く,13世紀には半島部のミャンマー(ビルマ)・タイを中心にスリランカ(セイロン)系の南方仏教圏が形成された。一方,中国に近いヴェトナムでは,儒教文化が主流を占め,政治的には10世紀なかばまで中国の支配下にあった。
 東アジアでは,西方の初期農耕文化の影響もあって,肥沃な黄河流域に,殷・周の都市文明が形成された。やがて戦国時代に鉄器文化が普及すると,国家統一の機運が進み,秦の始皇帝は最初の統一国家を形成し,これをついだ漢帝国は約 400年間続いて,儒教を統治原理とする官僚国家体制の基礎をつくった。一方,北方の遊牧騎馬民族,とくに匈奴との争いが続くなかで,前漢の武帝は中央アジアにいたる地域を征服して,東西を結ぶオアシスの道をひらいた。
 このように,西アジア・南アジア・東アジアの古代社会は,それぞれ独自の文明を発展させたが,それらに共通する点は,宗教にささえられた強大な王権の保護をうけて高度な文化的伝統がきずかれたことである。

1 イラン文明

●パルティアとササン朝●
 イランの大部分は高原性の台地であるが,広大な砂漠もあれば,自然の降雨や人工潅漑による豊かな農耕地もある。このような自然条件に対応して,イラン(ペルシア)@人は昔から農耕民や遊牧民としての生活を続けてきた。アレクサンドロスの死後,彼が征服したアジアの領土はすべてギリシア系のセレウコス朝にうけつがれた。しかし前3世紀のなかばに,アム川上流のギリシア人が独立してバクトリアをたてると,遊牧イラン人の族長アルサケスは,カスピ海東南にパルティア(安息)を建国した。パルティアは,セレウコス朝をシリアへと圧迫して領土を広げ,前2世紀のなかばに国力がもっともさかんになった。首都は各地を転々としたが,西方のメソポタミア平原を支配下にいれると,ティグリス川流域のクテシフォンに都を定め,東方ではバクトリア,月氏のクシャーナ朝と国境を接した。こうして東西貿易路の要所をおさえたパルティアは,交易の利益を独占しておおいに栄えた。しかし前1世紀のなかば,セレウコス朝を倒したローマの東方進出によって,パルティアの国力はしだいにおとろえ, 226年,農耕を基礎としたイラン人のササン朝にほろぼされた。
 アケメネス朝の古都ペルセポリス付近にササン朝をおこしたアルデシール1世は,ゾロアスター教を国教に定めて,国の統一をはかった。第2代の皇帝シャープール1世は,「イラン人および非イラン人の諸王の王」という称号を用いて世界帝国の建設をはかり,最初,侵入したローマ軍を撃退し,のちにシリアに遠征してローマ軍を破り,皇帝ヴァレリアヌスを捕虜とした。東方ではインダス川西岸まで領土を広げ,クシャーナ朝を衰退させ,広大な地域を統一して中央集権的な体制を確立した。
 ササン朝は5世紀の後半,中央アジアの遊牧民エフタルの侵入をうけたが,名君ホスロー1世の時代に,トルコ系の遊牧民の突厥と結んでエフタルをほろぼし,またビザンツ帝国との戦いを優勢に進め,和平を結んだ。しかしホスロー1世の没後はしだいにおとろえ,7世紀のなかばにはアラブ人に征服されてほろんだA。


@ イランがペルシア語でアーリヤ人を意味するのに対し,ペルシアはアケメネス朝の故地ファールスに由来するヨーロッパ側の呼称である。
A 滅亡したのは 651年であるが, 642年のニハーヴァンドの戦いに敗れ,ササン朝は事実上崩壊していた。

●イラン文明●
 パルティアの文化はヘレニズムの影響を強くうけ,王は「ギリシア人を愛するもの」という称号をおびていた。しかし紀元1世紀ころから,イランの伝統文化が復活のきざしをみせはじめ,ギリシアの神々とイランの神々とが,ともにまつられるようになった。
 またササン朝は,イランの民族的宗教であるゾロアスター教を国教とし,この王朝のときに経典『アヴェスター』が編集された。このほかに仏教やキリスト教もおこなわれ,3世紀の宗教家マニは,これらの宗教を融合してマニ教をおこした。マニ教は国内では異端として弾圧されたが,西方では北アフリカ@,東方では中央アジアのウイグル人によって信仰され,唐代の中国にも伝えられた。一方,ネストリウス派のキリスト教は,ササン朝の領内では比較的自由な活動が許され,唐代の中国にも景教の名で広まった。
 ササン朝時代には建築・美術・工芸の発達がめざましく,しかも国際的な性格をそなえていた。精巧な銀器・ガラス器・毛織物・彩釉陶器の技術や様式は,次のイスラム時代へとうけつがれるとともに,西方ではビザンツ帝国をへて地中海世界に,東方では南北朝・隋唐時代の中国をへて,飛鳥・奈良時代の日本にまで伝来した。法隆寺の獅子狩文錦,正倉院の漆胡瓶・白瑠璃碗などはその代表的な例として知られている。


@ 教父アウグスティヌスもカルタゴ居住時代の青年期にマニ教の影響をうけ,アルビジョワ派などキリスト教異端派の一部にも,マニ教の影響が認められる。
2 インドの古典文明

●インドの風土と民族●
 北と南を高い山脈と海でかこまれたインド亜大陸は,北方からの寒気がさまたげられるために,大部分が亜熱帯および熱帯の季節風(モンスーン)帯に属している。冬は乾季,夏は雨季となる気候を利用して,はやくから稲作をはじめとする農業が発達した。
 北部の広大な平原では,インダス・ガンジス川流域を中心に文化が栄え,強大な国家が興亡した。長い歴史のなかで,西北部のアフガニスタンとの境にあるカイバー(カイバル)峠は,インド=ヨーロッパ系のアーリヤ人をはじめとする多くの民族がこれをこえてインドに侵入しただけでなく,インドと中央アジア・西アジアとを結ぶ文化の交通路としても利用された。
 中部以南のデカン高原では,大帝国はおこらず,地域単位の大小の王国が興亡した。この地方の南部住民はドラヴィダ系の民族で,北方のアーリヤ人の文化的影響をうけながら,独自の文化を発展させた。その西方海岸はイラン・メソポタミア・ローマ・エジプトと,また東方海岸は東南アジア・中国とそれぞれ海路で結ばれ,古くから人と物の交流がさかんであった。

●インダス文明●
 インド亜大陸の西北部では,インダス川を中心とする広い地域に前2300年ころから前1800年ころまで,都市文明が栄えた。これをインダス文明@という。この文明は,シンド地方のモヘンジョ=ダロとパンジャーブ地方のハラッパーの2大遺跡に代表される。街区や街路はみごとに整備され,城塞・穀物倉庫・作業場・大浴場があって排水設備も完備し,家屋は焼き煉瓦でつくられていた。また一種の象形文字Aが使用され,この文字をしるした印章や彫像は美術品としてもすぐれている。
 このインダス文明をになった民族はまだあきらかにされていないが,前1800年ころから洪水や気候の変化などによって,急速におとろえた。


@ インダス文明はハラッパー文明ともよばれ,メソポタミア文明などの影響をうけており,世界の4大潅漑文明の一つである。
A いわゆるインダス文字で未解読であるが,ここで使用された言語は,現在南インドに広く分布しているドラヴィダ系諸語と関係が深いと考えられている。

●アーリヤ人の侵入●
 中央アジアで半農半牧の生活をいとなんでいたアーリヤ人は,イラン高原をへてインドに侵入し,前1500年ころまでにパンジャーブ地方に住みついた。彼らは血縁関係にもとづく部族を単位に,それぞれが族長にひきいられて村落に住み,牧畜と農耕をおこなっていた。牛を神聖視した風習は,現在にいたるまでかわることなく続いている。彼らは自然現象に神性を認めて崇拝し,神である雷や太陽などに供物と賛歌をささげた。このような賛歌と儀礼をしるしたものがヴェーダで,最古の『リグ=ヴェーダ』の主要な部分は,前1200年から前1000年ころまでにつくられた。これは当時のアーリヤ人の文化と生活を伝える貴重な文献である。
 アーリヤ人は前1000年ころから鉄の農具と武器を使いはじめ,東方のガンジス川流域へ進出した。農業生産は高まり,村落から都市がおこり,小王国も形成された。このような社会の発展とともに階級が生じ,やがてそれが固定化されて,四つの基本的な身分の区別,すなわちヴァルナ(種姓)ができた。それはバラモン(司祭者)を最上位とし,クシャトリヤ(武士・貴族),ヴァイシャ(庶民)がこれに続き,被征服者が大半を占めるシュードラ(隷属民)を最下位とするものであった。このヴァルナとジャーティ@とが結びついたカースト制度はヒンドゥー教の教義と結びついて,長くインド社会を固定化しつづけ,近代化のさまたげとなった。
 バラモンがつかさどるヴェーダにもとづく宗教をバラモン教という。バラモンは自己の権威を高めて儀礼を複雑なものとし,やがてその宗教は祭式中心の形式主義におちいった。


@ ジャーティとは生まれを同じくする集団の意味。職業・出身地・言語などによる無数の小集団であり,各ジャーティは4ヴァルナのいずれかに属する。ジャーティはまたカーストとよばれるが,これはポルトガル語のカスタ(血統)にもとづく制度を意味する。

●新宗教の成立●
 バラモン教の「ウパニシャッド」(奥義書)には,内面的な思索を重視する哲学思想が語られているが@,そこには従来の祭式万能に対する反省がこめられていた。一方,ガンジス川流域の王国では,王をふくむクシャトリヤの権力がバラモンをしのぐようになり,また商工業の発達によってヴァイシャの社会的勢力が強くなり,その時代に呼応するあたらしい思想がおこってきた。こうして前 500年前後に成立したのが,ジャイナ教と仏教である。
 クシャトリヤに属するヴァルダマーナ(尊称はマハーヴィーラ)がひらいたジャイナ教は,バラモンの権威を否定し,人間は苦行によってのみ救済されると説き,不殺生主義を徹底させてきびしい戒律を定めた。ヒマラヤ山麓のシャカ族の王子ガウタマ=シッダールタA(尊称は仏陀,釈迦牟尼)がひらいた仏教は徹底した無常観にたち,すべての人間は平等であるとし,正しい道(八正道)をおこなうことによって,生老病死の苦しみから逃れられると説いた。ジャイナ教と仏教はクシャトリヤとヴァイシャのあいだに多くの支持者をえた。インドの2大叙事詩として有名な『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』の原形はこのころまでにつくられたが,ともにクシャトリヤを主人公としているところに,当時の時代相をうかがうことができる。


@ 宇宙の根源ブラフマン(梵)と,生命の根源アートマン(我)とを同一視すること(梵我一如)により,精神の自由(輪廻からの解脱)がえられると説いている。輪廻とは,生物はその行為によって永久に生まれかわりをくり返すとする,インドの伝統的思想をいう。
A インド人は膨大な宗教文献は残したが,現実の生活を重視しなかったので,現実世界のできごとをしるした歴史書や地理書は残していない。そのため古代インド史の年代には確定できないものが多く,彼の生没年も前5世紀のなかばから前4世紀の前半にわたるとする説がある。

●古代統一国家の成立●
 仏教のおこったころ,北インドではいくつかの国々が対立していたが,やがてガンジス川中流域のコーサラ国とマガダ国が有力となった。その後マガダ国はコーサラ国を破ってガンジス川流域の大部分を支配し,仏教・ジャイナ教を保護した。アレクサンドロスは前4世紀の後半に西北インドに攻めいり,一時この地方を領土に加えた。そのころガンジス川流域では,チャンドラグプタがマガダ国のナンダ朝を倒してマウリヤ朝をひらいた。彼はパータリプトラ(現在のパトナ)を首都として,東はガンジス川流域の諸国を平定し,西はインダス川流域のギリシア人勢力を一掃して領土を広げた。さらにチャンドラグプタはパンジャーブに侵入したセレウコス朝シリアを撃退し,アフガニスタン・バルチスタンの地を手中にした。
 アショーカ王のでた前3世紀なかばころがマウリヤ朝の最盛期で,領土は南端をのぞくインド亜大陸の大部分におよんだ。国家はよく整備された官僚組織と強力な軍隊によってささえられたが,王は仏教をあつく信仰し,ダルマ(法)@にもとづく政治を理想として国家統一をはかった。その精神は,領内各地に刻まれた磨崖碑や石柱碑の勅令にもよく示されている。彼は仏教の保護と布教につとめ,仏典結集(仏典の編纂)を援助するとともに,みずから仏跡をめぐってストゥーパ(仏塔)を建立したと伝えられる。またこの時代に仏教は亜大陸の周辺の地に広まり,スリランカ(セイロン島)への布教ではとくに大きな成功をおさめた。


@ マガダ国以来の武力による統一政策を転換し,仏教の精神にもとづく徳治政治の基本理念として用いた。

●クシャーナ朝と仏教の革新●
 アショーカ王の死後マウリヤ朝の統一は急速に失われ,バクトリアのギリシア人,遊牧イラン人のサカ族があいついで西北インドに侵入した。匈奴に圧迫されて西方に移った月氏のクシャーナ族@も,1世紀のなかばころアフガニスタンにクシャーナ朝をたて西北インドに侵入した。クシャーナ朝はカニシカ王のとき最盛期に達し,ガンダーラ地方のプルシャプラ(現在のペシャワール)を首都として,中央アジアからガンジス川中流域までの地域を支配した。そこは中国(後漢)・イラン(パルティア)・インドを結ぶ通商路の要衝にあたり,クシャーナ朝はこの貿易路の独占によって繁栄した。
 カニシカ王もあつく仏教を信じ,そのころにまた仏典結集がおこなわれたことにより,仏教は西北インドを中心におおいに栄えた。クシャーナ朝時代の仏教は,個人の救済を目的とする従来の仏教とちがい,菩薩信仰Aを中心に広く万人の救済を目的としたことに特徴があり,これを大乗仏教とよんで従来の仏教と区別したB。2〜3世紀ころのナーガールジュナ(竜樹)は,大乗仏教の理論を確立した学者として知られている。仏教徒は最初,仏像をつくらなかったが,ヘレニズム文化の影響をうけて,このころから仏像をつくるようになった。当時の仏像の容姿がギリシア彫刻の神像に似ているのはそのためである。このギリシア式仏教美術は,その栄えた地域の名をとってガンダーラ美術とよばれ,大乗仏教とともに中央アジアをへて中国から朝鮮・日本へと伝えられた。
 マウリヤ朝がインドの大部分を支配したため,仏教やジャイナ教などアーリヤ人の文化が南インドにも伝えられた。その影響のもとに建国されたサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)はデカン一帯を支配し,また半島南端部にはチョーラ朝やパーンディヤ朝がおこり,そのもとでタミル語文学が発展した。これらの王朝では,1〜3世紀にかけて,ローマや東南アジアとのあいだに活発な季節風貿易がおこなわれた。


@クシャーナ族については,これを月氏の一族とする説と,バクトリア地方の土着民族とする説とがある。
A 菩薩とは,ブッダになりたいとの誓願をおこし,衆生救済のために種々の修行を積むものをいう。
B 旧来の仏教は小乗仏教とよばれるが,これは大乗仏教徒の用いた蔑称である。旧来の仏教は多数の部派にわかれていたが,そのなかの一つ上座部(長老の教えを伝えるもの)はスリランカで発達し,11世紀以降,東南アジア半島部の諸国に広まった。

●ヒンドゥー国家と古典文化●
 3世紀に入るとクシャーナ朝はおとろえ,北インドは分裂状態が続いたが,4世紀前半,ガンジス川中流域に勢力を確立したチャンドラグプタ1世は,グプタ朝(首都パータリプトラ)をひらいた。チャンドラグプタ2世(中国では超日王とよぶ)のときがグプタ朝の最盛期で,東晋の僧法顕がインドをおとずれたのもこの王のときであった。
 グプタ朝では,仏教とならんで当時民衆のあいだに浸透しはじめていたヒンドゥー教が信奉された。ヒンドゥー教は,バラモン教をうけつぎ,それに民間信仰が融合し,さらに仏教の影響も加わって自然にできた宗教である。開祖も特定の教義や聖典もなく,いわばインド人独特の思考様式・生活様式・社会習慣の総合であり,現在までインド人の宗教の主流となっている。儀礼をとりおこなったのはバラモンであるが,ヒンドゥー教ではかつてのヴェーダの神々にかわり,シヴァ神やヴィシュヌ神などが偶像の形で崇拝された。人々の宗教的義務や日常生活の規範を定めた『マヌ法典』が定着したのもグプタ朝のころである。
 グプタ朝以来,民間の仏教信仰は急速におとろえたが,ナーランダー僧院が創建されるなど,仏教研究はいぜんとしてさかんであった。仏教美術も頂点に達し,グプタ様式という純インド的な仏教美術として完成した。アジャンター石窟寺院の壁画はグプタ様式の代表的なものである。
 グプタ朝はインド古典文化の黄金時代で,サンスクリット(梵語)@文学が栄え,チャンドラグプタ2世の宮廷詩人であったカーリダーサは,戯曲『シャクンタラー』をはじめ多くの傑作を残した。『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』が完成したのもこのころで,ヒンドゥー教徒にとってこの2大叙事詩はヴェーダとならぶ事実上の経典であった。また医学・数学・天文学・暦法の発達も著しく,とくに十進法による数字の表記とゼロの観念は,やがてイスラム世界に伝えられ,自然科学をおおいに発展させる基礎となった。
 グプタ朝は5世紀後半からおとろえをみせはじめ,とくに遊牧民エフタルが中央アジアから西北インドに侵入すると国内は分裂し,各地に地方政権が成立した。7世紀の初め,ハルシャ=ヴァルダナ(中国では戒日王とよぶ)はふたたび北インドを統一してヴァルダナ朝をおこし,中国の唐と使節を交換するなど活発な外交活動をおこなった。王はヒンドゥー教とともに,仏教も信じてその保護につとめたが,また文芸・学術を重んじてヒンドゥー文化の育成にも努力した。唐僧玄奘がインドをおとずれてナーランダー僧院で仏教を研究したのは,この王のときであった。しかしハルシャ王の死後国内は分裂し,7世紀後半から数世紀にわたって地方政権が乱立し,やがてイスラム教徒の侵入をうけることになった。


@ 古代インドの文章語で,18世紀にいたるまでバラモンの学問的著作は,ほとんどこの言語で書かれた。
3 東南アジアの諸文明

●東南アジアの風土と民族●
 東南アジアは大陸の半島部と諸島部とからなり,半島部の北部は高い山地となって中国に続いている。半島部は大河の下流域以外には広い平野がなく,諸島部はきわめて多数の大小の島々からなり,全体として非常に複雑な地形をなしている。東南アジア全域は熱帯・亜熱帯の季節風(モンスーン)帯に属し,稲作を中心とする農業が発達していた。外界との交通は,半島部で山道をとおって中国にいたるほかはすべて船による海上交通にかぎられていたので,古くから季節風を利用する航海がさかんであった。
 民族もきわめて複雑で,諸島部とマレー半島にはマライ=ポリネシア系の民族が住み,半島部では,西部にシナ=チベット語族に属するチベット=ミャンマー(ビルマ)系の言語を用いるミャンマー人,中部にタイ人とラオス人,南アジア語族に属するモン=クメール系の言語を用いるカンボジア人,東部の海岸地帯にヴェトナム人が住む。

●インド文化の普及と東南アジア文化の形成●
 前3〜前1世紀ころのヴェトナム北部には,中国文化の影響をうけて独特な鉄器・青銅器を用いるドンソン文化が形成されていた。インド文化は1世紀ころからインドシナ半島へ伝わり,その文化的影響のもとにメコン川下流域に扶南@,インドシナ半島東南部にチャム人のチャンパー(林邑,のちの環王・占城)が建国された。扶南は海上貿易の利をえて6世紀まで栄えたが,このころメコン川中流域にはクメール人のカンボジア(真臘)がおこり,のち扶南をあわせてアンコールの地に都した。9世紀末〜12世紀にたてられたアンコール遺跡Aの建造物には,ヒンドゥー教・大乗仏教の信仰にもとづくインド文化の強い影響とともに,土着文化の独創性がよく示されている。7世紀になるとチャオプラヤ(メナム)川下流にモン人のドヴァーラヴァティーがおこり,同じころイラワディ川下流域にはミャンマー系のピュー(驃)人の国があった。11世紀のなかば,この川の中流域にパガン朝がおこり,ミャンマーのほぼ全域を支配して,沿海地方に拠っていたモン人から上座部(小乗)仏教を継承した。
 諸島部では,7世紀にスマトラ島東南部にシュリーヴィジャヤ(室利仏逝)王国がおこり,海上交通の要路マラッカ海峡をおさえて発展した。7世紀後半にこの国をおとずれた唐の仏僧義浄は,大乗仏教がさかんにおこなわれていたことを記している。またジャワ島中部には,8世紀なかばから9世紀前半にかけて,ボロブドゥールなどの仏教遺跡を残したシャイレーンドラ朝がおこり,インドシナ半島の東岸にまで遠征するほどの勢いを示した。
 13世紀にいたるまでの東南アジアは,ほぼ全域にわたってインド文化の影響をうけながら,独自の文化を展開させた。仏教は古くは大乗仏教がおこなわれたが,ミャンマーで上座部仏教が支配的になると,13世紀以後タイ・カンボジアにも広く普及して南方仏教圏を形成した。また東南アジアと中国との関係も紀元前からはじまっていたが,ドンソン文化の形成にみられたように,中国文化が強い影響をあたえたのは,半島東北部のヴェトナム人の居住地域であった。


@ 扶南をたてた民族については,クメール系と考えられていたが,最近ではマライ=ポリネシア系(オーストロネシア系)とする考えもある。
A アンコール=ワット(寺院),その北のアンコール=トム(王城)および付近の遺跡からなる。
4 中国の古典文明

●東アジアの風土と民族●
 東アジアは,中国を中心としてモンゴル高原・朝鮮半島・日本列島・ヴェトナム北部にわたる地域である。ユーラシア大陸の東端に位置し,西方を高大な山脈にかぎられているので,ほかの文化圏からだいたい孤立し,独自の歴史的世界を展開した。しかし内陸アジアを横断する「草原の道」や「オアシスの道」,あるいは南方の海域を航行する「海の道」などによって,西方の文化の影響もうけた。
 中国東部・朝鮮・日本・ヴェトナムは季節風の影響を強くうける温暖湿潤の地帯で,農耕に適している。ただ中国東部でも,秦嶺・淮河の線を境として,その南と北とでは差がある。黄河流域の華北と中国東北地方の平原地帯は比較的雨量にとぼしく,アワ・コーリャン・麦などの畑作農業がおこなわれたのに対し,より雨量が多く高温な長江(揚子江)流域の華中とその南方の華南では,ヴェトナム・朝鮮南部・日本とともに水稲耕作がおこなわれた。一方,中国東北地方の森林地帯では狩猟が,モンゴル高原の乾燥した砂漠草原地帯では遊牧がおもな生業であった。
 中国の住民の大多数は漢民族で,その言語の中国語はチベット語・ミャンマー語・タイ語とともにシナ=チベット語族に属する。中国東北地方からモンゴル高原にかけては,アルタイ語族のトルコ・モンゴル・ツングース系の諸民族が活躍した。朝鮮語もこの語族と近い関係にある。
 東アジアでは,漢民族の住む黄河中流域にもっともはやく文明がおこったが,中国文明はやがて華中・華南におよび,さらに周辺の諸国にも大きな影響をあたえた。また北方の狩猟・遊牧民は古来しばしば中国に侵入し,漢人農耕民との接触がおこなわれた。このようにして中国を中心にしだいに東アジア世界が形成されていった。

●黄河文明●
 前5000〜前4000年ころから,黄河の中・下流域の黄土地帯の住民は,初期農耕をはじめて,アワを栽培し,豚・犬・鶏を飼い,竪穴式住居や地上式の泥壁の住居に住んで,村落生活に入った@。
 彼らが磨製石斧や彩文土器(彩陶)を用いたことから,西方の初期農耕文化との関係が推測されている。この最初の黄河流域の文化を,彩陶文化Aという。
 一方,長江流域では前5000年ころ稲作農耕が開始され,高床式の住居や地上式住居に住んだ。
 前2000年ないし前1500年ころになると,牛や馬も飼われ,彩陶文化の時代よりはるかに大きな人口の集落が形成された。土器製作の技術が発達して,三足土器を特徴とする黒色磨研土器(黒陶)がさかんにつくられ,さらに粗製の灰陶も使われた。一部では獣骨による占いもおこなわれた。黒陶文化Bは東方の黄河下流域を中心に,北は「東半島から南は長江流域まで分布した。


@ 西安市の東部の半坡遺跡は集落址として有名である。
A 河南省にある代表的遺跡の名をとって仰韶文化ともいう。
B 山東省にある代表的遺跡の名をとって竜山文化ともいう。

●殷と周●
 やがて黄河の中・下流域には都市が発達しはじめ,それら多くの都市国家(邑)を支配する王があらわれた。伝説によると,夏王朝がそのはじめであるが@,現在確認できる最古の王朝は殷(商)で,その後期の前2千年紀なかごろ都を現在の河南省安陽市小屯に定めた。その遺跡殷墟で発見された当時の文字は,亀甲・獣骨に刻まれているので甲骨文字とよばれ,漢字の原形となった。その内容は占いに関する記録で,中国最古の文献史料である。
 これによると殷では,農事・軍事など主要な国事はすべて神意を占い,それにもとづいて王が万事を決定する祭政一致の神権政治であった。殷墟には,大きな宮殿のあとや人畜を殉葬した陵墓があり,青銅の武器や祭器,白陶・子安貝・象牙・玉器などが多数出土して,殷王の権力と財力の強大さを示しているA。
 陝西の渭水流域におこった周は,はじめ殷に服属し,その文化をうけいれていたが,前11世紀ころ殷をほろぼし,鎬京(現在の西安付近)に都をおいて華北を支配するようになったB。周は一族・功臣や各地の土着の首長に封土をあたえて世襲の諸侯とし,貢納と軍役の義務をおわせた。周王や諸侯のもとには,卿・大夫・士とよばれる世襲の家臣がいて,それぞれ領地をあたえられ,彼らのもとに多くの農民が属した。この政治組織を封建制度というが,それは中世ヨーロッパのフューダリズムや日本の封建制度とは性格がちがい,氏族制的性格の濃いものである。
 当時,王から士までの支配階級のあいだでは,それぞれ血統を同じくする親族が,本家の家長を中心に団結して祖先の祭りをおこない,宗族を形成した。そしてその維持をはかるため,身分秩序を定めた宗法という規制がつくられた。一方,農民は土地神を中心とした村落共同体を構成し,王侯・士大夫に支配された。


@ 伝説によれば,三皇五帝といわれる8人の聖天子がいたが,五帝のなかの尭は舜に位をゆずり,舜は禹にゆずり,禹が夏王朝をはじめたという。
A このような殷の繁栄は,交易と軍事的活動によるところが大きかったと思われる。殷の来歴や支配民族,文化の系統などには,まだ不明の点が多い。また殷墟より古いといわれる河南省の鄭州市や偃師県などの遺跡もある。
B 王朝の交替を易姓革命という。天命が革まって有徳者があらたに天子となり,姓が易るという意味である。

●春秋戦国と鉄器の普及●
 周の華北統一が長く続くと,中国文化はしだいに周囲の異民族に普及して,彼らの行動を活発にした。やがてこれらの異民族が山西・陝西の北部から侵入しはじめ,前8世紀に首都鎬京を攻略された周(西周)は,東の洛邑(現在の洛陽)に都を移した(東周)。それ以後,周の勢力はおとろえ,実力のある諸侯がたがいに争う乱世となった。この状態は前3世紀後半まで続くが,そのうち前5世紀末までを春秋時代@,以後を戦国時代Aという。春秋時代には,周室はまだ王として尊ばれており,斉の桓公,晋の文公Bのような有力諸侯は覇者とよばれ,尊王攘夷をとなえながら中原(黄河中・下流域)をめぐって争った。しかし晋が韓・魏・趙に分裂してはじまった戦国時代になると諸侯はそれぞれ王と称し,周は一諸侯にすぎなくなった。激しい興亡ののちに斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙の7国(戦国の七雄)が対立するようになったが,やがて陝西を根拠地とした秦が強大になり,前 221年,中国を統一した。
 中国では,戦国時代に鉄製農具が一般に普及し,犂を牛にひかせて耕作する農法も発明され,農業生産力がおおいに高まった。また抗争を続けた諸国はそれぞれ富国策をとったので,商工業がさかんになり,貝貨とともに青銅の貨幣が用いられるようになった。このため商人のなかには王侯とならぶほどの富を持つものもあらわれた。このような情勢のうちに周代の古い制度はくずれ,それまで公有であったといわれる土地は私有となった。また封建制度下の世襲的身分制や氏族制的な統制もゆるみ,実力万能の時代となった。
 春秋時代には,長江流域に楚・呉・越などの諸国が成立し,戦国時代には,秦が四川方面を,燕が東北地方南部を征服し,朝鮮北部にも中国人の居住地ができ,中国文化圏は著しく拡大した。


@ 春秋の名は,孔子の編纂とされる『春秋』という書物に書かれている時代が,ほぼこの時代にあたることから名づけられた。
A 戦国の名は,この時代に諸国を遊説したものたちの策謀をしるした『戦国策』という書物に由来する。
B この2人のほかに秦の穆公,宋の襄公,楚の荘王の3人をあわせて春秋の五覇というが,秦の穆公と宋の襄公のかわりに,呉王夫差,越王勾践をいれることもある。

●古典思想の開花●
 このように社会の変動が激しくなると,あたらしい時代に適応する考え方が求められ,思想界を刺激した。そのため諸子百家とよばれる多くの思想家や学派がうまれた。
 春秋後期に魯にうまれた孔子は,社会の秩序の基礎を,親に対する「孝」と兄に対する「悌」という,家族道徳の実践によって完成される「仁」においた。そして人は身を修め家を斉えたうえで,国を治め天下を平らかにすることができるとして,中国古来の礼を回復し,政治と倫理・道徳を関連させる人間中心の説をたてた。その言行は『論語』に記録されている。彼の学派を儒家とよび,戦国時代に性善説をとなえた孟子や,性悪説をとなえた荀子は,孔子の思想をさらに発展させた。
 儒家を批判する立場にたった墨家(墨子が祖)は,従来の氏族や身分にとらわれない無差別の愛(兼愛)と相互扶助(交利)を説き,戦争を否定し(非攻),平和を主張した。老子・荘子の説を奉ずる道家は,儒家の思想を人為的な無用の礼儀を説くものとして退け,無為自然を説いた(老荘思想)。この説はのちに,民間信仰と結びついて,中国思想界に大きな影響をあたえた。商鞅や韓非などに代表される法家の思想は,法によって国内を統治しようとするもので,秦はこの思想を採用した。
 このほか論理学を説いた名家(公孫竜),兵法を講じた兵家(孫子・呉子),外交策を講じた縦横家(蘇秦・張儀),天体の運行と人間生活との関係を説いた陰陽家(鄒衍)や農業技術を説いた農家などの諸家があった。また『書経』や『詩経』@,『楚辞』Aなど歴史的・文学的作品もまとめられた。


@ 『書経』は周王朝の記録を中心に編集し,伝説上の時代から殷周時代までの歴史をしるしたもの。『詩経』は周代の詩歌を編集したもので,中国最古の歌集である。
A 『楚辞』は戦国時代の楚の屈原らの詩歌を中心に,その流派の文学作品を編集したものである。

●秦の統 一●
 中国を統一した秦王の政は,王の称号をやめて皇帝と称した。彼が秦の始皇帝である。始皇帝は統一以前から自国の領土でおこなっていた郡県制を全国に実施し@,全国を36郡(のち48郡)にわけて,直接中央から派遣した官吏におさめさせた。また貨幣・度量衡・文字を統一し,地方の都市の城壁をこわし,民間の兵器を没収し,都の咸陽に富豪を移したほか,焚書・坑儒Aによって言論・思想の統制をはかるなど,法家思想にもとづく徹底した中央集権をおこなった。また領土の拡張をねらい,北は戦国以来辺境をおかしていた匈奴を攻撃し,戦国時代につくられた長城を修築して匈奴の侵入にそなえ,南は華南を征服して南海などの3郡をおいた。秦の領土は,北はモンゴル高原の南辺に,南は南シナ海沿岸に達するようになった。
 しかし,秦のあまりに急激な改革は旧諸侯など保守的な人々の反感を高め,また,たびかさなる外征や長城の修築,宮殿の造営などの負担は民衆を苦しめた。そのため始皇帝の死後まもなく各地に反乱がおこりB,秦は混乱のうちにほろんだ(前 206年)。その後,楚の名門出身の項羽と江蘇の農民出身の劉邦とが対立したが,劉邦は項羽を破って,前 202年中国をふたたび統一し,漢王朝をひらき,その後長安(現在の西安付近)を都とした。彼が漢(前漢)の高祖である。


@ 秦では,すでに前4世紀なかばに法家の商鞅が富国強兵をめざして大改革をおこない,郡県制を施行した。
A 『史記』によれば,前 213年丞相(宰相)の李斯の意見で医薬・占い・農業関係以外の書物をすべて焼いたという(焚書)。また翌年,数百人の儒者を穴にうめて殺したという(坑儒)。
B 最初に陳勝・呉広による農民反乱がおこった。「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という陳勝のことばは,戦国時代以来の個人の実力を第一とする世情をよく示している。

●漢の内政と外征●
 漢の高祖劉邦は,秦が郡県制を強行して失敗したことから,一族や功臣を諸侯に封じ,郡県制と封建制を併用した(郡国制)。その後,漢ではしだいに諸侯の権力をうばったので,呉楚七国の乱(前 154年)がおこったが,それが平定された後の前2世紀後半の武帝@の時代には,実質的に郡県制とかわらない中央集権体制を確立した。
 武帝はまた領土の拡大をはかり,大規模な遠征に着手した。まず北方から漢をおびやかしていた匈奴を攻撃し,オルドス・甘粛にも勢力をのばして敦煌などの諸郡をおいた。一方,匈奴をはさみ討ちするために,張騫を西方の大月氏に派遣したことから西域Aの事情がわかり,さらに烏孫に使いをおくったり,大宛(フェルガナ)に遠征したりした。東北方面では衛氏朝鮮Bをほろぼして,朝鮮北部に楽浪などの4郡をおき,南方では南越Cをほろぼしてヴェトナム中部までおさえ,南海などの9郡をおいた。
 しかしこれらの遠征で国の財政は苦しくなった。そこで武帝は財政難を解決するため,均輸・平準Dのような物価調節策をとり,塩・鉄・酒などを専売としたが,一方,民衆に重税をかけ,売位・売官などをおこなったので,社会はしだいに不安定になってきた。しかも前1世紀のなかごろからは宮廷内で宦官や外戚Eが権力を争うようになり,皇帝の権威は急速におとろえ,ついに外戚の王、が国をうばって新をたてた。


@中国の皇帝は,死後その業績をたたえる贈り名(諡号)でよばれた。武帝は諡号である。また皇帝の霊をまつる際に贈る称号(廟号)として,王朝を創始した皇帝は高祖・太祖などとよび,2代目以降は太宗・高宗などとよんだ。明・清では皇帝一代につき一年号を用いたので,年号によって洪武帝・乾隆帝などとよぶことがある。
A 当時,中国では中央アジアおよびそれ以西を西域とよんだ。張騫の西征は,のちのオアシスの道(絹の道)がひらかれる端緒となった。
B 前2世紀に中国から亡命した衛満が朝鮮西北部にたてた国。
C 秦の滅亡に乗じて,広東・広西からヴェトナム北部の地域に独立した国。
D 均輸とは特産物を貢納させ,その物資が不足している地方に転売する物価調整法。平準とは物資が豊富なときに貯蔵し,物価があがるとこれを売りだす物価抑制法。
E 宦官とは後宮につかえる去勢された男子,外戚とは皇后の親族をいう。

●後漢の再統一●
 王、は,ただ周の政治を理想として社会の実情を無視したため,農民による赤眉の乱や地方豪族の反抗がおこり,新はたちまち倒れた(23年)。この反乱をおさめて漢(後漢)を復興したのは漢の一族の劉秀,すなわち光武帝である(25年)。
 後漢は,都を洛陽に移し,はじめは内政に力をいれて対外消極策をとったが,まもなく匈奴を討ち,西域経営にも力をいれ,1世紀後半には一時カスピ海以東のオアシス都市国家50余国を勢力下におくほどになった。西域都護となった班超の活躍は名高く,部下の甘英を大秦国に派遣しようとした。2世紀のなかごろには大秦国王安敦@の使いと名のるものが海路ヴェトナム中部におかれた日南郡にくるなど,東西の交渉がさかんになった。なお前漢以来,楽浪郡に往来していた倭人(日本人)の使いが,洛陽におもむいて光武帝から印綬(漢委奴国王印)をさずけられたことも,『後漢書』にしるされている。
 後漢では,2世紀に入ると幼帝が続いて,宦官や外戚がはびこり,これに反対する儒教の教養を身につけた官僚や学者は弾圧された(党錮の禁)。また地方では豪族が勢力をはり,農民の反乱があいつぎ,国力は急速におとろえた。


@ 大秦国とはローマ帝国をさした中国でのよび名。安敦はローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスにあたる。

●漢の社会と文化●
 大土地所有は漢代にさかんとなり,多数の奴隷や小作人を使って耕作させる豪族が各地にあらわれた。税や徭役・兵役の負担に苦しむ農民の多くは彼らの支配下に入って半奴隷の状態になった。政府は土地の広さと奴隷の数を制限しようとした(限田法)が効果があがらず,そのうえ,官吏の任用は地方長官の推薦(郷挙里選)に拠ったため,地方で実力を持つ豪族は官僚となって権力をにぎった。
 中国文化は春秋戦国時代に各地で多彩な発展をとげたが,秦漢代 400年間の政治的統一によって全国的に統合された。秦・漢の初期には法家思想が支配的であったが,礼と徳を重んずる儒学は統一国家をささえる原理に適していたので,武帝のとき董仲舒のすすめによって官学とされた@。このため学者はもっぱら古典の復旧と訓詁Aにつとめた。なお文字は,今日の漢字と大差のない隷書に統一され,辞書もつくられた。歴史書には司馬遷の『史記』,班固の『漢書』の傑作があり,その紀伝体Bの叙述形式は,その後の歴史書の基本になった。
 秦漢時代には,宮廷をはじめ豪族・商人らの需要に応じて工芸の分野が発達し,なかでも絹織物・漆器・金属器などにすぐれたものがつくられた。紙も発明されC,それまでの木簡・竹簡にかわって書写の材料とされ,文化の発展に大きな役割をはたし,その製法はのち西方諸国にも伝えられた。


@ 五経を教え,文教をつかさどるために五経博士がおかれた。五経とは儒学の重要な古典で,『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』をさす。
A 古典の注釈を主とするもので,訓詁学という。後漢の鄭玄などはその大家として著名である。
B 皇帝の事績を中心に年代を追ってしるした本紀,功臣などの伝記をしるした列伝などという分け方をした叙述形式をいう。これに対し,年月順にしるすものを編年体という。
C 後漢の蔡倫が発明したといわれるが,彼は製紙法の改良者で,紙はそれ以前にすでに存在した。
第4章 内陸アジアの変遷

 アジア大陸の中央部にあたる内陸アジアの乾燥地帯では,アルタイ系のトルコ人やモンゴル人を主とする騎馬民族,イラン系ソグド人に代表されるインド=ヨーロッパ系のオアシス隊商民などが活躍した。
 新石器時代に西方から移住した遊牧民は,スキタイ人の騎馬文化をうけいれてから,遊牧騎馬民族として活躍をはじめ,中継貿易で利益を占めたほか,しばしば農耕地帯に侵入して農耕民やオアシス民とたたかった。匈奴・月氏・エフタル・ウイグル・キルギスなどはその例である。
 またオアシス地帯では,バクトリア・大月氏・フェルガナなどがはやくから興亡し,東西の交易がおこなわれ,オアシスの道(絹の道)がうまれた。交易の中心となったのはソグド人であったが,周辺諸民族の干渉もさかんであった。このため6世紀には突厥の支配がおよび,9世紀にウイグル人の移住が進んでからはトルコ系の要素が強くなり,トルキスタンとよばれるようになった。また,そのころからイスラム化も進んだ。

1 騎馬民族の活動

●内陸アジアの風土と民族●
 内陸アジアとは,アジア大陸の中央部に,東北はモンゴル高原から西南はカスピ海西部にかけて広がる乾燥地帯をさし,乾燥アジアとよばれる地域の主要部分をなす。
 この地域は,南はヒンドゥークシュ山脈・カラコルム山脈・ヒマラヤ山脈などによって海洋から遠くへだてられ,北は寒冷なシベリアの森林帯につながる。東は大興安嶺やヤブロノイ山脈に接し,西はウラル山脈やカフカス(コーカサス)山脈などに接する。内部には,パミール高原から東にはしる天山山脈・アルタイ山脈・陰山山脈・クンルン(崑崙)山脈などがあり,その間にモンゴル高原・ゴビ砂漠・タクラマカン砂漠・タリム盆地・チベット高原・ジュンガル草原・カザフ草原などが広がる。高山と草原と砂漠を中心とする内陸アジアの自然条件はきびしい。厳寒の冬と酷暑の夏に加えて昼夜の温度差が激しく,降雨量もきわめて少ない。したがって生産力にとぼしく,生活は不安定となることをまぬがれない。
 こうした条件のもとで,草原地帯では,家畜を主要な財産とする遊牧民が草地を求めて定期的に移動し,遊牧と狩猟の生活をいとなんでいた@。また,雪融け水による河川や地下水を利用できる砂漠地帯のオアシスでは,オアシス隊商民が定住の農牧生活と隊商貿易をいとなんでいた。
 内陸アジアで活動した民族としては,イラン系ソグド人に代表されるインド= ヨーロッパ系のオアシス隊商民,モンゴル高原で興亡したアルタイ系騎馬民族のトルコ人やモンゴル人などをあげることができる。


@ 家畜は羊・牛・馬を主とし,草原の民の衣・食・住・運輸・交通すべての需要を満たす貴重なものであった。彼らの住居は移動に便利な組み立て式でフェルトでおおわれていた。

●騎馬民族の活動●
 内陸アジアに西方から遊牧民が移り住んだのは新石器時代以後である。その結果,モンゴル高原から南ロシアにかけての草原地帯は,平和な遊牧民の居住地域となった。彼らが騎馬民族となったのは,スキタイ人@のうみだした騎馬文化をうけいれてからのことで,その活動は前4世紀ころにはじまる。陰山山脈に拠った匈奴,天山山脈方面にいた烏孫,甘粛・タリム盆地東部にいた月氏などはその例であり,匈奴が最強であった。
 トルコ系ともモンゴル系ともいわれる匈奴は,単于とよばれる統率者のもとで強力な遊牧国家をつくり,戦国時代の中国北辺をおびやかすようになったA。その勢力は,秦の始皇帝の征討をうけて一時後退したが,まもなく冒頓単于のもとで強盛となり,月氏や漢を圧迫した。
 イラン系ともトルコ系ともいわれる月氏は,はじめ甘粛以西に居住し,中継貿易で利益をあげていた。匈奴はこの利益をえようとして月氏を攻撃し,そのため,月氏は西方のイリ地方に移動した。しかし,ジュンガリア地方からトルコ系といわれる烏孫が進出してきたので,西のアム川下流域に,ついで上流域に移った。これを大月氏という。この結果,甘粛地方は匈奴,イリ地方は烏孫,アム川上流域は大月氏という形勢がうまれた。
 匈奴の圧迫をうけた漢では高祖が匈奴に敗れて和親策Bをとったが前2世紀後半には武帝が反撃にでて,匈奴を北にしりぞけ,西域にも進出した。このため匈奴は内陸貿易の利を失っておとろえ,前1世紀なかごろ東西に分裂した。匈奴が中国文化の影響をうけ鉄器時代に入ったのは,このころからである。東匈奴は漢と結んで西匈奴をカザフ草原に破った。
 こうして1世紀なかごろ,匈奴は南北に分裂し,南匈奴は後漢にしたがい,一部は長城付近で農耕生活に入った。北匈奴は1世紀末に後漢の攻撃をうけ,一部はイリ地方からカザフ草原をへて西進した。
 匈奴がおとろえたのちの内陸アジアでは,4世紀ころ鮮卑が強力になったが,南下して中国の華北に進出し建国した。かわって5世紀ころのモンゴル高原ではモンゴル系の柔然が活動し,鮮卑系の北魏と対立した。同じころ中央アジアでは,トルコ系ともイラン系ともいわれるエフタルが勢力をふるった。6世紀ころからは,トルコ系の突厥が勢力をのばし,8世紀ころには同じくトルコ系のウイグルが強力となり,ついでキルギスがウイグルをほろぼして勢力をふるうなど騎馬民族の興亡があいついだ。


@ イラン系といわれ,前6世紀ころ南ロシア草原地帯を支配し,オリエントやギリシアの金属文化の影響をうけて独自の騎馬文化をうんだ。
A 燕・趙・秦などは長城をきずいてこれにそなえた。
B 皇帝の娘(公主)を単于にとつがせたり,絹などをおくって和親をはかった。
2 オアシス民の活動

●オアシス都市の興亡●
 ユーラシア大陸の東西を結ぶ交通路がはやくから存在したことは,西方の起源といわれる彩文土器がオアシス地帯に広く分布していることなどから知ることができる。そこに出現した中央アジアのオアシス都市を結んで東西に通じる道は,中国と西アジアやヨーロッパとを結ぶ幹線の一つをなした。このため,沿線では,古くから多くの国々が興亡した。前3世紀なかごろアム川上流の南岸にギリシア人が建国したバクトリア,その滅亡後,同じ地域に拠った大月氏,シル川上流に位置したフェルガナ(大宛)@などはその好例である。
 オアシス都市国家の興亡は,東西交易の盛衰と深く関係していたが,交易に活動した代表的な商人はソグディアナ地方出身のソグド人であった。また中国産の絹がこの道によって西方に運ばれたので,のちにこの交通路は「絹の道」とよばれた。
 東西にわたる文物の交流が活発になると,その利益をえようとする周辺諸民族の侵入や,東西の文化圏からの干渉もさかんになった。草原地帯からの騎馬民族の侵入,西方からのアレクサンドロス大王の東征や西アジア諸国の干渉,東アジアの漢や唐の西域経営などはその例である。


@ もともと地域名であり,先住民はイラン系であった。

●トルキスタンの成立●
 オアシス都市を結ぶ東西交易路に沿う地域の住民の多くはイラン系であった。しかし,6世紀に突厥の支配がおよんでから,しだいにトルコ系の要素が加わるようになった。しかも,9世紀なかごろ,ウイグルがキルギスにほろぼされると,モンゴル高原から多数のウイグル人がタリム盆地に移住してきた。その結果,中央アジアのトルコ化が急速に進み,ペルシア語でトルコ人の地域を意味するトルキスタンという呼称がおこった。
 トルキスタンは,パミール高原を境にして大きく東西にわけられる。西トルキスタンでは,はやくからソグド人を中心にゾロアスター教が信仰されていた。これに対し東トルキスタンでは,トルコ系のウイグル人を中心にマニ教や仏教が信仰されていた。
 トルキスタン地域にイスラム勢力が進出するのは,8世紀後半以後のことである。その進出は,アラブのイスラム軍がソグディアナ地方に入り,タラス河畔で唐の軍隊を破ってから本格化したが,とくにイラン系のイスラム政権であるサーマーン朝が西トルキスタンを支配してから,トルコ系住民の改宗が進んだ。この傾向は,10世紀にトルコ系イスラム王朝のカラ=ハン朝が東・西トルキスタンをあわせることによって決定的となった。
第5章 東アジア世界の形成と発展

 漢帝国が内乱により崩壊すると,中国は以後3世紀あまり魏晋南北朝の分裂混乱の時代をむかえた。この間,はじめて北方民族が華北を占領して北朝をひらいたが,一方,江南地方が開発され,仏教・道教の発展,絵画・書道などの新文化の展開がみられて,北方異民族もこれに同化された。
 6世紀末に,ふたたび統一王朝をたてた隋は短命であったが,大運河をひらいて南北交通の便に寄与した。つづく唐は大帝国を建設して,貴族文化を発展させるとともに西アジアのイラン=イスラム系文化をもとり入れ,周辺諸民族にも深甚な影響をあたえて,東アジア文化圏の中心となり首都長安も繁栄した。
 唐が8世紀後半から内乱によっておとろえ10世紀初めにほろぶと,節度使と称する軍人が実権をにぎる五代の諸王朝が興亡し,やがて宋がふたたび統一王朝をつくった。宋は,官僚を用いて中央集権・君主専制を強化し,国内の統一につとめたが,周辺諸民族とくに契丹や女真の侵入になやまされ,ついに12世紀初めには,女真族の金に華北をうばわれ,以後,南宋として華中・華南を維持した。しかし,13世紀後半には,モンゴル人にほろぼされた。宋は,軍事的には弱かったが,経済的にはおおいに発展し,また文化の庶民化が進んだ。とくに儒学の精神・本質をあきらかにすることを意図する朱子学がうまれ,君主政の支柱となるとともに,外国にまで影響をあたえたことは重要である。
 モンゴル高原で,契丹族の「の滅亡後抗争していた遊牧諸民族のなかから台頭したモンゴル人は,勢力を拡大して西征し,さらに近隣の諸民族や中国をも征服してユーラシアにまたがる空前の大帝国を建設した。これによって東西交易がさかんになり,西欧人やイスラム教徒の来朝も多く,文化の交流も進んだ。しかし,中国を支配した元朝は漢民族の軽視,財政の混乱から衰退し,漢民族の蜂起により, 100年たらずでモンゴル高原に追われた。
 漢帝国崩壊後の土地制度や社会の変遷についてみると,まず魏晋南北朝では,大土地所有の進展による豪族の貴族化が進んだ。隋唐では,これをおさえようとして,均田制を整備したが,有力者はなお特権を有していたので,貴族勢力が優勢で,荘園を所有していた。しかし唐のなかごろからは均田制はくずれ,唐末五代のあいだに貴族も没落した。宋代になると荘園所有者の新興地主のもとで多くの農民は佃戸とよばれる小作人として抑圧された。隋唐時代には,科挙による官僚の選出はなお不十分であったが,宋代以後科挙は整備され,君主専制の官僚体制の確立と儒教思想の普及に貢献し,20世紀初頭まで続いた。

1 北方民族の活動と中国の分裂

●三国と晋●
 後漢末におこった農民の反乱で最大のものは,華北で張角@がおこした黄巾の乱( 184年)であった。乱はたちまち広がり,各地に群雄が割拠して,後漢はほろんだ( 220年)。
 この混乱のなかから,華北を根拠地として後漢にかわった魏(曹操・曹丕),長江下流域の呉(孫権),四川の蜀(劉備)がおこり,中国を3分して争う三国時代となった。やがて魏は蜀をほろぼしたが,まもなく魏の将軍司馬炎(武帝)が国をうばい( 265年),晋(西晋)をたてた。その後,晋は呉もほろぼして,中国を統一した( 280年)。
 しかし晋の統一も,帝位をめぐる一族の争い(八王の乱)などのためまもなく動揺し,周辺の異民族の独立や侵入をまねいた。その結果,晋は山西で挙兵した匈奴に首都洛陽,ついで長安を攻略されて(永嘉の乱)ほろんだ( 316年)。しかし翌年,江南へのがれた晋の一族の司馬キが建康(現在の南京)で即位し,晋を復活させた。これを東晋という。


@ 太平道の首領。太平道は,四川ではじまった五斗米道(天師道)とともに,民間信仰による宗教的結社で,それらはのちの道教の源流となった。

●五胡十六国と南北朝●
 匈奴が動乱をおこすと,中国の北辺や西辺から鮮卑をはじめ,匈奴の別種である羯やチベット系の・・羌がいっせいに華北に侵入してきた。この匈奴・鮮卑・羯・・・羌を五胡といい,華北では彼らのたてた多くの国が興亡し,五胡十六国の乱世となった。しかし5世紀前半には,鮮卑の拓跋氏のたてた北魏の太武帝が華北を統一した( 439年)。
 北魏の孝文帝は,均田制や三長制@をしき,平城から洛陽に都を移し,鮮卑の服装や言語を禁止するなど,中国化政策の採用につとめた。北魏はやがて内部の争いで東西に分裂し,さらに東魏は北斉に,西魏は北周に倒され,北斉も北周に併合された。北魏以後の5王朝を北朝という。
 一方,東晋の成立とともに,華北にいた漢人の貴族・豪族や多くの農民は戦乱をさけて江南に移住するようになった。このため開発途上にあった長江の中・下流域は急速に発展し,耕地も増大した。華北を北魏が統一しようとしていたころ,東晋はその部将に倒され,その後,宋・斉・梁・陳の4王朝が短期間に興亡した。これを南朝という。南北両朝の対立は約1世紀半続いたA。


@ 村落制度で,5家を隣,5隣を里,5里を党とし,それぞれに長をおいた。
A 三国時代以後の3世紀半あまりにわたる分裂時代を魏晋南北朝時代と総称する。

●大土地所有の発達●
 後漢末から南北朝をつうじて,豪族は各地で力を強めた。官吏の任用制度は郷挙里選にかわって,三国の魏から九品中正がはじめられた。これは地方に中正官をおき,人材を9等級にわけて推薦させるのであるが,結果的には有力な豪族の子弟を推すことになり,豪族による上級官僚独占の傾向をいっそう強めた。こうして中央に進出して政治的権力をにぎった豪族は,貴族階級を形成するようになった。
 後漢末以来の戦乱や豪族の土地併合により,土地を失った農民は故郷をはなれて各地をさすらい,あるいは豪族の奴隷となった。それは国家が直接に支配する土地と人民を減少させ,軍事・財政の破綻を引きおこすものであった。魏で屯田制@,西晋で占田・課田法A,北魏で均田制がおこなわれたのは,このような事態への対策であり,均田制はその後も北朝をへて唐にまで引きつがれた。しかしこれらの対策も,国家がある程度の数の農民を確保するには役立ったが,なお豪族の力は強く,大土地所有の制限にはほとんど無力であった。


@ 国家が耕作者の集団をおいて,官有地を耕作させる制度。
A 土地所有の制限と租の確保をはかったものといわれるが,内容はよくわからない。

●六朝時代の文化●
 華北に侵入した異民族の五胡は,まもなく中国に同化したが,その質実剛健な気風や種々の風俗は,華北の中国人のあいだにうけいれられた。一方,江南には優雅な中国的な貴族文化が発達した。それは皇帝の権力が弱く,自由な精神的活動ができたことなどによる。三国時代から南北朝時代にかけて,江南に呉・東晋・宋・斉・梁・陳の6王朝が興亡したので,この時代を六朝時代ともいい,その文化を六朝文化という。
 文学では田園詩人の陶淵明や謝霊運が名高く,文章は対句を用いた華麗な形式が尊ばれ,そのすぐれたものは,梁の昭明太子が編纂した詩文集の『文選』のなかにみられる。絵画には顧ヲ之,書には王ケ之があらわれ,ともにその道の祖といわれている。学問・思想では,儒学はふるわず,乱世を反映して老荘思想が発展し,世俗を超越して論議にふける清談の風もうまれた@。また,『水経注』(地理)・『斉民要術』(農業技術)・『傷寒論』(医学)などの実用書もつくられた。
 仏教はすでに1世紀ころに西域から伝えられていたが,社会一般に広まったのは,4世紀後半からである。仏図澄や鳩摩羅什は西域からやってきて,華北での布教や仏典の翻訳に活躍し,法顕は直接陸路インドにいって仏教をおさめ,海路によって帰国した。『仏国記』はその旅行記として名高い。仏教の普及とともに仏像・仏寺もさかんにつくられたが,敦煌・雲崗・竜門などの石窟・石仏・仏画は,遠くインドのガンダーラ・グプタ様式や,中央アジア様式の影響をいまに伝えている。
 仏教の隆盛に刺激されて,このころ道教が成立した。道教は古くからの民間信仰と神仙思想Aに道家の説をとり入れてできたもので,北魏の寇謙之は新天師道Bをはじめ,国家宗教として教団の形成につとめた。不老長寿と現世的利益をねがうその教えは,中国人一般の要求にあっていたので,長く民衆に信仰された。


@ 清談家としては,竹林の七賢が有名である。
A 仙人や不老不死を信ずる思想。
B 天師道(五斗米道)を改革し,仏教の儀礼をとり入れて宗教としての道教を確立した。

●朝鮮・日本の形成●
 中国東北地方の南部に前1世紀ころおこった高句麗は,4世紀初め南下して楽浪郡をほろぼし( 313年),朝鮮半島北部を支配した。このころ三韓(馬韓・辰韓・弁韓)にわかれていた半島南部では,まもなく辰韓の地に新羅,馬韓の地に百済がおこり,弁韓(弁辰)は加羅(伽耶)諸国@となった。こうして高句麗・新羅・百済がならびたつようになったので,この時代を三国時代というA。そのころ,倭国と称した日本は加羅を根拠地として百済をたすけ,高句麗に対抗したが,6世紀後半には朝鮮半島から事実上,手を引いた。
 日本は3世紀にはなお多くの小国にわかれ,そのなかの有力な邪馬台国が魏と通交したB。4世紀に入ると大和政権による統一が進み,5世紀には倭国の王はたびたび中国の南朝に使いをおくった。その後,大和政権の国家統一体制はしだいにととのい,仏教・儒教や道家思想も伝わって,文化が進んだ。


@ 加羅諸国は任ッともよばれ,のち百済がその一部を領有し,他は新羅に併合された。
A 中国の吉林省集安県に現存する高句麗の広開土王(好太王)碑には,王の事績とともに当時の状況がしるされている。
B 『魏志』倭人伝は,邪馬台国やその女王卑弥呼についてしるしている。
2 東アジア文化圏の形成

●隋の統一●
 北朝(北周)からでた隋の文帝(楊堅)は,南朝の陳を倒して,南北に分裂していた中国を統一し( 589年),都を大興城(長安)に定めふたたび中央集権国家を樹立した。隋は長い戦乱の経験から国家権力の強化につとめ,貴族の権力を弱めるため,均田制をしいて大土地所有を制限し,租庸調制・府兵制をおこなった。また官吏の任用には九品中正の法を廃止して,試験によって広く人材を求める科挙が実施された。
 文帝の子煬帝は,大運河をひらいて中国の南北の交通運輸を便利にし,しばしば周辺諸国に遠征軍をおくった。しかし大土木事業やたびかさなる遠征に徴発された農民の困窮ははなはだしく,高句麗遠征の失敗を機会に各地で反乱がおこり,統一後,30年もたたないうちに隋はほろんだ( 618年)。

●突厥の活動●
 モンゴル高原では5世紀にモンゴル系の柔然が強盛となって北朝をおびやかしたが,6世紀なかごろに,トルコ民族の突厥が柔然をほろぼして大遊牧国家をつくった。その勢力は,東は中国東北地方から西は中央アジアにまでおよんだ。6世紀末,突厥は内紛によって,モンゴル地方の東突厥と中央アジアの西突厥とに分裂したが,その勢力はまだ強大であった。このため隋は東突厥と相互不可侵を約束しながら,西突厥にそなえて国家体制の確立を急いだ。しかし隋末の混乱に乗じて東突厥はふたたび勢いをもりかえした。

●唐の盛衰●
 隋末の混乱のなかからおこった山西の李淵(唐の高祖)は, 618年に隋を倒して唐をたて,長安を都とした。まもなく2代目の太宗(李世民)が中国を統一したが( 628年),国力を充実させたその治世は,貞観の治として名高い。唐は建国から約50年間が全盛時代で,太宗からつぎの高宗の時代に世界的な大帝国となった。
 唐は隋の制度をほぼそのまま採用しながら,中央に三省(中書・門下・尚書)@・六部(吏・戸・礼・兵・刑・工)・御史台を中心とする官制を設け,地方に州県制をしき,律・令・格・式Aなどの法典を整備し,科挙制を強化するなど,国力の充実につとめた。また唐は四方に遠征し,北方の東突厥を倒し,西方の西突厥を討って中央アジアをおさめ,朝鮮の百済・高句麗をほろぼし,南方はヴェトナム中部にいたる大領土を形成した。周辺の征服した地には六つの都護府をおいて,諸民族を統治したB。
 7世紀末になると,唐は内部から動揺しはじめたがC,8世紀初めに玄宗が即位すると,国政を改革し,開元の治といわれる安定した時代をむかえた。しかし晩年には政治に熱意を失いD,節度使の安禄山とその部将の史思明らによる安史の乱( 755〜 763年)をまねいた。節度使は8世紀初めから辺境防備のために設けられた有力な軍団の長である。反乱は8年にもわたり,ウイグルの援軍をえてようやく鎮圧されたが,これを機会に唐の国力は衰退した。
 以後,中央政府の統制力は弱まり,宦官が政治をほしいままにし,節度使が内地にもおかれて,その数は年とともに増加した。彼らはみずから兵をつのってこれと主従関係を結び,地方の行政と財政をもおさえて藩鎮とよばれ,ほとんど中央から独立したものさえあった。そのうえモンゴル高原にいたトルコ系のウイグルやチベットの吐蕃などが,唐の弱体化に乗じてしばしば侵入したので,唐は征服地域の大半を失った。9世紀の後半には社会不安が増し,困窮した民衆のおこした黄巣の乱( 875〜 884年)を機に,唐はまったくおとろえ,10世紀初め,節度使の朱全忠にほろぼされた( 907年)。


@ 中書省が詔勅などの草案を作成,門下省が審議し,尚書省が執行した。
A 律は刑法,令は行政法ないし民法,格は律令の補充改正の規定,式は施行細則。
B 実際の統治は先住民の首長にまかせる間接統治で,これを羈縻政策という。
C 高宗の皇后であった則天武后が一時帝位について,国名を周と改めたので唐朝は中断した。その後,中宗が復位したが,皇后の韋后が威力をふるった(「武韋の禍」)。
D 楊貴妃を寵愛し,楊氏一族を要職につけたりしたため政治が乱れた。

●隋唐の社会●
 隋唐の均田制は,一部の世襲を認めるだけで,大部分はその人1代の使用にかぎって土地を支給し,租(田地の税)・調(布帛などの納入)をおさめさせ,庸(年20日の中央での労役など)や雑徭(地方での労役)を割りあてる制度であった。政府はこれによって,自作農の増加と土地への定着をはかったのである。均田制が全国にどの程度実施されたかはあきらかではないが,唐では貴族が上級の官職を占め,その勢力がなお強かったので,貴族の大土地所有も一定の制限のもとに認められていた。これらの貴族の所有地は荘園とよばれ,奴隷または半奴隷的な小作人によって耕作された。唐の府兵制は北朝(西魏)に起源を持つもので,均田制によって土地を支給された農民から徴兵する制度である。ただこれら均田制・租庸調制・府兵制の三つは密接に関連していたから,その一つがくずれれば全部がくずれるという運命にあった。
 唐の中期,玄宗のころから中国の社会は大きく変化しはじめた。人口の増加,産業・商業の発達にともない農民のあいだに貧富の差が大きくなり,貴族らの荘園がしだいに増加して,没落した均田農民を小作人として使用するようになった。さらに土地の支給や返還がうまくおこなわれず,均田制は満足に実施されなくなり,府兵制も募兵制の発達により8世紀なかごろ廃止された。また均田制の崩壊とともに租庸調の税制も実行されなくなり,8世紀末には宰相楊炎の意見により,現住地で実際に所有している土地や資産の額に応じて夏・秋の2期に課税する両税法が採用された( 780年)。こうして均田制・租庸調制・府兵制はすべておこなわれなくなった。
 唐の領土は中央アジアにおいて,最初はササン朝,のちにウマイヤ朝やアッバース朝の領土と接したため,陸路による東西貿易が発達し,ソグディアナ(サマルカンド)地方のイラン系のソグド人が中継商人として活躍した。また南方の海路によるアラブ人の貿易によって,揚州・広州など華中・華南の港市がこの時代から急激に繁栄するようになった。

●唐代の文化●
 唐代には北朝の剛健な文化と南朝の華麗な文化とが融合されたうえに,外国文化が海陸両路から流入したため,文化は著しく国際的なものになった。しかもこの文化は唐の領土内だけでなく,ほとんど東アジア全域に影響をおよぼし,東アジア文化圏ともいえる広大な文化圏が成立した。
 唐文化の特徴は貴族趣味と異国情緒とにあった。文学では詩・文ともに発達したが,とくに唐代の詩は,中国文学史上に最高の地位を占め,中期の王維・李白・杜甫,唐末の白居易(白楽天)らが名高い。文章では,韓愈(韓退之)と柳宗元の2大家がでて,古文@の復興をとなえた。絵画では仏教関係の壁画が発達するとともに,南朝にめばえた山水画が進歩し,呉道玄や李思訓・王維があらわれた。また書道では唐初に欧陽詢・カ遂良らの名手がでたが,中期の顔真卿は力強い書法をうちたてた。
 儒学では孔穎達らの『五経正義』にみられるような訓詁学がおこなわれ,国家公認の学説が科挙の試験のよりどころとして固定されたので,思想や学問上の発達はみられなかった。
 一方,仏教は帝室・貴族の保護をうけてもっとも栄え,インドとのあいだに仏僧の往来もおこなわれた。ことに『大唐西域記』をあらわした玄奘や『南海寄帰内法伝』を書いた義浄はインドから経典をもちかえり,その後の仏教に大きな影響をあたえた。教理の研究も進み多くの宗派がおこったが,唐末にはおとろえ,おもに禅宗と浄土宗が普及するようになった。道教も帝室の保護をうけてかなり流行した。またキリスト教の一派の景教(ネストリウス派)や,マニ教・回教(イスラム教)などの外来の諸宗教も伝えられて一部に流行し,」教(ゾロアスター教)は中国に住むイラン人のあいだでおこなわれた。
 唐代には東西貿易の発達にともない,外国商人は,経済・文化の中心である長安・洛陽や港市にさかんに往来したので,それらの各都市には異国情緒がみち,豪華な文化が発達した。宮廷や貴族の管理のもとで染織が発達し,唐三彩で知られるように窯業もさかんになった。


@ 六朝時代に流行した美文調の四六ソ儷文に対して,漢代の『史記』や『漢書』にみられるような力強い文章をさす。

●唐文化の波及と東アジア諸国●
 唐の国際的な文化や諸制度は,周辺の諸民族に多くの影響をあたえ,それぞれの文化を発展させた@。
 チベット(吐蕃)では7世紀に唐とインドの両文化の刺激をうけてソンツェン=ガンポが統一国家をたてた。その後チベットは一時中央アジア東部に勢力をのばし,唐の都の長安に侵入したこともあった。文化的には,仏教をとり入れて固有の民間信仰と融合させた独自のチベット仏教(ラマ教)がうまれ,インド系の文字をもとにチベット文字がつくられた。また8世紀後半,唐とチベットの争いに乗じて,雲南にチベット=ミャンマー系の王朝が支配する南詔国が勢力を広げ,唐文化の影響をうけて栄えた。
 朝鮮半島では7世紀の後半に,唐が新羅と連合して百済をA,ついで高句麗をほろぼしたが,まもなく新羅は朝鮮にのびた唐の勢力をしりぞけて,半島の大部分を支配した( 676年)。新羅はその後,唐文化の輸入につとめて栄え,首都の慶州を中心に仏教文化が高度に発達した。その社会では,骨品とよばれる氏族制的な身分制がおこなわれ,貴族の力が強かったが,やがて王室内の争いや貴族間の争いがおこり,国力はおとろえた。
 高句麗の滅亡後,その遺民と靺鞨族が中国東北地方にたてた渤海国は,唐の文物・制度をさかんにとり入れ,日本とも通交し,8〜9世紀に栄えた。
 日本は朝鮮半島の諸国をつうじてはやくから中国文化の影響をうけたが,隋・唐がおこると留学生や留学僧も加えた遣隋使・遣唐使をさかんにおくってあたらしい文化の輸入につとめた。大化の改新により唐にならって律令国家体制をととのえ,唐をつうじて間接にインド・イランなど西方や南方の文化にも接し,天平文化の華をさかせることになった。しかし唐末になると,遣唐使は廃止された。
 東南アジアでは,ヴェトナム(越南)人がはやくから中国と接触し,漢代から唐代にいたるまでその支配下におかれ,中国の影響をうけつづけた。しかし唐がほろんだのち,10世紀に独立した。またインド文化の影響をうけたカンボジア(真臘)・チャンパー(林邑・環王)・シュリーヴィジャヤ(室利仏逝)などの諸国もみな唐に朝貢した。


@ 律令体制,都城の制,仏教文化,漢字などがその例である。
A 日本は百済へ援軍をおくったが, 663年白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗した。
3 中国社会の変化と北方民族の進出

●五代の形勢●
  907年,節度使の朱全忠は唐を倒して後梁をたて,首都をァ州(開封)に定めたが,以後50余年間に華北では後梁・後唐・後晋・後漢・後周の5王朝が交替した。またその他の地方でも多くの節度使がそれぞれ独立し,10あまりの国が興亡したので,この時代を五代十国という。これら諸国の創立者は軍人(節度使。異民族出身者もいる)が多く,武力で領土を獲得し,武断政治をおこなった@。
 唐末五代の時代は,中国社会の大きな変革期であった。うちつづく戦乱と下剋上の風潮によって,これまで国家の支配層であった貴族は経済上の基盤である荘園を失い,しだいに没落した。かわって軍人や荘園を手にいれた新興の地主が支配層となり,地主の多くは経済的基礎を佃戸制にもとづく大土地所有におき,形勢戸といわれ,その数も従来の貴族よりはるかに多かった。


@ 五代十国は乱世であったが,農業技術は進歩し,文化も地方に普及した。

●宋の統一●
  960年に後周にかわり開封を都とした宋(北宋)の趙匡胤(太祖)は混乱をおさめたが,つぎの太宗になって中国の統一を達成した。宋はこれまでの藩鎮勢力の乱立や,武断政治の風潮をおさえるため文治主義@をとり,節度使に欠員がでるたびに文官をあてて兵力や財力をうばい,皇帝の親衛軍を強化するなど,中央集権の確立につとめた。それは,長年の戦乱につかれて平和をのぞむ民衆の声にこたえるものであった。こうして君主独裁制は強化され,皇帝を補佐する官僚が科挙Aによって登用された。また,北方の脅威となっていた契丹(「)と和を結ぶ(ィ淵の盟)など,対外的には消極策をとった。
 このようにして宋の国内には平和がおとずれたが,その文治主義と対外消極策は,しだいに弊害をあらわしはじめた。文治主義にもとづく官吏の増加や,契丹・タングート(党項)などの北方民族の圧迫に対処するための防衛費の増大などによって,財政は窮乏し,軍事力も弱体化した。
 そのため11世紀後半には,政治の根本的改革が必要となり,神宗は王安石を宰相に起用した。一般に新法とよばれる彼の改革は,青苗・均輸・市易・募役・保甲・保馬などの諸法Bにみられるように,富国強兵をめざす社会政策であった。それは,農民や中小商工業者の生活安定と生産増加をはかりながら,同時に経費を節約して歳入を増加させることによって,国家財政の確立と軍事力の強化をはかろうとしたものである。しかしこれらの政策は保守的官僚の反対にあい,成果があがらぬうちに王安石は引退し,その後,新法党と旧法党Cとの対立(党争)が長く続いて,さらに宋の国力を弱めることになった。


@ 軍人による武断政治に対して,学識のある文人官僚によって政治をおこなうこと。
A 科挙は隋唐時代にもおこなわれたが,宋代にいたって完成した。皇帝みずから試験官となり宮中でおこなう最終試験の殿試も宋代にはじまり,君主独裁制を強化した。
B 青苗法は植え付け時の貧農への金銭や穀物などの低利貸し付け,均輸法は物資流通の円滑化と物価安定策,市易法は中小商人への低利貸し付け,募役法は職役(租税の管理などの役務)の強制割りあてをやめ,希望者を募集して雇用し,そのために免役銭を徴収すること,保甲法は兵農一致の強兵策,保馬法は軍馬の飼育奨励を内容とする。
C 王安石の一派を新法党というのに対し,司馬光を中心とする一派を旧法党といい,地主や塩の商人たちの支持があった。

●「と西夏●
 「河上流で半農半牧の生活をいとなんでいたモンゴル系の契丹はウイグルに服属していたが,ウイグルがおとろえはじめると急に勢力を強めた。10世紀初めには東モンゴルを中心に耶律阿保機(太祖)が強力な国家をつくり( 916年),東は渤海をほろぼし( 926年),西はモンゴル高原の諸部をおさえた。これが「である。そののち「は五代の後晋の建国をたすけた代償として,河北・山西の北部(燕雲十六州)を領土に加え,宋が中国統一の余勢をかって奪回をくわだてたときも,これを撃退して強盛をほこった。
 「は北方民族として本拠地を保ちながら,中国をも支配した最初の国家であった@。領内には狩猟・遊牧・農耕と生活状態のことなった諸民族がいたので,二重の統治体制をとった。すなわち契丹人をはじめ狩猟・遊牧民にはそれらの民族固有の部族制を,農耕民には中国風の統治方式である州県制を採用した。また契丹ははじめウイグル文化の影響をうけたが,やがて中国文化を吸収し,仏教をうけいれた。アジアの北方民族が,漢字以外の西アジア系の文字を用いたのは突厥が最初であるが,契丹もウイグルや中国の文化の影響をうけて,独自の契丹文字をつくりだした。
 宋の西北辺境の陝西・甘粛方面には,チベット系のタングートがおり,近隣の吐蕃やウイグルを破り,やがて独立して西夏をたてた(1038年)。西夏は内陸貿易の中継をおこなうとともに,しばしば宋にも侵入したA。その文化はおもに中国文化が採用され,中国風の制度や漢字のつくり方をもとにした西夏文字が用いられ,儒教や仏教もさかんであった。


@ のちの金・元・清もこのような性格の国で,中国のより広大な領土を支配した。
A 「と西夏はしばしば宋をおびやかしたので宋はその圧迫に耐えかねて和を結び,毎年銀・絹・茶などをおくって,一時的な平和維持につとめなければならなかった。

●金の侵入と南宋●
 そのころ中国東北地方では,半猟半農の生活をいとなむツングース系の女真(女直)がおこっていた。彼らははじめ「の支配下にあって,その文化的影響をうけていたが,やがて民族的に自覚し,12世紀初めに完顔阿骨打(太祖)が独立して国名を金と称した。そのころ「の国勢はおとろえていたので,宋は新興の金と結んで「をほろぼした(1125年)。このとき「の皇族耶律大石は中央アジアにのがれ,トルコ系のカラ=ハン朝にかわってカラ=キタイ(西「)をたて,さらに当時東トルキスタンで分立していた多くの小国をあわせ,「の文化を西方で維持した。
 宋は,金と結んで「をほろぼしたものの,たちまち領土問題をめぐる紛争がおこって金の侵入をうけ,首都開封をうばわれてほろび,上皇の徽宗,皇帝の欽宗をはじめ,皇族・重臣など多数がとらえられた(靖康の変,1126〜27年)。そこで皇帝の弟高宗が江南にのがれて帝位につき,南宋をたて,臨安(現在の杭州)を首都とした。南宋では岳飛らの主戦派と秦桧らの和平派が対立し,一時は失地の回復をくわだてたが成功せず,ついに和平派が勝利を占めて金と和議を結んだ(1142年)。この結果,南宋は金に対して臣下の礼をとるようになり,毎年銀と絹をおくることを約束し,淮河(淮水)を両国の国境と定めた。
 金は猛安・謀克@という在来の軍制を維持しながら中国風の官制を採用し,はじめは「にならって二重統治をおこなった。また女真人が中国文化に同化されるのをおそれて,女真文字をつくったりしたが,けっきょくは中国化した。13世紀に入ると,金は財政難のため交鈔(紙幣)を乱発して経済界が混乱し,国力もおとろえ,ついにモンゴル民族にほろぼされた(1234年)。


@  300戸を1謀克,10謀克を1猛安とする部族制的な軍事・行政制度。

●宋代の社会●
 宋代にも大土地所有は発展したが,荘園の所有者の多くは官戸・形勢戸であり@,耕作者は農奴的な小作人の佃戸であった。佃戸は自分の小作地をたがやし,収穫物をだいたい地主と2等分し,地主から種々の労役がかけられた。そのうえ,彼らは自由な移住を許されなかったが,反面,地主の保護をうけていたから,重税に苦しむ自作農より生活にめぐまれた面もあった。一方,はなやかな宮廷生活の費用と増大する軍事費の負担は,重税となって一般自作農にかかり,彼らは故郷をすてて流浪し,社会の動揺を引きおこした。
 宋の南渡以来,江南の開発が進み,稲の品種も改良されてA,江南は米作地帯として栄え,以後の中国における重要な経済の中心地となった。一方,華北の乾燥農業地帯でも,唐の中期以後農業技術が進歩して,単位面積あたりの生産量が増え,小麦・アワ・豆などの2年三毛作もおこなわれるようになった。また製茶や絹織物・陶磁器などの手工業も発達し,江西省の景徳鎮は陶磁器の代表的な生産地となった。
 唐代には長安・洛陽・揚州などの都市がおおいに発達したが,商業は市という一定の地区内でのみ許されるなどの制限が加えられ,まだ政治都市の性格が強かった。宋代にはこうした制限がくずれ,商人は自由に店をかまえて夜間営業も許されるようになったので,商業都市が発達した。このほか海外貿易の発展にともなって,広州・泉州・明州(寧波)など多くの港市が栄え,唐代にひきつづき貿易管理機関として市舶司もおかれた。さらに地方には小規模な交易場の草市が発展し,鎮・市とよばれる小商業都市も発生した。唐の中期以後さかんになった商業は,宋代になるとますます大規模になり,金融業者が増え,行(商人)・作(手工業者)などの同業組合もうまれて,塩・茶・米・絹などをあつかう大商人が活躍するようになった。このような商業貿易の発達にともなって貨幣経済が発展し,銅銭のほか金銀も地金のまま用いられ,手形Bとして発生した交子・会子が紙幣として使われるようになった。


@ 官僚をだした家は官戸とよばれ,徭役の免除などの特権をあたえられた。科挙に合格して官僚となるものの多くは地方の有力地主である形勢戸からでた。
A 北宋の時代にインドシナから伝わった占城稲はひでりに強い早稲種で,やがて広く普及した。
B 送金手形は唐代後期にはじまり,飛銭とよばれた。

●宋代の文化●
 唐の文化が国際色豊かであったのにくらべ,宋の文化はきわめて中国的なものであった。しかも地主・官僚などの士大夫@を中心に学問・思想・文学・美術が発達し,都市の繁栄を背景として新興の庶民階層を中心に文芸・工芸など庶民文化も栄えた。
 学問・思想では,経典の字句の解釈にとらわれず,経典そのものから儒学の精神・本質をあきらかにしようとする宋学がおこった。それは北宋の周敦頤にはじまり,南宋の朱熹(朱子)によって大成されたので朱子学Aともいわれる。朱子学はその後長く儒学の正統とされ,日本や朝鮮の思想にも大きな影響をあたえた。朱熹が学問や知識を重んじたのに対して,陸九淵(陸象山)は人間の心性を重んずる立場をとり,その説は明代の陽明学の源流となった。なお中国では古くからみずからを中華とほこり,周辺の異民族を文化程度の低い夷狄とさげすむ中華思想があったが,朱子学では,当時,南宋が北方民族と対立していたことから華夷の区別を論じ,君臣・父子の身分関係を正す大義名分論がとなえられた。そのほか,宋代には民族意識が高まり歴史・地理などの学問が重視され,書物も多くあらわされたが,編年体の中国通史である司馬光の『資治通鑑』はとくに名高い。
 美術では,山水・花鳥画が発達し,知識人を中心とする理想主義的な文人画や,徽宗をはじめ宮廷画家を中心とする写実的な院体画がうまれた。この両派はやがてそれぞれ南宗画・北宗画となり,その伝統は清末ころまで中国画壇を支配した。工芸では,青磁・白磁などの陶磁器の発達にめざましいものがあり,中国隣接諸国の陶芸の模範となった。
 文学では散文がさかんになり,欧陽脩Bや蘇軾(蘇東坡)らの名文家がでたほか,口語をまじえた小説や雑劇とよばれる演劇などの庶民的な文芸がおこった。また新体の韻文である詞は,音曲にあわせてうたわれ,歌妓や一般子女のあいだに流行した。宗教では禅宗が官僚層によって支持され,金の統治する華北で儒・仏・道3教を調和した全真教(開祖は王重陽)が,道教の革新をとなえておこった。
 またこの時代には木版印刷術が発達し,文化の普及に役立った。火薬の製法が知られ,羅針盤Cが航海に利用されるようになったのもこのころで,これらはいずれもヨーロッパよりはやく実用化されたD。


@ 読書人ともいい,知識階級を意味する。
A 朱子学では経典として,五経よりも四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)をとくに重んじた。
B 彼は歴史家でもあり,『新唐書』や『新五代史』を編纂した。
C ここでいう羅針盤は磁石の原理によって方向を知る道具で,後世のそれは,これから発達したものである。
D 印刷術・火薬・羅針盤はヨーロッパのルネサンスの3大発明といわれているが,中国での発明はこれに数百年さきだつもので,火薬と羅針盤はイスラム世界をつうじてヨーロッパに伝えられたといわれる。
4 モンゴル民族の発展

●モンゴル帝国の成立●
 モンゴル高原では9世紀なかごろにウイグルが分散したのちは,統一勢力はあらわれず,10世紀の初め「がおこると,諸部族の多くはこれに服属した。12世紀初めに「がほろんでその圧力がなくなると,モンゴル高原の諸部族のあいだに統合の動きが強まった。やがて高原東北部で遊牧していたモンゴル部族は,チンギス=ハン(成吉思汗・テムジン)の指揮のもとに勢力を拡大し,1206年にはモンゴル系・トルコ系の諸部族を統一してモンゴル(蒙古)帝国を形成した@。帝国の軍事・行政組織として,全遊牧民を1000戸単位に編制した千戸制がしかれ,強力な軍事力の基盤となった。
 その後,チンギス=ハンのひきいるモンゴルの騎馬軍は,内陸の東西貿易路を進み,カラ=キタイをうばったナイマン部族をほろぼし,西トルキスタン・イランを支配するホラズム朝Aを倒し,さらに西北インドに侵入し,また西夏をほろぼした。彼の死後即位したオゴタイ=ハンは金をほろぼし(1234年),首都を外モンゴルのカラコルムに定めた。ついでバトゥのひきいる軍はロシアの大半を征服し,さらにポーランド・ハンガリーにも侵入し,ドイツ・ポーランドの諸侯連合軍をワールシュタットの戦い(1241年)で破り,ヨーロッパ世界をおびやかした。一方,西アジアではモンケ=ハンの命をうけたフラグがバグダードを占領してアッバース朝をほろぼし(1258年),イスラム教徒を圧迫した。こうしてモンゴル帝国は13世紀のなかごろに,東は中国北部から西は西アジア・ロシアにわたる空前の大帝国となった。


@ モンゴルではクリルタイ(集会の意味)という部族会議があり,ここでハン(君主)の選出や遠征など重要なことがらを合議のうえで決定した。
A 11世紀後半,中央アジアで独立したトルコ系イスラム王朝。

●モンゴル帝国の分裂●
 しかしこの大帝国には,遊牧地帯と農耕地帯があり,宗教や文化のことなる民族が多数いたので,全領土を単一の組織で統治することはもともと困難であった。チンギス=ハンが子供たちに領土をわけあたえたことから分裂の傾向があらわれ,西北モンゴルにオゴタイ=ハン国,中央アジアにチャガタイ=ハン国,ロシアにキプチャク=ハン国,イラン方面にイル=ハン国が形成された(4ハン国)。フビライ(世祖)が宗家のハンの位についた(1260年)ころには,激しい相続争いから約40年におよぶハイドゥの乱がおこり,諸ハン国は独立して,モンゴル帝国は事実上分裂した。
 チャガタイ=ハン国はハイドゥの乱後まもなくオゴタイ=ハン国をあわせたが,14世紀ころから内部の紛争が激しくなり弱体化した。キプチャク=ハン国は黒海から東方につうじる交通路を支配したが15世紀にはおとろえ,モスクワ大公国の独立とともに姿を消した。イル=ハン国はガザン=ハンのときイスラム教を国教とし,ラシード=ウッディーンを宰相に用い,文化も発展して全盛期をむかえた。しかしその後は内乱に苦しみ,この王朝の滅亡後,その領土は中央アジアを統一したティムール朝に併合された。

●元の中国支配●
 世祖フビライは,中国の農耕地帯の富に目をつけて大都(現在の北京)に都を定め,国名を中国風に元と称し(1271年),ついで南宋をほろぼして中国全土を支配した(1279年)。元の領土はフビライ=ハンのとき最大となり,モンゴル高原・中国を中心にチベット・朝鮮(高麗)を属国とした。さらに彼は日本・ヴェトナム・チャンパー・ミャンマー・ジャワにも遠征軍をおくった。その遠征は強い抵抗にあって多くのばあい目的を達成できなかったが,これら各国の情勢に大きな影響をおよぼし,ミャンマーではパガン朝を滅亡させた。
 元は中国に対し,従来の州県制にもとづく中国的な統治をおこなったが,征服者としてモンゴル人第一主義をとり,彼らが中央政府の首脳部を独占し,地方行政機関もモンゴル人を長とした。モンゴル人についで色目人とよばれた中央アジアや西アジア出身の異民族を重く用い,この両者が支配階級を形成した。これに対し,金の支配下にあったものを漢人@,南宋の支配下にあったものを南人とよび,被支配階級として冷遇した。はじめは科挙もおこなわれず,中国の士大夫とくに儒者が打撃をうけた。
 しかし支配者であるモンゴル人の数は少なく,中国社会の基盤は宋代とかわらぬ大土地所有制で,その土地は佃戸によってたがやされていた。もともとモンゴル人は遊牧民であるので,中国の農耕社会に根をおろすことができず,ただ強大な武力を背景にして中国を支配したにすぎなかった。
 フビライの死後,元朝内部では相続争いが続き,宮廷貴族のぜいたくな生活やチベット仏教の信仰による莫大な経費で財政が窮乏した。その対策としておこなった交鈔の乱発や専売制度の強化などは,物価騰貴をいっそう激しくし,民衆の生活を苦しめた。社会不安が高まり,各地で暴動がおこったが,そのなかでも貧しい農民を主体とする紅巾の乱(白蓮教徒の乱A)はもっとも激しかった。これを機に江南地方では群雄が各地におこり,食料供給源を失った元は,まもなく江南から北上してきた明軍に大都をうばわれ,モンゴル高原に追いはらわれた(1368年)。


@ 華北の漢人のほかに,契丹人・女真人などをさす。
A 白蓮教は仏教的要素の強い代表的な民間の宗教的結社で,宋代にはじまり,元末には,弥勒仏が将来,救世主としてこの世にあらわれるという下生信仰と結びついて大きな勢力となった。

●交通・貿易の発達●
 アジア北方の遊牧騎馬民族は,古くから商業にもたずさわっていたが,商品運搬や商品課税による利益をとくに重視し,しばしば通商路を攻略してこれを確保した。モンゴル帝国は,初期から交通路の安全を重視し,その整備や治安の確保につとめ,さらに駅伝制@を施行した。
 その結果,おもにムスリム商人の隊商による陸路貿易が活発になり,交易は東アジアから中央アジア・西アジアをへて遠くヨーロッパにおよんだ。またインド洋経由の海上貿易も,宋代にひきつづいてさかんにおこなわれ,杭州・泉州・広州などの港市が繁栄したA。
 元の首都大都には,多数の官僚や商人が集まっていたが,その付近では彼らの食料を自給できなかったので,これを江南から運ぶために,隋代以来の大運河が補修され,新運河もひらかれた。しかし輸送上の支障も多かったので,別に長江下流から山東半島をまわって大都方面にいたる海運も発達した。貨幣としては,はじめ銅銭・金・銀が用いられたが,やがて交鈔が政府から発行された。この紙幣は多額の取引や輸送に便利であったから,元の主要な通貨となった。


@ モンゴル語で駅伝をジャムチという。大都を中心とする幹線道路に沿って駅を設け,駅には周辺の住民から馬・食料などを提供させた。
A マルコ=ポーロは泉州をザイトンの名で,当時世界一の繁華な貿易港の一つとして記述している。

●東西文化の交流と元代の文化●
 モンゴル帝国の成立により,東西の交通路が整備されたため,東西文化の交流もさかんになった。当時西ヨーロッパは十字軍をおこしていたので,イスラム教徒を征服したモンゴル帝国に関心を持ち,ローマ教皇はプラノ=カルピニ,フランス王ルイ9世はルブルックを使節としてモンゴル高原におくった。またイタリアの商人マルコ=ポーロは大都にきて元につかえ,元末にはモロッコ出身の大旅行家イブン=バットゥータもおとずれた。
 モンゴル帝国は一時イスラム教を圧迫したが,キプチャク=ハン国がまもなくイスラム教を保護し,つづいてイル=ハン国もこれにならった。また当時,元にきた色目人にイスラム教徒が多かったことから,中国にもイスラム教がしだいに広まった。そしてアラビアの天文学・数学などが中国に伝えられ,暦法の改革がおこなわれた。郭守敬のつくった授時暦は,のち日本にも影響した(江戸時代の貞享暦)。また元からはイル=ハン国に中国絵画が伝えられ,それがイランで発達した細密画(ミニアチュール)に大きな影響をあたえた。
 イル=ハン国はその初期にネストリウス派のキリスト教を保護し,ヨーロッパのキリスト教諸国やローマ教皇庁と使節を交換していたが,これがきっかけとなって,13世紀末にはモンテ=コルヴィノが派遣され,大都の大司教に任ぜられた。中国でカトリック教が布教されたのは,これがはじめてであった。
 元代には中央アジアや西アジアの文化がさかんに輸入されたが,中国文化の主流をかえるほどのことはなかった。ただモンゴル人は中国を征服する前から,すでにそのような西方の優秀な文化に接していたので,中国文化に対してあこがれを持たず,公用語としてモンゴル語を用い,公文書にウイグル文字やチベット文字系のパスパ文字を多く用いた。中国固有の学問や思想はふるわなかったが,庶民文化はモンゴル人に理解されやすいこともあって,戯曲・小説などが宋代につづいて発達した。なかでも戯曲は元曲として中国文学史のうえに重要な地位を占めており,『西廂記』『漢宮秋』などがその代表作である@。小説でも『三国志演義』『水滸伝』などの原形ができあがった。


@ これら北京で発達した北曲に対し,江南地方で発達した戯曲は南曲とよばれ,『琵琶記』などがある。

●隣接諸国の変遷●
 朝鮮では10世紀に王建が新羅にかわって高麗をたて,半島を統一して開城を都とした。高麗は唐と宋の制度を採用して栄えたが,やがて武官が政権をにぎり,モンゴルの侵入をうけると,ついにその属国となった。高麗では仏教が国家の保護によってさかんになり,『大蔵経』も刊行され,製陶の技術が進んで高麗青磁がつくられ,世界最古といわれる金属活字が発明された。
 ヴェトナムは五代の動乱の時期に,1000年にわたった中国の支配から独立し,11世紀に李朝が成立して大越国と号した。李朝は支配体制をととのえて勢力をのばし,宋の侵入をしりぞけたりしたが,13世紀に外戚の陳氏にほろぼされた。陳朝も行政制度や科挙制をととのえるなど,国力の充実をはかり,3度にわたるモンゴル人の侵入を撃退した。字喃という国字もこの王朝の時代に使用された。
 雲南では10世紀に南詔国にかわってタイ人が大理国をたてたが,フビライ(のちの元の世祖)にほろぼされた。
 日本は9世紀末に遣唐使を廃止して中国と国交を持たなくなり,以後,平安時代後期にわたって独自の日本文化が発達した。しかし商人や僧侶の往来はおこなわれ,宋・元文化の影響は鎌倉時代に禅宗をはじめ,宗教・文学・芸術などの各方面におよんだ。また13世紀後半には,2回にわたって元軍の侵入(元寇)をうけたが,ともにこれを撃退した。
第6章 イスラム世界の形成と発展

 アラブの預言者ムハンマドのはじめたイスラム教は,ユダヤ教やキリスト教の影響をうけてうまれた厳格な一神教であるが,その独特の聖戦の概念により,約1世紀のあいだに東は中央アジアから北アフリカをへて,西はイベリア半島にいたる大帝国をつくりあげた。11世紀以降は北アフリカのベルベル人の改宗が進み,内陸アフリカにもイスラム教が広まった。またインドにもイスラム勢力が侵入して王朝を建設したが,イスラム・ヒンドゥー両教徒の対立する今日のインドの情勢はここにはじまっている。さらに13世紀以後になると,貿易活動を通じて東南アジアの諸島部もしだいにイスラム化された。
 征服地でははじめアラブ人だけが特権階級であったが,アッバース朝時代になってイスラム法がととのえられると,平等の原則が支配的になった。しかし,イラン人やトルコ人に政治の実権が移っていくにしたがい,カリフ体制下のイスラム帝国は分裂をかさねるようになった。
 西アジアのイスラム社会では,はじめ官吏や軍人に国家から俸給が支払われていたが,中央権力がおとろえると,軍人に土地からの徴税権をあたえ,直接農民や都市民から徴税させるイクター制が各地に広まった。
 イスラム文明は,コーランを中心とする宗教・学問と,外来の文明とが融合してできたものである。とりわけ9世紀以降,文献の翻訳によりギリシアやインドからまなんだ自然科学・数学の研究の成果は,ヨーロッパにも大きな影響をあたえた。またイスラム商人は東西への交易により,中国・インド・ヨーロッパのあいだを媒介し,文明の交流に大きな役割を演じた。

1 イスラム帝国の成立

●ムハンマドとイスラム教●
 アラビア半島はイエメン南部をのぞく大部分が砂漠におおわれ,セム系のアラブ人は各地に点在するオアシスを中心に古くから遊牧や農業生活をいとなみ,隊商による商業活動をおこなっていた。6世紀の後半,ササン朝とビザンツ帝国は長い戦争状態にあったため,絹の道は両国の国境でとだえ,ビザンツ帝国の国力低下とともに,その支配していた紅海貿易もおとろえた。そのため絹の道や海の道によって運ばれた商品は,いずれもアラビア半島西部を経由するようになり,メッカの大商人はこの国際的な中継貿易を独占して莫大な利潤をあげていた。この町にうまれたクライシュ族の商人ムハンマド(マホメット)は, 610年ころ唯一神アッラー@の啓示をうけた預言者であると自覚し,さまざまな偶像を崇拝する多神教にかわって,厳格な一神教であるイスラム教をとなえた。しかし富の独占を批判するムハンマドはメッカの大商人による迫害をうけ, 622年に少数の信者をひきいてメディナに移住し,ここにイスラム教徒(ムスリム)の共同体を建設した。この移住をヒジュラ(聖遷)Aという。
  630年,ムハンマドはムスリムの戦士をひきいてメッカを征服し,多神教の神殿であったカーバをイスラム教の聖殿に定めた。その後アラブの諸部族はつぎつぎと彼の支配下に入り,その権威のもとにアラビア半島のゆるやかな統一が実現された。
 イスラム教の経典『コーラン』は,ムハンマドにくだされた啓示の集成であり,アラビア語でしるされているB。その教義の中心はアッラーへの絶対的服従(イスラム)であるが,そのおきては信仰だけではなく,世俗の生活のすべてを規制している。したがってイスラム教は,たんに宗教であるばかりでなく,政治的・社会的・文化的活動のすべてにわたる信者の生活の体系でもある。


@ アッラーは,すでにイスラム以前から,メッカの人々によって神々のなかの至上神として信仰されていた。
A イスラム暦(ヒジュラ暦)は,この年の年初(西暦 622年7月16日)を紀元元年1月1日とする太陰暦である。
B ムハンマドは『新約聖書』と『旧約聖書』を『コーラン』にさきだつ神の啓示の書とみなしたから,キリスト教徒とユダヤ教徒は「啓典の民」として信教の自由を認められた。

●アラブ人の征服●
 ムハンマドの死後,イスラム教徒は共同体の指導者としてカリフ(後継者の意)を選出した。アラブ人はカリフの指導のもとに大規模な征服(ジハード<聖戦>)をはじめ,東方ではササン朝をほろぼしてその領土をあわせ,西方ではシリアとエジプトをビザンツ帝国からうばい,多くのアラブ人が家族をともなって征服地に移住した。こうした生活環境の急激な変化によってイスラム教徒間に対立がおこり,第4代カリフのアリーが暗殺されると,彼と敵対していたシリア総督のムアーウィヤは, 661年ダマスクスにウマイヤ朝をひらいた。アリーまでの4代のカリフを正統カリフという@。
 ウマイヤ朝は8世紀の初め,東方ではソグディアナとシンド,西方では北アフリカを征服し,やがてイベリア半島に進出して西ゴート王国をほろぼした( 711年)。その後,しばしばフランク王国に侵入したが,トゥール・ポワティエ間の戦い( 732年)に敗れ,ピレネー山脈の南にしりぞいた。
 この大帝国は,アラブ人イスラム教徒の征服によって成立し,その政策の中心はアラブ人がいかに異民族支配をおこなうかにあった。アラブ人は帝国の支配者集団であり,多くの特権をほしいままにし,その代表者であるカリフの権限は征服の拡大につれてしだいに強大なものとなっていった。国家財政の基礎である地租(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)は征服地の先住民だけに課せられ,たとえ彼らがイスラム教に改宗しても免除されることはなかった。


@ ウマイヤ朝をはじめとするイスラム教徒の多数派はスンナ派(スンニー)とよばれ,ムハンマドの言行(スンナ)を生活の規範とし,共同体の統一を重視する。一方,少数派であるシーア派は,第4代のカリフであったアリーの子孫だけがイスラム共同体を指導する資格があるとして,以後スンナ派と対立してきた。

●イスラム帝国●
 『コーラン』は信者の平等を説く。そのため征服地の新改宗者(マワーリー)は,ウマイヤ朝の政策を『コーラン』の教えにそむくとみなし,またアラブ人のなかにも,ウマイヤ朝の政策を批判するものがでてきた。このような人々は,ムハンマドの叔父の子孫であるアッバース家の革命運動に協力し,これが成功して 750年にアッバース朝がひらかれ,第2代カリフのマンスールのとき,肥沃なイラク平原の中心に円形の新首都バグダードが建設された。
 アッバース朝のもとで,イラン人を中心とする新改宗者が要職につけられ,宰相の統率する官僚制度が発達し,行政の中央集権化が進んだ。アラブ人の特権はしだいに失われ,イスラム教徒であれば,アラブ人以外でも人頭税が課せられず,他方アラブ人でも,征服地に土地を所有する場合には地租が課せられるようになった。公用語はいぜんとしてアラビア語であったが,民族による差別は廃止され,カリフの政治はイスラム法@にもとづいて実施されたことが特徴である。


@ イスラム法は,『コーラン』を第1の基礎にして9世紀ころまでに体系化された。

●イスラム帝国の分裂●
 アッバース朝が建国されると,ウマイヤ朝の一族はイベリア半島にのがれ, 756年コルドバを首都とする後ウマイヤ朝をたてた。後ウマイヤ朝は政治的にはアッバース朝と対立していたが,東方の文化を積極的に吸収し,この地に高度なイスラム文明をうみだした。
 アッバース朝の黄金時代はハールーン=アッラシードの時代におとずれた。しかし,その没後から帝国内のエジプトやイランには独立の王朝がつぎつぎと成立し@,カリフの主権がおよぶ範囲はしだいに縮小した。10世紀の初めチュニジアに建国され, 969年エジプトを征服して首都カイロを建設したファーティマ朝Aは,シーア派のなかでもとくに過激な一派であった。彼らは建国のはじめからカリフの称号を用い,正面からアッバース朝の権威を否定した。また,後ウマイヤ朝の君主も,10世紀初めからファーティマ朝に対抗してカリフと称したから,イスラム世界では3人のカリフがならびたち,帝国の分裂は決定的となった。そのうえ,イラン人の軍事政権ブワイフ朝は 946年にバグダードに入城し,カリフからイスラム法を施行する権限をあたえられた。このときから,イスラム世界はあたらしい変革の時代をむかえる。


@ 独立王朝には,エジプトのトゥールーン朝,イランのサーマーン朝などがある。
A 彼らは,アリーを父,ムハンマドの娘ファーティマを母とするものの子孫であると自称した。
2 イスラム世界の発展

●東方イスラム世界●
 北アジアを原住地とする遊牧民であったトルコ人は騎馬戦士としてすぐれていたので,アッバース朝のカリフは,9世紀初めころからマムルークとよばれるトルコ人奴隷を親衛隊として用いた。マムルーク勢力の増大はかえってカリフ権力の低下をまねく原因となったが,異教の世界からマムルークを購入し,軍事力の中心とすることは,その後のイスラム世界にしだいに一般化していった。
 中央アジアにおこったトルコ人のセルジューク朝もこれらのマムルークを採用した。始祖トゥグリル=ベクは1055年にブワイフ朝を倒してバグダードに入城し,アッバース朝カリフからスルタン(支配者)の称号をさずけられた。スンナ派を奉ずるセルジューク朝は,シーア派のファーティマ朝に対抗して領内の主要都市に学院(マドラサ)@を設け,スンナ派の神学と法学を奨励し,思想の統一につとめた。セルジューク朝はイェルサレムをふくむシリアの海岸地帯に進出しビザンツ領を圧迫したので,ヨーロッパのキリスト教国が十字軍をおこす原因となった。しかし12世紀なかば以後セルジューク朝は各地の地方政権に分裂し,1194年イラクのセルジューク朝はホラズム朝によってほろぼされた。
 一方,同じトルコ人のカラ=ハン朝は東・西トルキスタンをあわせてこの地にイスラム文化を導入し,またアフガニスタンのガズナ朝は10世紀末から北インドへの侵入を開始した。イスラム帝国の分裂にもかかわらず,このようなトルコ人の活躍により,イスラム世界は着実に拡大した。
 その後モンゴルの勢力が発展し,フラグのひきいるモンゴル軍は西アジアに進出して,1258年にバグダードをおとしいれた。ここにアッバース朝は滅亡し,カリフ制度もいったん消滅したA。フラグはイラクとイランを領有してイル=ハン国をひらいた。はじめ同国はエジプトのマムルーク朝と敵対していたが,ガザン=ハンにいたってイスラム教を国教とし,みずからもこれに改宗した。彼は,人頭税・家畜税を主とするそれまでのモンゴル式税制を,地租を中心とするイスラム式税制に改め,農村の復興につとめた。これによってイラン社会は安定し,ガザン=ハンのイスラム教保護政策とあいまって,異民族モンゴル人の支配のもとで,イラン=イスラム文明が成熟した。


@ これらの学院は,建設を指導したイラン人の宰相ニザーム=アルムルクの名にちなんで,ニザーミーヤ学院とよばれた。
A カリフは 946年以後実権を失っていたが,6世紀以上にわたって正統派イスラム教徒の統合の象徴であった。

●カイロの繁栄●
 ファーティマ朝をほろぼしてエジプトにスンナ派の信仰を回復したアイユーブ朝のサラディン(サラーフ=アッディーン)は,1187年十字軍を破って聖地イェルサレムを奪回した。これに対し第3回十字軍は聖地の再征服をめざしたが成功せず,サラディンと和して帰国した。アイユーブ朝のスルタンは,トルコ人の奴隷を買い集めてマムルーク軍団を組織したが,やがてその勢力は強大となり,1250年アイユーブ朝を倒してエジプト・シリアにマムルーク朝を建設した。第5代スルタンのバイバルスは,シリアに侵入したモンゴル軍を撃退するとともに,アッバース家のカリフをカイロに擁立し,さらにメッカ・メディナを保護下におさめることによって,マムルーク朝の権威を高めた。
 アイユーブ朝からマムルーク朝中期へかけてのエジプトでは,比較的安定した政治がおこなわれたために,小麦や大麦など主要作物の生産が向上し,商品作物としてのサトウキビ栽培が普及した。歴代のスルタンは地中海・インド洋貿易を国家の統制下において利潤を独占し,首都カイロを美しいモスク(礼拝堂)や学院でかざり,ファーティマ朝時代に建設されたアズハル学院は,この時代にはスンナ派イスラム学のあたらしい中心となった。

●西方イスラム世界●
 11世紀のなかば,北アフリカ先住民ベルベル人のあいだに熱狂的な宗教運動がおこり,イスラム教への改宗が急速に進んだ。彼らはマグリブ地方のモロッコを中心にあいついでムラービト朝とムワッヒド朝とを建設し,ともにマラケシュに都を定めた。このころイベリア半島では,キリスト教徒による国土回復運動が高まりをみせており,両王朝ともこれに対抗するために半島へ進出したが,けっきょく敗退した。ムラービト朝は西部スーダンの黒人王国ガーナをほろぼし,内陸アフリカのイスラム化への道をひらいた。
 イベリア半島では,最後のイスラム王朝となったナスル朝が,わずかにグラナダとその周辺を保っていた。しかし1492年に,スペイン王国がグラナダをおとしいれると,イスラム教徒の多くは北アフリカにひきあげた。彼らがグラナダに残したアルハンブラ宮殿は,末期スペイン=イスラム文明の繊細な美しさをいまに伝えている。

●アフリカの諸国●
 エジプトをのぞいて現在知られているもっとも古いアフリカ人の国は,ナイル川上流のクシュ王国で,この国は前8世紀に一時エジプト王朝をほろぼしたが,その後アッシリアの侵入(前 667年)によって後退した。メロエに都をおいた時代は製鉄と商業によって栄え,メロエ文字(未解読)を用いた。しかし,4世紀にエチオピアのアクスム王国によってほろぼされた。
 西アフリカのガーナ王国は金を豊富に産し,ムスリム商人がおとずれて貴重品である塩と金を交換した。1076年のムラービト朝の征服は西アフリカのイスラム化を促進し,その後におこったマリ王国・ソンガイ王国の支配階級はイスラム教徒であった。ソンガイ王国は西アフリカの隊商都市の大部分を支配し,北アフリカとの交易で栄え,とくにニジェール川中流のトンブクトゥは内陸アフリカにおけるイスラムの学問の中心地であった。
 モガディシュ以北のアフリカ東岸の海港では,古くからアラビア・イランとの海上貿易がおこなわれていた。10世紀以降,その南のマリンディ・モンバサ・ザンジバル・キルワなどの海港都市にはムスリム商人が住みつき,彼らによるインド洋貿易の西の拠点として繁栄した。やがてこの海岸地帯では,アラビア語の影響をうけたスワヒリ語@が広く用いられるようになった。さらにその南方,ザンベジ川の南では11世紀ころから鉱産資源とインド洋貿易によってジンバブエが栄え,また15世紀以降はモノモタパ王国などの国々が活動したA。


@ スワヒリ(サワーヒリー)とは,アラビア語で「海岸地帯の人々」を意味する。
A これらの諸王国は,王を頂く中央集権組織と強力な軍隊を持ち,農牧民からの貢納,商人への課税によって成りたっていた。

●イスラムの社会と経済●
 西アジアのイスラム社会は都市を中心に発展した。各地の都市には軍人・商人・知識人@などが住み,信仰と学問・教育の場であるモスクや学院(マドラサ),および生産と流通の場である市場を中心にして都市生活がいとなまれた。
 またイスラム帝国の成立によって,これらの都市を結ぶ交通路が整備され,これを通じて知識や生産の技術が短期間のうちに遠隔の地へ伝えられたことが特徴である。
 西アジア社会では,はやくから貨幣の使用が活発であったが,イスラム時代になると貨幣経済はいちだんと発達した。ウマイヤ朝やアッバース朝の政府は都市や農村から貨幣と現物の二本だてで租税を徴収し,官僚や軍隊には予算にもとづいて現金俸給を支払った。カリフの力が強く官僚制がととのっているあいだはこの体制を維持することができた。しかし9世紀なかば以後,マムルーク軍人が台頭し,地方に独立の小王朝が樹立されると,カリフ権力はおとろえ,国庫収入はしだいに減少していった。
 そこでブワイフ朝はバグダードに入城すると,各人の俸給額にみあう金額を徴収できる土地の徴税権を軍人にあたえ,直接,農民や都市民から徴税させた。これをイクター制というA。都市に住む軍人は代理人をイクターに派遣して取り分を徴収したが,イクター制が西アジアに広く施行された後にも,スルタンやイクター保有者の保護のもとに,地中海とインド洋を結ぶ商業活動は活発におこなわれた。ムスリム商人は,奴隷や香辛料の貿易にたずさわるばかりでなく,インド・東南アジア・アフリカ大陸へのイスラム教の伝播にも大きな役割をはたした。
 また10世紀以後のイスラム社会では,都市の手工業者や農民のあいだに,形式的な信仰を排し,神との一体感を求める神秘主義(スーフィズム)Bがさかんになった。12世紀になると,聖者を中心に多くの神秘主義教団が結成され,教団員は貿易路に沿ってアフリカや中国・インド・東南アジアに進出し,各地の習俗をとり入れながら,イスラムの信仰を広めていった。


@ 法学や神学などのイスラム諸学をおさめた知識人をウラマーとよぶ。
A イクターとは,国家から授与された分与地,あるいはそれからの徴税権を意味する。イクター制はセルジューク朝のとき西アジアに広く施行され,イル=ハン国,デリー=スルタン朝,ティムール朝,オスマン帝国,ムガル帝国,サファヴィー朝で,本質的にこれと同じ制度がおこなわれた。エジプトへはアイユーブ朝のサラディンによって導入され,つぎのマムルーク朝時代に制度がととのった。
B イスラムの教義が複雑化し,形式化した9世紀ころから,修行によって神との一体感を求める神秘家(スーフィ−)があらわれた。修行にはさまざまな形があり,くりかえし神の名をとなえたり,音楽にあわせて踊る方法などがよく用いられた。
3 インド・東南アジアのイスラム化

●インドのイスラム化●
 インドでは8世紀の初め,ウマイヤ朝が一時シンド地方を征服したが,その支配は長続きしなかった。イスラム教徒による本格的なインド征服がはじまったのは,アフガニスタンにトルコ人のガズナ朝とイラン系を称するゴール朝が建設されてからである。ガズナ朝は10世紀末,ゴール朝は12世紀後半からインド侵入をくりかえし,北インドのほぼ全域がイスラム勢力の支配下に入った。
 ガズナ朝・ゴール朝はともに外部から侵入したイスラム王朝であったが,ゴール朝の将軍アイバクは13世紀の初めデリーに自立して,インド最初のイスラム王朝である奴隷王朝@をひらいた。その後ムガル帝国の建国まで,北インドにはデリーを都とする五つのイスラム王朝が続いたので,この時代をデリー=スルタン朝Aと総称する。
 インドに侵入したイスラム王朝は,最初は民衆にイスラム教を強制し,各地でヒンドゥー教の寺院や神像を破壊した。しかしデリー=スルタン朝の時代になると,インドの伝統的な社会機構をくずさず,そのうえにたって君臨するという現実的な政策がとられ,ヒンドゥー教徒に対しても比較的寛大であった。


@ アイバクをはじめ,3人のスルタンがマムルーク(奴隷)出身であったので,こうよばれる。
A デリー=スルタン朝の5王朝は,奴隷王朝・ハルジー朝・トゥグルク朝・サイイド朝・ロディー朝で,最初の4王朝はトルコ系,ロディー朝はアフガン系であった。

●東南アジアのイスラム化●
 ムスリム商人は8世紀ころから東南アジア経由で中国におもむき,さかんに貿易活動をおこなっていた。しかし東南アジアにイスラム教が広まるようになったのは,神秘主義教団の活動によってインドのイスラム化が進んだ13世紀以後のことである。13世紀の末にはスマトラ島の西北端,14世紀後半から15世紀にかけてジャワ島の東北岸にイスラム教徒の小国ができた。
 14世紀末ころからマレー半島西南部に成立したイスラム教国のマラッカ王国は,やがて半島を広く支配する大勢力となり,東南アジアの国際貿易の中心として栄えた。そしてイスラム教はこの貿易活動のルートに沿って,現在のインドネシアの島々やフィリピンの南部に広まっていった。ジャワ島東北岸のマタラム王国は,貿易のうえでマラッカとも密接な関係にあったが,16世紀末にはヒンドゥー教国のマジャパヒト王国の旧領土をおさえ,ジャワの内陸部へも支配を広げていった。
4 イスラム文明の発展

●イスラム文明の特徴●
 イスラム帝国が建設されたところは,古くから多くの先進文明が栄えた地域であった。イスラム文明は,征服者であるアラブ人がもたらしたイスラム教とアラビア語を縦糸,征服地の住民が祖先からうけついだ文化遺産を横糸として織りなした,あたらしい融合文明である。初期の代表的な建築であるイェルサレムの岩のドームや,アラブ文学の代表作とされる『千夜一夜物語』(『アラビアン=ナイト』)@などは,諸文明の融合を示すよい実例といえよう。
 この融合文明は同時にイスラム教を核とする普遍的文明であった。そのためこの文明はイスラム世界のいたるところでうけいれられ,やがて各地で地域的・民族的特色を加えて,イラン=イスラム文明,トルコ=イスラム文明,インド=イスラム文明が形成された。中世ヨーロッパはイスラム教には敵対したが,11〜13世紀のあいだにスペイン中部のトレドを中心にイスラム教徒の著作をつぎつぎとラテン語に翻訳し,これをまなびとることによってのちにルネサンスを開花させた。イスラム文明は,ギリシア文明を西ヨーロッパ文明へと橋渡しするうえでも,重要な役割をはたしたのである。
 またイスラム文明は本質的に都市の文明であり,そのおもなにない手は商人や手工業者であった。文学では読者の空想をさそう詩や説話文学,美術・工芸では繊細な細密画(ミニアチュール)や象眼をほどこした金属器,装飾文様では唐草文やアラビア文字を図案化したアラベスクなどがとくに発達した。


@ インド・イラン・アラビア・ギリシアなどを起源とする説話の集大成で,16世紀初めのカイロで現在の形にまとめられた。

●イスラム教徒の学問●
 最初に発達したイスラム教徒の学問は,アラビア語の言語学と,『コーラン』の解釈にもとづく神学・法学であった。その補助手段としてムハンマドに関する伝承が集められ,それが歴史学の発達をうながした。9〜10世紀の歴史家タバリーは年代記形式の大部な世界史を編纂し,14世紀の代表的歴史学者イブン=ハルドゥーンは『世界史序説』をあらわして,都市と遊牧民との交渉を中心に,王朝興亡の歴史に法則性のあることを論じた。
 イスラム教徒の学問が飛躍的に発達したのは,9世紀の初め,ギリシア語文献が組織的にアラビア語に翻訳されてからである。彼らはギリシアの医学・天文学・幾何学・光学・地理学などを学び,臨床や観測・実験によってそれらをさらに豊富で正確なものとした。インドからも医学・天文学・数学を学んだが,とくに数字(のちのアラビア数字)と十進法とゼロの観念を学んだことは,彼らの数学をおおいに発達させただけでなく,錬金術・光学で用いられた実験方法とともに,後世のヨーロッパ近代科学への道をきりひらいた。代数学と三角法も,フワーリズミーをはじめとするイスラム教徒によって開発された@。また『四行詩集』(『ルバイヤート』)の作者オマル=ハイヤームは数学・天文学にもすぐれ,きわめて正確な太陽暦の作成にかかわった。
 イスラム教徒はギリシア哲学,とくにアリストテレスの哲学をおおいに研究した。イスラム思想界は10世紀以後しだいに神秘主義思想の影響を強くうけるようになったが,信仰と理性の調和はよく保たれていた。それは神学者がギリシア哲学の用語と方法論をまなび,合理的で客観的なスンナ派の神学体系を樹立したからである。ガザーリーはこのような神学者の代表であり,また哲学の分野では,ともに医学者としても有名であったイブン=シーナー(ラテン名 アヴィケンナ)とイブン=ルシュド(ラテン名 アヴェロエス)がいるA。


@ アルコール・アルカリ・アルケミー(錬金術)・アルジェブラ(代数)などのことばは,アラビア語から西ヨーロッパの諸国語にとり入れられたもので,「アル」とはアラビア語の定冠詞である。
A パリ大学ではアリストテレス研究がおこり,ロジャー=ベーコンは経験科学への目をひらかれ,またイブン=シーナーの医学書『医学典範』は,16世紀までヨーロッパ各地の医学校の教科書として用いられた。

●人と物の東西交流●
 広大なイスラム世界の成立は,各地の都市を結ぶ自由な商品の流通を可能にしたが,ムスリム商人たちは,より多くの利潤を求めて,イスラム世界の外へも積極的に進出した。遠隔地貿易には隊商貿易と商船貿易とがあり,隊商は中国・南ロシア・内陸アフリカを往来し,商船は地中海・インド洋を自由に航行し,遠く東南アジアの島々や中国にいたるものもあった@。
 中国・東アフリカ・東南アジアの海港と内陸アフリカの集落には,ムスリム商人の居留地が設けられ,中国では彼らはタージー(大食)とよばれた。居留地には法学者や神秘主義者も移り住み,先住民をイスラムの信仰にみちびいた。イスラム教徒の旅行家では,『三大陸周遊記』をあらわしたモロッコのイブン=バットゥータが有名である。
 イスラム教徒は,タラス河畔の戦いAを機に唐軍の捕虜から製紙法をまなび,やがてそれはイベリア半島とシチリア島をへて,12世紀ころヨーロッパに伝えられた。同じく中国起源の羅針盤と火薬がヨーロッパに伝えられたのも,イスラム世界経由であった。インドから西アジアに伝えられた砂糖や木綿も,十字軍の将兵によってヨーロッパにもたらされた。また元の郭守敬の授時暦には,イスラム教徒の天文学の成果がとり入れられている。


@ おもな商品は香辛料・金・奴隷・木材・絹織物・陶磁器・象牙などであった。
A  751年,中央アジア北部のタラス川のほとりでアッバース朝のイスラム軍と唐軍とがたたかい,唐軍が大敗した。
第7章 ヨーロッパ世界の形成と発展

 およそ5世紀から15世紀までの時期は通常ヨーロッパでは中世といわれ,今日のヨーロッパ世界が形成された時代である。ゲルマンの民族移動にともなって西ローマ帝国が滅亡すると,西欧はゲルマン世界となり,やがて古代地中海帝国は,東ヨーロッパ・西ヨーロッパ・イスラム帝国の三つの世界に分裂した。
 まず東ヨーロッパは,ギリシア正教が多くの地に普及し,ビザンツ皇帝がコンスタンティノープルの大主教を従属させて,中央権力の強い封建社会を形成した。国家としては,ギリシア・スラヴ系諸民族を主とするビザンツ帝国・セルビア・ブルガリア・ロシアなどが成立した。
 これに対し西ヨーロッパは,ローマ=カトリック教を信仰し,11世紀以降,皇帝と教皇が対立する二元的世界となり,典型的な封建社会を形成した。国家としては,ラテン系のイタリア・フランス,ゲルマン系のドイツ・イギリス・スカンディナヴィア諸国などの基礎がうまれた。
 この東西ヨーロッパの対立は, 800年のカール大帝の戴冠以後,あきらかになるが,東ヨーロッパの中心であるビザンツ帝国が11世紀以後おとろえたのに対して,西ヨーロッパでは,11世紀ころから封建社会の盛期となり,生産力の増大,都市の発展,キリスト教文化の隆盛に応じて,王権が発達し,やがて近代世界の主役となる地位をきずいていく。この西欧の歴史にかかわりあうのが,イスラム対キリスト教勢力の抗争の中核となる十字軍であった。
 西欧の拡大運動としての十字軍はけっきょく失敗に終わったため,教皇権力はしだいに衰退して,国王権力への従属を余儀なくされ,カトリック教義そのものを批判する改革者もあらわれた。経済的には貨幣経済の浸透,農民の地位の相対的向上,北イタリア諸都市を中心とする東方貿易の発展などによって荘園制は崩壊し,封建社会そのものが動揺したことから,各国では中央集権的な国民国家が形成されてきた。とくに国土回復運動に成功したポルトガルとスペインは王権を強化しつつ海外発展につとめ,大航海時代の先駆をなした。

1 西ヨーロッパ世界の成立

●ヨーロッパの風土と民族●
 西洋文明の舞台となったヨーロッパは,地理的にはユーラシア大陸のウラル山脈以西をさす。この地は,中部をほぼ東西にはしるカルパティア・アルプス・ピレネーなどのけわしい山脈をのぞいて,一般にゆるやかな起伏を持つ丘陵状の平野が広がり,気候は概して温暖で,森林と草地におおわれている。開墾や農業技術の進歩とともに,ここは牧畜をともなう穀物栽培(有畜農業)に適するようになり,全体として,モンスーン地帯の東・南アジアや,大河の流域をのぞいては砂漠とオアシスの広がる西アジアとは,はっきりことなった地域的特徴を持っている。
 しかし,こうしたヨーロッパにも,地域によりさまざまの差異がある。中央部の山脈以南の地中海沿岸地方は,比較的雨が少なく,石灰岩質のやせた土壌で,牧畜や果樹栽培に適している。中央部の山脈から北は,陽光は少ないが,雨の多い温暖な気候と肥沃な土壌にめぐまれ,また交通に便利な河川が多い。しかし西から東に移るにつれて,しだいに寒さと乾燥の度を増し,ロシアをへて中央アジアの草原地帯に移行する。
 このヨーロッパで活躍したのは,インド=ヨーロッパ語族の西方系の言語を話す民族であった。南欧ではギリシア人やイタリア人(ローマ人)・スペイン人,西欧ではケルト人・ゲルマン人,東欧ではスラヴ人などである。これらに加えて,東方からしばしば移動してきたウラル系・アルタイ系の遊牧民の活動もみのがせない。

●ゲルマン民族の大移動●
 ヨーロッパの中世はゲルマン民族の大移動をもってはじまる。アルプス以北のヨーロッパには,前6世紀ころからケルト民族@が広がっていたが,ゲルマン民族は,原住地のバルト海沿岸からケルト人を圧迫しながら四方に広がり,紀元前後ころには黒海沿岸やライン川の線まで進出し,ローマ帝国と境を接するようになった。
 ゲルマン民族は数十の部族にわかれ,各部族には1人の王または数人の首長がいた。その社会ではすでに貴族・平民・奴隷の別があったが,重要な問題は,王または首長・貴族が主宰し平民も出席する民会で決定したA。彼らは牧畜・農業・狩猟によって生活していたが,人口が増加し,農業が重要になるにつれて土地が不足し,これが民族移動の内的原因となった。ローマの帝政末期になると,ゲルマン人はドナウ川の下流域まで広がり,ローマの下級官吏・傭兵・コロヌスとして平和のうちにローマ帝国内に移住するものも多くなった。
 4世紀後半にアジア系のフン人が黒海の北方から西に移動し,南ロシアにいたゲルマンの一派の東ゴート族をしたがえ,さらに西ゴートにせまったので,西ゴート族は 375年南下を開始し,翌年ドナウ川をこえてローマ帝国内に侵入した。これがゲルマン民族大移動の開始である。西ゴートはその後イタリアに侵入してローマ市をあらし( 410年),さらにイベリア半島にまで移動して建国した。これをきっかけとしてほかのゲルマン諸族も移動をはじめ,中部ガリアにはブルグント族,北ガリアにはフランク族,ブリタニアにはアングロ=サクソン族が,また北アフリカのかつてのカルタゴの地にはヴァンダル族が移動し,それぞれ建国した。
 この間,フン人はアッティラにひきいられてビザンツ(東ローマ)帝国に侵入,さらに西方に進出したがカタラウヌムの戦いで敗れ,アッティラの死とともにその大国家は崩壊した。こうした混乱のうちに,西ローマ帝国は, 476年ゲルマン人出身の傭兵隊長オドアケルにほろぼされ,オドアケルの王国も,フン人の支配から脱してイタリアに建国した東ゴート王国のテオドリック(大王)にほろぼされた。またゲルマン民族が移動したあとのエルベ川以東の地やバルカン半島には,スラヴ民族が広がった。
 こうして6世紀には,旧西ローマ帝国内にはいくつかのゲルマンの王国がつくられたが,そのうちライン川の中・下流をこえてガリアに進出したフランクがとくに有力となった。


@ ケルト人は,前4世紀ころにはアルプス以北のヨーロッパの広大な地域に広がっていたが,その後ローマ人やゲルマン人に圧迫され,今日ではアイルランド・ウェールズ・スコットランド・北フランスのブルターニュなど,ヨーロッパ北西隅に存続している民族である。
A ゲルマン人の原始の状態を知ることのできる史料として,カエサルの『ガリア戦記』やタキトゥスの『ゲルマニア』がある。

●フランクの発展●
 フランク族は,いくつかの小部族にわかれて北ガリアに広がり,5世紀末ころメロヴィング家のクローヴィスがこれらを統一して中部ガリアにまで領土を拡大し,イタリアの東ゴート王国にならぶ強国となった。ゲルマン諸族はおおむねニケーアの公会議で異端とされたアリウス派のキリスト教に改宗したが,クローヴィスは正統派としてローマ人のあいだで優勢であったアタナシウス派に改宗したため,ローマ人との関係も親密になった。これがフランク王国がやがて西ヨーロッパの中心勢力となった一因である。
 フランクでは8世紀になるとメロヴィング家の王権がおとろえ,宮宰(メロヴィング家の家政の長)が実権を持つようになった。ことに宮宰のカール=マルテルは,スペインから侵入したウマイヤ朝イスラム教徒の軍隊を 732年トゥール・ポワティエ間の戦いで破り,フランク王国とキリスト教を外敵からまもった。その子小ピピンは,教皇の支持をえて, 751年メロヴィング朝を廃して王位につき,カロリング朝をはじめた。

●ローマ=カトリック教会の成立●
 フランク王国の発展とともに勢力をのばしたのがカトリック教会である。帝政末期のローマ帝国内にキリスト教が広がるにつれて,五本山@とよばれる教会が重要となったが,なかでも西方のローマの教会と東方のコンスタンティノープルの教会がもっとも有力になった。ローマ帝国が東西にわかれ,さらに西ローマ帝国がほろびる混乱のなかで,ローマを中心とする西方の教会は,ビザンツ皇帝の支配下におかれた東方の教会と分離する傾向をみせはじめた。ローマの教会は,6世紀末の教皇グレゴリウス1世以来さかんにゲルマン人のあいだに布教し,各地の教会を勢力下におさめた。
 また6世紀にベネディクトゥスがイタリアのモンテ=カシノにひらいて以来各地に広まった修道院は,服従・清貧・貞潔など修道士のまもるべき徳目を定めて信仰を強化しA,広く民衆の教化につとめた。こうして勢力を拡大した西方の教会は,ビザンツ皇帝に対して独立の地位を獲得していった。しかもローマ市はペテロ・パウロの殉教の地とされ,そのためローマ教会の司教はペテロの後継者として尊敬を集め,教皇(法王)とよばれて権威を高めた。
 ビザンツ帝国は6世紀なかばユスティニアヌス帝のとき,東ゴート王国を倒して一時イタリアを回復したが,その支配は,まもなくイタリアに侵入した異端のロンバルド族のためにくつがえされた。そのため西方の教会はますますビザンツ皇帝の保護権からはなれるようになった。
 以前からキリスト教徒のあいだには,キリストや聖母マリアの画像をかかげてうやまう風習が広まっていた。しかしキリスト教はもともと聖像礼拝を厳禁する宗教であり,また偶像を否定するイスラム教徒から非難されたこともあって, 726年ビザンツ皇帝レオン(レオ)3世は聖像禁止令をだしたB。ところがローマ教会では,布教の手段として聖像を用いる必要があったから,これに対立し,ビザンツ皇帝にかわる保護者として有力な政治勢力を求めた。
 このころ,カール=マルテルはイスラム教徒を撃退してキリスト教世界をまもった。そこで教皇はこれに接近して,その子小ピピンがフランク王位につくことを認め,小ピピンはイタリアのロンバルド族を討って領土をうばい,ラヴェンナ地方を教皇に献じた。これがローマ教皇領の起源で,両者の結合はますます固くなった。


@ ローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアの5教会をいう。
A ベネディクトゥスは「祈れ,働け」を標語に労働をすすめたが,これは生産活動の多くを奴隷の仕事と考えた古典古代の労働観を転換させるきっかけとなった。
B この後もビザンツ帝国では聖像禁止令をめぐる紛争が続いたが,9世紀なかばに聖像崇拝が復活した。

●カール大帝●
 小ピピンの子カール大帝(シャルルマーニュ)は教皇をおびやかすロンバルド王国を征服し,北は異教のサクソン族を討ち,東はアジア系のアヴァール族をしりぞけ,南はイスラム教徒を破って,西ヨーロッパの主要部分を統一した。また全国を多くの州にわけ,各州に伯をおいて統治させ,巡察使を派遣して伯を監督させた。さらに法律を制定し,経済の発展をはかり,アルクィンらの学者をまねいて教育や文化の振興につとめた@。このためフランク王国はビザンツ帝国にならぶ強国となった。
 そこで 800年,ローマ教皇レオ3世はカールにローマ皇帝の帝冠をあたえ,ここに「西ローマ帝国」が教会との提携のもとに復興した。
 カールの戴冠はきわめて重要な意義を持っている。政治上では,民族大移動以来混乱をきわめていた西ヨーロッパが安定し,ビザンツ帝国とは別個の政治勢力にまとまったこと。文化上では,古代以来の古典文化の要素とキリスト教的要素に,あたらしく加わったゲルマン的要素が融合して一つの文化圏が成立したこと。宗教上では,ローマ教会がビザンツ皇帝から独立した地位をえたことである。そしてキリスト教世界は,やがて11世紀なかごろにビザンツ皇帝を首長とするギリシア正教会と,ローマ教皇を首長とするローマ=カトリック教会とに2分されるのである。カールの戴冠は,西ヨーロッパ中世世界の成立を象徴する事件であったといえる。


@ このカール大帝による文化の復興運動をカロリング=ルネサンスという。
2 西ヨーロッパ封建社会の発展

●フランク王国の分裂●
 フランク族にはもともと分割相続の習慣があって,領土の相続に関する紛争がしばしばおこっていた。またカール大帝の大国家は,中央集権の機構を持っていたが,広大な地域のため伯などの役人や地方有力者を統制する確実な手段がなく,有能な皇帝でなければ統治は困難であった。そのためカールの死後争いがおこり, 843年のヴェルダン条約と 870年のメルセン条約により,国土は東・西フランクとイタリアに3分され,のちのドイツ・フランス・イタリア3国の基礎がつくられた。
 イタリアは旧ローマ帝国の中心であるとともに教皇庁の所在地で,文化的地位は高かったが,諸侯や都市が各地で勢力をふるい,東フランクやビザンツ帝国の脅威にさらされ,また南にはイスラム勢力やヴァイキングの侵入もあって,国内は乱れがちであった。
 東フランク(ドイツ)では,各地の部族を基盤とする大諸侯が勢力を増した。10世紀初めにカロリング家の王統がたえ,諸侯の選挙によって王が選ばれるようになった。10世紀前半王位についたザクセン家のハインリヒ1世の子オットー1世は,ローマ帝国の復興をめざし,東方から侵入したウラル系のマジャール人を撃退し,また北イタリアに出兵して教皇をたすけ, 962年教皇から帝冠をさずけられた。これがのちの神聖ローマ帝国@の起源である。その後ドイツ王が皇帝の称号をうけついだが,歴代の皇帝は旧ローマ帝国の中心地イタリアに勢力を張ろうとして本国をおろそかにしたため,国内の不統一をまねいた。
 西フランク(フランス)でも10世紀末カロリングの王統がたえ,パリ伯ユーグ=カペーが王に選出されてカペー朝が成立した。しかしはじめ王領はきわめてせまく,王権はふるわず,地方分権の傾向が強かった。


@ 当時はたんに「帝国」と称したが,13世紀なかば以後,神聖ローマ帝国とよばれるようになった。

●ヴァイキングの活動●
 ヴァイキング@(ノルマン人)は北欧のスカンディナヴィアやユトラント半島を原住地とするゲルマン民族の一派(北ゲルマン)で,古くから海上に活動して広く商業をおこない,また海賊や略奪の行為でおそれられた。彼らは8世紀末から各地に進出し,やがて定着するようになり,10世紀初めにはロロにひきいられた一派は北フランスの一角にノルマンディー公国をたて,その一部は地中海にも遠征して,12世紀前半,南イタリアとシチリアにかけて両シチリア王国を建設した。
 大ブリテン島のイングランド地方には,民族大移動のときアングロ=サクソン族が移って七王国(ヘプターキー)をたてていたが,9世紀前半エグバートがこれの統一を進めた。しかしこのころからヴァイキング(イギリスではデーン人とよぶ)の侵入が激しくなった。9世紀末アルフレッド大王はこれを破ったが,その後も彼らの侵入は続き,1016年その王クヌート(カヌート)がイングランドを征服し,デンマーク・ノルウェーをも支配する大勢力となった。その後イングランドでは,アングロ=サクソンの王家が復活したが,1066年ノルマンディー公ウィリアムが攻めこんで,ウィリアム1世として即位し(ノルマン=コンクェスト),ノルマン王朝をたて,大陸から封建制度を移入して統治した。
 北ヨーロッパからは,リューリク(ルーリック)にひきいられたヴァイキングの一派(ルーシ)が,スラヴ人の地域に進出,9世紀にノヴゴロド国,ついでキエフ公国をたてた。これがロシアの起源である。このほか彼らの原住地にデンマーク・スウェーデン・ノルウェーの3王国が成立し,なかには遠く大西洋を横断して,アイスランドからグリーンランドをへて北アメリカにいたったものもあった。


@ 「入江の民」の意味であるが,のちに海賊をも意味するようになった。

●封建社会の成立●
 民族大移動後の長い混乱のあいだに,西ヨーロッパには荘園制を基礎とし,その上に主従関係による階層組織を持つ社会,すなわち封建社会が成立した。もともとローマ末期には恩貸地制度@,ゲルマン人のあいだには従士制度Aなどの主従関係が成立していたが,とくに8〜9世紀以来イスラム勢力やマジャール人,ヴァイキングの侵入があいつぐと,人々は自衛のため,遠方の王や皇帝でなく,付近の有力者に自分の土地を託して主従関係を結ぶようになった。この結果,有力者は多数の騎士をしたがえて勢力を増し,各地に城をつくって諸侯として自立したため,王は名目だけで,事実上はたんなる地方の一有力者にすぎなくなった。こうして王・諸侯・騎士のあいだには,主君は臣下に封土(知行)をあたえ,臣下は主君に忠誠を誓って軍役を主とする一定の義務を負担するという,封建的主従関係が幾層にも成立した。
 一方,外民族侵入の混乱のあいだに交通や商業はおとろえ,西ヨーロッパは自給自足を中心とする農業社会に移っていった。このなかで王・諸侯・騎士は聖職者とともに貴族の地位にたち,それぞれ所領(封土)を持つ領主として農民を支配するようになった。その所領は,村落を中心に,領主の直営地と農民保有地からなる耕地,農民が共同で利用する牧草地や森林などをふくむ土地からなっていた。これが荘園である。
 農民の多くは領主に対して賦役(労働地代)や貢納(生産物地代)の義務を持ち,移転の自由がなく,領主裁判権に服し,死亡税や結婚税をおさめるなど,さまざまの身分的束縛をうける農奴で,教会に対しても十分の一税を支払わなければならなかった。彼らはローマ末期のコロヌスや没落したゲルマンの平民の子孫で,長い混乱期に,土地を失ったり有力者の隷属下に入ったものである。荘園の成立期には手工業者も荘園に住んで,自給自足の現物経済が支配的であった。
 時代とともに社会の上層における主従関係は世襲となったが,それは相互のあいだの双務的な契約関係であったから,臣下は主君の無法な行為には服従をこばむ権利があり,また複数の主君につかえることができた。主君から封土として保証された所領内では,領主は裁判や課税について,国王の役人の手がおよぶのを防ぐ不輸不入権を持ち,領内の民は領主の私有の民のようであった。そのため11〜13世紀の封建制の盛時には,一般に権力が分散して王権は弱かった。
 王・諸侯・騎士は,いずれも騎士身分に属したが,やがてキリスト教の普及も加わって,彼らのあいだには軍事面を担当する支配階級にふさわしい道徳が形成された。それは勇武と主君への忠節を中心として,敬神や女性・弱者の保護,教養などを重要な徳目とするもので,騎士道とよばれるととのった道徳であった。


@ 土地所有者が自分の土地を有力者に献じて保護下に入るとともに,その土地を改めて恩貸地としてうけた慣習。
A 貴族や自由民などの子弟が,他の有力者に忠誠を誓ってその従者となる慣習。

●教会の権威●
 封建社会の成立期には,修道士たちによる民衆への教化が進み,ローマ=カトリック教会は西ヨーロッパ全域に精神的権威を確立し,また国王や貴族から広大な土地の寄進をうけ,政治的にも諸侯とならぶ支配階級になった。その組織も世俗の封建関係と同様に,ローマ教皇が全西ヨーロッパ教会の首長の地位にたち,その下に大司教・司教・司祭,修道院長など,聖職者の階層制度が成立した。
 ところが,こうした教会の世俗化が進むにつれて,聖職売買など種々の弊害が多くなったため,教会内で自浄作用がはじまり,11世紀にフランス東部のクリュニー修道院を中心に粛正運動がおこった@。この精神をうけついだ教皇グレゴリウス7世は,聖職売買や聖職者の妻帯を禁じ,また従来,君主や貴族ににぎられていた聖職叙任権を教皇の手におさめて,教会を世俗勢力の支配や干渉から解放しようとした。このため,教皇と,教会を統治の手段に利用していた神聖ローマ皇帝とのあいだに叙任権闘争とよばれる衝突がおこり,グレゴリウス7世は皇帝ハインリヒ4世を破門した。皇帝はこれを好機とするドイツ諸侯の反乱をおそれて,イタリアのカノッサで教皇に謝罪した(カノッサの屈辱,1077年)。また11世紀末以来,教皇の提唱によってたびたび十字軍遠征がおこされ,12世紀前半には,ヴォルムス協約により,教会権力の大幅な自立性が認められた。13世紀初めには教皇インノケンティウス3世がイギリス王ジョンを屈服させるなど,11世紀末から13世紀初めにかけて,教皇権は絶頂に達した。


@ このほか修道院運動の著名なものとして,11世紀末にはじまるシトー修道会,13世紀にイタリアのフランチェスコのはじめたフランチェスコ修道会,スペインのドミニコのはじめたドミニコ修道会などの活動がある。とくに後2者の修道士は民衆のなかに入って教化したので,托鉢修道会ともよばれる。
3 東ヨーロッパ世界

●ビザンツ帝国●
 西ヨーロッパがカール大帝のころまでに一つの文化世界にまとまっていったのに対し,バルカン半島から小アジア・東地中海の沿岸部にかけては,コンスタンティノープル(旧名ビザンティウム,現在のイスタンブル)を首都とするビザンツ帝国(東ローマ帝国)が独自の世界をつくりつつあった。この地域は民族大移動の影響も少なく,ローマ帝国末期のような皇帝の専制が長く維持された。西ローマがほろびたのちは,ビザンツ皇帝は唯一のローマ皇帝として,西ヨーロッパのゲルマン諸王に権威を認めさせ,地中海帝国の復興をめざした。一時的にそれを実現したのが,6世紀のユスティニアヌス帝である。彼は北アフリカのヴァンダル王国,イタリアの東ゴート王国をほろぼすなど,ローマの旧領の多くを回復した。また国内では『ローマ法大全』を集成し,首都に壮大な聖ソフィア聖堂をたて,また中国から蚕卵をえて,絹織物業がヨーロッパにおこる原因をつくった。
 しかし帝の死後,ロンバルドやフランクにイタリアの大半をうばわれ,東方ではササン朝,つづいてイスラム教徒の進出のためにシリア・エジプトなどを失い,さらにバルカン北部ではスラヴ民族の大量移住とアジア系のブルガール族の国家形成(第1次ブルガリア王国)によって,領土はしだいに縮小した。国内では聖像破壊をめぐる対立が長く続いて動揺し,カール大帝が西ローマ皇帝として戴冠すると,ビザンツ皇帝も聖像崇拝を認めざるをえなくなった。10世紀から11世紀前半にかけて,マケドニア朝の皇帝のもとで外民族を討ち,一時盛期を現出したが,やがて東方からセルジューク朝の脅威をうけ,13世紀前半には十字軍のため首都が占領されてラテン帝国がたてられるなど,国力はふるわず,ついに1453年にオスマン帝国にほろぼされた。
 この国では,農奴制による大土地所有が発展した点では西ヨーロッパと似た面を持っていた。しかし7世紀以降外民族の攻撃を防ぎ,あわせて中央集権をはかるため,屯田兵制や軍管区制(テマ制)@をしいて封建化を阻止する試みもなされた。また11世紀末以降は,軍事力強化のため地方有力者に国有地を貸与して軍役を奉仕させるプロノイア制がおこなわれた。けれどもこれらもあまり効果がなく,帝国後期にはふたたび農奴制による大所領が発展した。皇帝が政治・宗教面の最高の地位にあった点は西ヨーロッパとことなり,この点で帝国はアジア風の専制国家に近い性格を持っている。またここでは西ヨーロッパとちがって貨幣経済がおとろえず,コンスタンティノープルは中世をつうじて世界商業の中心としておおいに繁栄した。
 文化の面では,ローマ(ラテン)的な西ヨーロッパに対し,ギリシア語が公用語となり,ギリシア文化とギリシア正教を中心とする独自の性格をうみだした。美術では,ドームとモザイク壁画を特色とするビザンツ式建築をうみ,学問ではギリシアの古典をうけつぐ研究が進んだ。この国の文化史上の功績は,スラヴ民族を開化させたことと,古代の文化遺産をまもって,ルネサンスに影響をあたえた点にある。


@ 帝国をいくつかの軍管区にわけ,その司令官に行政の権限をあたえ(軍管区制),その指揮下の兵士に土地を分与するかわりに軍役を課して(一種の屯田兵制),大土地所有の傾向を防止しようとした。

●スラヴ民族の自立●
 ゲルマン民族の移動のあと,カルパティア山脈一帯を原住地とするスラヴ民族が東ヨーロッパに広がった。そのうち西方に拡大した西スラヴ族(ポーランド人・チェック人・スロヴァク人など)は,西ヨーロッパの影響下にカトリックに改宗し,ラテン的文化の影響をうけた。そのうちポーランド人は10世紀ころ自立し,14世紀前半カジミェシュ(カシミール)大王のもとで栄えた。その北にいたバルト語系のリトアニア人は,プロイセン(プロシア)に植民したドイツ騎士団に対抗するため,14世紀末ポーランドと合体してリトアニア=ポーランド王国(ヤゲウォ朝<ヤゲロー朝>)をつくり,15世紀にかけて強勢をほこった。またチェック人の国ベーメン(ボヘミア)は,11世紀に神聖ローマ帝国に編入された。中世末におこったフス戦争は宗教上の争いであるとともに,ドイツ人に対するチェック人の反抗でもあった。
 バルカン半島に南下した南スラヴ族のセルビア人は,ビザンツ帝国の支配をうけ,ギリシア正教に改宗した。12世紀ころからセルビア人は自立を開始し,14世紀前半にはバルカン北部を統合する大勢力になった。同じ南スラヴ族のクロアティア人やスロヴェニア人はローマ教会および西方文化の影響をうけた。またバルカン半島北部には12〜14世紀に第2次ブルガリア王国がつくられた。しかしこれらの国も,14世紀末以降侵入したオスマン帝国に征服され,以後南スラヴ族は長くその支配下に入ることになった。
 東方ロシアに拡大した東スラヴ族(ロシア人・ウクライナ人など)の地には,はやくも9世紀にスウェーデンのヴァイキングがノヴゴロド国,ついでキエフ公国を建設した。しかし彼らはまもなくスラヴ化し,キエフ公国は,10世紀のウラディミル1世のとき最盛期に達した。彼はギリシア正教に改宗し,ビザンツ風の専制君主政を模倣したため,文化のうえでも西ヨーロッパとちがった道を進むことになった。しかし国内は多数の諸侯が分立し,大土地所有が発達して農民の農奴化が進んだ。ところが,13世紀にアジアからバトゥのひきいるモンゴル人が侵入し,南ロシアにキプチャク=ハン国をたてると,キエフ公以下の諸侯はこれにしたがい,約 250年のあいだ,その支配に服することになった。
 しかし15世紀のころから商業の中心地モスクワのモスクワ大公国が強力となり,1480年大公イヴァン3世のもとでモンゴル人から自立し,東北ロシアを統一した。彼はほかの諸侯をおさえて強大な権力をにぎり,ビザンツ皇帝の後継者としてツァーリ@の称号を用いた。また勅令で全国の農民の移動の自由をうばい,農奴化を進めるなど,専制君主の地位をかためた。こうして16世紀のイヴァン4世の時代には,ロシアはポーランドにかわる東ヨーロッパの大勢力となり,モスクワが第2のコンスタンティノープルの地位を占めるようになった。


@ ローマ皇帝の称号の一つであった「カエサル」のロシア語形で,完全な独立君主,すなわち皇帝の意味。のちイヴァン4世によって正式にこの称号が採用された。
4 十字軍と都市の発達

●十字軍とその影響●
 封建社会が安定し,犂の改良や水車の利用など技術の進歩とともに農業生産が高まり,人口が増大すると,西ヨーロッパ世界はしだいに外にむかって発展しはじめた。ドイツ人のエルベ川以東への植民,オランダの干拓をはじめとする開墾の進展,イベリア半島の国土回復運動などもそれであるが,その最大のあらわれが十字軍である。ローマ教会の発展につれて,11世紀ころには聖地イェルサレムへの巡礼が増加しつつあったが,そのころセルジューク朝の小アジア進出になやんだビザンツ皇帝は,教皇をつうじて西ヨーロッパの君主や諸侯に救いを求めた。そこで教皇ウルバヌス2世は,1095年クレルモン教会会議で聖地回復の聖戦をおこすことを決議し,翌96年多数の諸侯・騎士からなる第1回十字軍が出発し,1099年聖地を占領してキリスト教国のイェルサレム王国をたてた。つづいて第2回十字軍が,勢力を回復したトルコ人に対しておこされたが成功せず,さらに第3回十字軍が,ドイツ皇帝・フランス王・イギリス王などが参加して,イェルサレムをうばったエジプトのアイユーブ朝のサラディンに対しておこされたが,聖地の占領はできなかった。
 第4回十字軍は,商権の拡大をめざすヴェネツィアの商人の要求のもとに聖地回復の目的をすて,その商敵であったコンスタンティノープルを占領してラテン帝国をたてた。第5回は外交的手段によって一時聖地を回復したが永続せず,第6・7回は直接に聖地をめざした初期の十字軍とことなり,イスラム教徒の根拠地である北アフリカを攻める現実的な作戦をとったが,これも失敗した。
 十字軍は一般の宗教的情熱とならんで,聖地回復に名を借りて,東西教会の統一をめざす教皇の意図や,分捕り品をねらう諸侯・騎士,商権の拡大をはかる商人,負債の帳消しや身分上の自由を求める農民などの利害が複雑にからみあっておこった。しかし,なかには少年十字軍のように,熱狂的動機からでて悲劇的結末におわったものもあった。
 十字軍のあいだには,ドイツ騎士団のように,聖地への巡礼を保護・防衛するいくつかの宗教騎士団@が各地で活動した。また十字軍は,教皇の提唱でおこされ,一時聖地を回復したから,教皇の権威はますます高まり,13世紀初めのインノケンティウス3世のとき絶頂に達した。しかし,あいつぐ遠征の失敗と,指揮者である国王の活躍につれて,後期には教皇の権威はゆらぎはじめた。また十字軍の輸送により急速に発達したイタリアの海港都市は,東方貿易をおおいにのばしてヨーロッパ内部の通商を活発にした。多数の人々が東方とのあいだを往来したため,ヨーロッパ人の視野は広がり,東方の文物が流入した。こうして西ヨーロッパの拡大とともに,中世世界は大きく変化することになった。


@ 宗教騎士団としては,ほかにテンプル騎士団・ヨハネ騎士団などがある。

●中世都市の成立●
 ローマ帝国の衰亡と民族大移動や外民族の侵入のあいだに,通商はおとろえ,人々は農村で自給自足の生活をいとなむようになった。そのため古代都市はおとろえて,中世前期には現物経済にたつ荘園が支配的となった。
 しかし封建社会が安定して荘園内の生産が増大すると,余剰生産物の交換をおこなう定期市(週市)が広くうまれた。また一方ではムスリム商人やヴァイキングの商業活動によって貨幣による交換経済が進み,定期市はしだいに都市に発展し,商人や荘園内にいた手工業者は都市に移るようになった@。11〜12世紀にみられる,こうした都市や市民の発展を商業ルネサンス(商業の復活)という。
 都市の取引の範囲は,はじめは周辺の農村とのあいだの比較的せまいものであったが,十字軍などの影響で交通が発達すると,遠隔地との商業にまで広がった。イタリアのヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサなどの港市ははやくから地中海で活動し,東方とはコショウなどの香辛料,アルプスの北とは絹・香辛料などを銀などと交換して富み,同時にミラノ・フィレンツェなどの内陸都市も毛織物業や商業・金融業で栄えるようになった。
 イタリアについで遠隔地商業をいとなんだ地帯は,リューベック・ハンブルク・ブレーメンなどの北ドイツ都市,またライン川の河口に近いフランドル地方の諸都市で,北海・バルト海を中心に商業圏が成立し,海産物・木材・毛織物・穀物などの生活必需品がおもな商品であった。ことにガン(ヘント)・ブリュージュなどは羊毛工業で栄え,イギリスではロンドンが北海貿易の中心地で,各国の商人が集まった。
 北ヨーロッパ商業圏と地中海商業圏を結ぶ交通路にも都市が発達し,とりわけ諸国からの通路の集中するシャンパーニュ地方は,大きな定期市がひらかれて繁栄した。商業で栄えたフランスの港としては,ルーアン・マルセイユ・ボルドーがあり,内陸にはリヨンがある。ドイツではライン川に沿うケルンやマインツが繁栄し,イタリアとドイツを結ぶドナウ川の上流には,ニュルンベルク・アウグスブルクなどがおこった。


@ 都市の多くは古代ローマ都市のあとや,司教や君主・諸侯の教会・城塞を中心として発達したが,あたらしく建設される場合もあった。

●都市の自治権獲得●
 都市の市民は,移転・商業活動への制限や賦役などの封建的束縛をうけない自由の身分をのぞみ,領主の支配からの独立につとめた。商業の拡大につれて,領主が都市への課税を重くすると,市民はそれに抵抗し,11〜12世紀以来,北イタリアをはじめとする各地の都市は,諸侯をおさえようとする皇帝や王から特許状をえて,つぎつぎに自治権を獲得して自治都市になった。
 自治権は都市によって強弱の差があった。イタリアの都市は周囲の地域までふくんだ商人中心の独立共和国となるものが多く,ドイツの有力都市は皇帝直属の自由都市(帝国都市)として諸侯と同じ地位にたった。しかし多くの都市は封建領主の保護をうけて納税の義務をおっていた。また都市は,ときには同盟して共通の利害のためにたたかった。都市同盟としては北イタリアのロンバルディア同盟,北ドイツ諸都市を中心とするハンザ同盟などがある。なかでもリューベックを盟主とするハンザ同盟は,14世紀には数十の加盟市を数え,地中海沿岸以外の全ヨーロッパで商業活動をおこない,共同の武力を持って,政治上でも大きな勢力になった。

●市民の自治●
 このようにして,都市は程度の差こそあれ,封建的束縛からのがれて自由を手にいれるようになった。そのため不自由な荘園の農民のなかには,都市に流れこむものもあらわれた@。しかし都市の内部では,はじめ商人や手工業者をふくむ組合組織の商人ギルドがうまれ,市政やギルドの運営は大商人が独占していた。やがてこれに不満を持つ手工業者は業種別の同職ギルドをつくって分離し,大商人と争いながらしだいに市政への参加を実現した。この闘争はとくにドイツの諸都市で著しかった(ツンフト闘争)。同職ギルドの組合員は,徒弟をやしない職人を使用して生業にしたがう親方にかぎられ,親方と職人・徒弟のあいだには厳重な身分関係が保たれていた。ギルドはその組合員の平等を尊ぶ一方,自由競争を禁じ,さまざまの規制を設けて生産の統制や技術の保持をはかり,市場を独占した。こうした統制はのちに自由な生産の発達をさまたげるものとなったが,当時においては市民の活動を保証し,ギルドの維持に有利であった。
 都市の商工業がさかんになると,15〜16世紀のアウグスブルクのフッガー家のように,上層市民のなかには,蓄積した財力によって皇帝の即位を左右したり,フィレンツェのメディチ家のように一族から教皇をだす富豪もあらわれた。市民の活動や商業・貨幣経済の発達は,荘園制にもとづく自給自足の経済を打ち破り,土地にかわる貨幣というあたらしい富の形をうみだした。ルネサンスにはじまるヨーロッパの近代化は,このあたらしい力を持って活動した市民のあいだからうまれるのである。


@ ドイツでは「都市の空気は自由にする」といわれ,都市に逃げこんで1年と1日居住した農奴は自由な身分となることができた。
5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立

●教会勢力の衰微●
 中世の教会は,信仰生活の中心であるとともに,文化のにない手でもあり,また広い荘園を持つ封建領主でもあった。ローマ教皇は,十字軍時代の約 200年のあいだ,人々の信仰にささえられて西ヨーロッパに君臨したが,十字軍の指揮者としての王の権力がのびるにつれて,教皇権はふるわなくなった。13世紀末にでたボニファティウス8世は,はじめイギリス・フランス両国王と争って威を示したが,14世紀初めフランス王フィリップ4世に一時とらえられ(アナーニ事件),屈辱のうちに死んだ。フィリップ4世はさらに教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移し,その後フランス王は約70年のあいだ,教皇権に干渉を加えた。これを古代のバビロン捕囚にたとえて「教皇のバビロン捕囚」(1309〜77年)ともいう。
 14世紀後半,教皇がローマにもどると,これに対抗して,アヴィニョンにも別の教皇がたち,両教皇が正統を主張して対立した。これを教会大分裂(大シスマ)というが,このため教皇の権威はおおいに傷つけられた。一方,こうした状況のなかで教会の世俗化や腐敗が進んだため,教会革新の声が高まってきた。
 14世紀後半,イギリスのウィクリフは,カトリックの教義が聖書からはなれていると非難し,教皇に対するイギリスの政治・宗教上の自立を主張した。彼の説は異端とされたが,彼は聖書を英訳するなどして,自説の普及につとめた。ベーメンのフスはウィクリフに共鳴し,教皇に破門されたが主張をかえなかった。このような宗教界の混乱を収拾するためにひらかれたコンスタンツの公会議(1414〜18年)は,ローマの教皇を正統と認めて,教会大分裂をおわらせた。またフスは火刑に処せられたが,その後ベーメンではフス派の反乱が長く続いた(フス戦争)。こうして教皇権はかつての栄光を失い,宗教界の革新運動もあとをたたず,ついには近代初頭の宗教改革にいたるのである。

●封建制・荘園制の崩壊●
 封建制は自給自足を本質とする荘園制の上になりたっていた。しかし農業生産が高まり,商業や都市が発達するにつれて,荘園制はくずれはじめた。貨幣経済が広まると,貨幣を欲する領主は,賦役をやめ,直営地を農民に貸しだし,地代を生産物や貨幣でとるようになった。貨幣地代をおさめる必要から,農民は生産物を市場で売って貨幣をたくわえ,しだいに経済的に向上していった。たまたま1348年を中心に黒死病(ペスト)が西ヨーロッパで流行し,農村人口が激減すると,領主は農民の確保のため,彼らの身分的束縛をゆるめるようになった。こうした農奴解放の動きとともに,農民の地位は高まって,彼らはしだいに自営農民に上昇していった。この傾向は,もっとも貨幣地代が普及したイギリスで著しく,かつての農奴はヨーマンとよばれる独立自営農民に上昇したのである。
 こうして向上しつつある農民に対して,困窮した領主がふたたび搾取や束縛の強化をはかると,彼らは激しく反抗し,農奴制の廃止などを目標にかかげて農民一揆をおこすようになった。14世紀後半のフランスのジャクリー@や,イギリスのワット=タイラーの乱Aなどがそれである。これらの一揆はまもなく鎮定されたが,とくにイギリスでは彼らのかかげた目標は,しだいに実現されていくのである。
 一方,騎士のなかには国王や大諸侯に所領を没収されるものが多く,さらに火砲の使用などによる戦術の変化が騎士の役割を低下させ,彼らはますます没落した。また国王は国内市場の統一をのぞむ市民と協力して諸侯をおさえ,中央集権をはかった。こうして地方政治の実権をうばわれた諸侯や,かろうじて没落をまぬがれた騎士は国王の廷臣となり,農民から地代をとりたてるだけの地主になっていった。


@ 当時フランスで農民を意味するジャックからこの語がでた。この乱は,百年戦争初期の戦禍と,領主の搾取が直接の原因となっている。
A この一揆に参加したジョン=ボールは,「アダムが耕しイヴが紡いでいたとき,だれが貴族であったか」と説教して,農民をはげました。

●イギリスとフランス●
 イギリスの封建社会は,ノルマン王朝をひらいたウィリアム1世の政策によって,はじめから王権が強かった。12世紀のなかば,血統の関係でフランスから入ったプランタジネット朝のヘンリ2世は,フランス西半部をも領有して大勢力をきずいた。ところがジョン王は,フランス王フィリップ2世と争ってフランスの領土の多くを失い,さらにカンタベリ大司教の任命をめぐって教皇インノケンティウス3世から破門され,屈服してその封建的臣下になるという失態をかさねた。そのうえ財政窮乏のため重税を課したので,貴族は一致して反抗し,1215年,新課税は高位聖職者・大貴族の集会の承認を要すること,教会や都市の特権を尊重し,商人の自由交通を許すことなどを定めた大憲章(マグナ=カルタ)を認めさせた。これは封建貴族が王に善政を求めたものであるが,その後,王の圧政に対する自由の主張のはじめとして,イギリス憲政史上の画期的事件とみなされるようになった。
 つぎのヘンリ3世も失政が多かったので,貴族の指導者シモン=ド=モンフォールは反国王派の諸侯をひきいて国王を破ったのち,以前からあった高位聖職者・大貴族の集会に州や都市の代表を加えて国政を協議した(1265年)。こうしてイギリスの議会制はしだいに形をととのえていった。その後1295年には,エドワード1世のもとで,いわゆる模範議会が召集され@,さらに14世紀なかばころ議会は上下両院にわかれ,法律の制定や新税の徴収には,下院の承認を必要とすることになった。
 フランスでは,カペー家が王位についたころには,王権が弱く,典型的な封建制のもとで諸侯の勢力が強かった。ところが12世紀末に即位したフィリップ2世は,諸都市に自治権をあたえて諸侯をおさえ,イギリス王ジョンとたたかって,国内のイギリス領の大半をうばった。またこの王の時代に,マニ教の影響をうけ,南フランスの諸侯に保護された異端のアルビジョワ派(カタリ派)の討伐が進められ,彼らは13世紀のルイ9世のときに根絶された。こうして王権は南フランスにものびたが,さらにフィリップ4世は,聖職者への課税について教皇ボニファティウス8世と争い,1302年聖職者・貴族・平民の代表者を集めて三部会をひらきA,その支持のもとに教皇をおさえて王権を強めた。


@ この議会で,高位聖職者・大貴族のほかに,各州2名の騎士と,各都市2名の市民の代表を出席させたが,これは当時のイギリス社会の実情によく対応すると思われたので,のちに,このようによばれるようになった。
A 当時のイギリス議会やフランスの三部会は身分制議会といわれ,国民代表制の今日の議会とは性格がちがう。

●百年戦争とバラ戦争●
 フランス王はその諸侯領であるフランドルを直接の支配下におこうとしたが,イギリスは羊毛輸出国としてその地に大きな関心を持ち,フランス王の勢力がおよぶことをおさえようとした。たまたまカペー朝がたえてヴァロワ朝があとにたつと,イギリス王エドワード3世は,その母がカペー家の出身であることから王位継承権を主張し,フランドルの内乱をきっかけに百年戦争(1339〜1453年)がはじまった。
 はじめイギリス軍が優勢で,エドワード黒太子は弓兵を使用してフランス騎士軍を破った。フランスは外敵の侵入や黒死病による国土の荒廃に加え,農民一揆や国内の分裂抗争もあって極度におとろえ,シャルル7世のときには崩壊寸前にあった。このとき,農民の娘ジャンヌ=ダルクが救国の神託をうけたと信じてあらわれ,オルレアンの包囲を破ってイギリス軍を大敗させた。以来フランス軍がもりかえし,シャルル7世は大商人と結んで財政を整理し,戦力を高めたので,ついにカレーをのぞく全国土からイギリス軍を追いだした。この長期の戦争のためフランスの諸侯・騎士の力は著しく弱まり,王権はますます強大になった。その後シャルル8世は諸侯をおさえ,中央集権を進めた。
 イギリスでは百年戦争ののち,ランカスター・ヨーク両家による王位争奪の内乱がおこった。両家の記章がそれぞれ赤バラ・白バラであったので,これをバラ戦争という。イギリスの諸侯は両派にわかれて争ったが,これは彼らの自滅を意味した。1485年に即位したヘンリ7世はテューダー朝をひらき,内乱をおさめ,星室庁裁判所@を利用して反抗するものを処罰し,絶対王政の基礎をかためた。


@ 裁判がウェストミンスター宮殿の「星の間」でひらかれたので,この名がある。

●スペインとポルトガル●
 イベリア半島は,8世紀以来大部分がイスラム教徒に支配されていたが,北部のキリスト教徒は,はやくから国土回復運動(レコンキスタ)をおこしていた。彼らはいくつかの国にわかれ,十字軍にもうながされてしだいに南方に勢力を広げ,12世紀ころには半島の北半を確保した。そのうちカスティリャ・アラゴン・ポルトガルの3国が強大となったが,その後カスティリャ王女イサベルとアラゴン王子フェルナンドの結婚により,1479年両国は統合されてスペイン(イスパニア)王国が成立した。共治の王となった両名は,1492年イスラム教徒の最後の拠点グラナダを占領して統一を進め,勃興しつつあった都市と協力して封建貴族をおさえ,海外進出にのりだすなど王権の伸張をはかった。
 ポルトガルは12世紀にカスティリャから独立し,15世紀後半,国王ジョアン2世は諸侯をおさえて統一を進め,またインド航路の発見を援助するなど,海外発展に力をつくした。

●ドイツ・イタリア・北ヨーロッパ●
 ドイツは大諸侯の力が強く,歴代の皇帝はイタリア政策に力をそそぎ,ドイツにとどまることが少なかった。そのため,皇帝による統一は実現せず,シュタウフェン朝の断絶後,13世紀なかばには,実質的に皇帝不在の「大空位時代」もあって国内は混乱をきわめた。その後も皇帝の勢力はふるわず,皇帝カール4世は1356年金印勅書(黄金文書)をだして,皇帝選出の資格を聖俗の七選帝侯に認めた。15世紀前半以降ハプスブルク家から皇帝をだすようになったが,国内には大小の諸侯・自由都市など,およそ 300の地方主権(領邦)が分立し,統一はますます困難となった。この間ドイツ人は東方のスラヴ人やマジャール人の地域に植民し,いくつかの諸侯国をつくった。ブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などがそれで,これらのエルベ川以東の地では,15世紀以降,西ヨーロッパとことなって,領主権と農奴制が強化されていった。
 また今日のスイス地方の農民は,13世紀以来独立の運動をおこし,ここを支配していたオーストリアをたびたび破って,中世末には事実上の独立をとげ,1648年国際的に承認されることになった(ウェストファリア条約)。
 イタリアの情勢もドイツに似て,中世末期には教皇領・ナポリ王国(以前の両シチリア王国@)・ヴェネツィア共和国・フィレンツェ共和国・ミラノ公国など,多数の国・諸侯・都市が分立していた。そのうえドイツ・フランスなど外国の干渉が加わって,教皇党(ゲルフ)と皇帝党(ギベリン)の党争が激しく,国家の統一はみられなかった。
 なおヴァイキングが建国したデンマーク・スウェーデン・ノルウェーの北欧3国は,14世紀末デンマーク女王マルグレーテのもとでカルマル同盟を結び,同君連合の王国を形成した。またバルト海の北東に住むフィン人の地(フィンランド)は,13世紀以来スウェーデンに統合された。


@ 両シチリア王国は,13世紀末のシチリアの反乱を機にナポリとシチリアの2王国に分裂したが,その後さまざまの変遷をへて,1815年ふたたびブルボン家のもとで両シチリア王国として統合された。
6 西ヨーロッパの中世文化

●学問と大学●
 西ヨーロッパの中世はカトリックの時代である。教会の権威は絶大で,生活も文化も教会をはなれては存在できなかった。人口の大部分を占める農民はほとんど読み書きができず,聖書のことばであるラテン語を用いる聖職者が学者・知識人でもあった。美術・建築は教会とその装飾のために発達し,学問は神学を最高として,哲学や科学もこれにしたがった。そのため文化の地域差は少なく,学問の分化はとぼしく,自由で合理的な研究という点では,ギリシア・ローマの古代より後退していた。
 「哲学は神学の婢」といわれたように,神学が最高の学問であった。神と教会の権威の確立をめざす神学は,教父とくにアウグスティヌスの思想を基礎として,カール大帝時代にアルクィンらによってはじまった。その後アンセルムスの実在論やアベラールの唯名論をへて@,十字軍を機に,ビザンツやイスラムから伝えられたギリシア哲学もとり入れて,実在論を中心に壮大な体系のスコラ学に発展し,教皇の支配権を裏づけた。13世紀に『神学大全』をあらわしたトマス=アクィナスがその大成者である。しかし教皇権の衰退とともに,中世末期にはウィリアム=オッカムらの唯名論が有力となり,近代の合理主義思想の一つの基礎になった。
 神学の権威のもとでは合理的な学問の発達はさまたげられ,哲学自体の発展もあまりみられなかった。自然科学も同様で,天文・医学もはなはだしくおとろえた。しかし13世紀以降イスラム科学の影響がしだいにあらわれ,実験を重視したイギリスのロジャー=ベーコンは中世最大の自然科学者であった。
 中世には,大聖堂や修道院の付属学校が各地にあったが,12世紀末以来,それを母体として大学がうまれた。諸国の君主が,統治のために法律知識を持つ役人を必要としたこともあって,大学を保護した。学生は国籍を問わずどの大学でも勉強できたから,交通の発達とともに,有名な大学には多くの学生が集まった。イタリアのサレルノ大学は医学,ボローニャ大学は法学,フランスのパリ大学やイギリスのオクスフォード大学は神学が有名であった。このほか,ややおくれて成立したケンブリッジ大学もある。完全な大学は,神学・法学・医学の3学部をそなえ,その下に人文学部があった。しかし大学は教皇や皇帝の特許状による一種の学問ギルドで,特権的自治はあったが,真の意味での学問の自由はなかった。


@ スコラ学において,神や普遍の観念が個々の事物とは別に実在するという主張が実在論で,これに対し,神や普遍の観念は名目にすぎず,存在するのは個物だけであると主張するのが唯名論である。この二つの立場は中世末まで論争をくりかえした。

●美術と文学●
 中世の美術は,信仰の中心である教会建築とその彫刻・絵画を中心に発達した。教会建築では,はじめビザンツ式が模倣されていたが,11世紀ころから半円状アーチを用いた荘重なロマネスク式が流行した。厚い石積みで窓は小さく,広い壁面は壁画でかざられ,ピサ大聖堂がその代表的な例である。12世紀末以来,尖頭アーチを特色とするゴシック式の聖堂が,教会の権威と新興市民の経済力を背景に各地に建設された。多くは尖塔をそなえ,広くなった窓の色ガラス絵(ステンドグラス)と柱や外壁の彫刻が特色である。アミアン・ケルン・パリのノートルダムの大聖堂がその代表である。
 文学は教会の制約をうけなかった唯一のもので,騎士道物語を中心に,題材・表現ともに自由で人間的なものがあった。ゲルマンの古伝説の英雄詩『ニーベルンゲンの歌』,カール大帝時代の騎士の勇武を題材としたフランスの『ローランの歌』,イギリスのケルト人の古伝説から発展した『アーサー王物語』などがとくに名高い。これらは,はじめ口語で吟じられ,のちに文字で書かれた物語である。また12世紀以来,南フランスやドイツからでた吟遊詩人が各地を遍歴し,市場で語ったり,宮廷にまねかれて騎士の恋愛を題材とする叙情詩をうたった。
第8章 東西文化の交流

1 東西交易路

●三つの道●
 地球上の各大陸では,先史時代から人間の移住がおこなわれ,各地にさまざまな文明がうまれ,国家がつくられた。また文明圏相互の接触や交流がおこなわれ,文化の発展も,もたらされた。なかでもユーラシア大陸では,古くから東西文化の交流と相互の発展のうえで大きな役割をはたしたと考えられる三つの道があった。内陸アジア北部の草原地帯を東西に結ぶ草原の道,その南の砂漠地帯に点在するオアシス諸都市を結ぶオアシスの道(絹の道),南方海上を船で往来する海の道がこれである。

●草原の道●
 南ロシアの草原地帯から東にむかい,カザフやジュンガリアの草原地帯,アルタイ山麓をへてモンゴル高原に入り,中国の長城地帯にいたるのが草原の道である。その道を通って,東西にわたって活躍したのは,この地域を本拠地とする遊牧騎馬民族であり,そのはじめは前6世紀のスキタイ民族であった。
 遊牧を主とした平和な草原の民は,スキタイ人の騎馬文化をうけいれてから戦闘的となり,騎馬による機動力と武力をもって各地を侵略するようになった。前3世紀末に強力となった匈奴,4世紀末に中国で北魏をたてた鮮卑,4〜5世紀のヨーロッパに侵入したフン,その後のアヴァールやマジャール,隋唐時代の中国北辺をおびやかした突厥やウイグルなどはその例である。ことに,それ以後の10世紀ころから中央アジアでイスラム化したトルコ系民族の西アジア方面への進出,13世紀のモンゴル民族によるユーラシア大陸の東西にわたる征服活動は,世界史上に大きな影響をあたえるものとなった。
 武力による騎馬民族の活動は,中央アジアのオアシス地帯や東西各地の文化圏をおびやかしたが,反面,情報の収集に熱心で,あたらしい文化のうけいれにも積極的であった彼らは,東西文化の交流や伝播のうえで,直接あるいは間接的に大きな役割をはたした。

●オアシスの道●
 東西の各文化圏を最短距離で結ぶこの道は,東西各文化圏の発展と拡大のなかでひらけていった。前6世紀末からのアケメネス朝の進出,前4世紀後半のアレクサンドロス大王の東征,前2世紀後半の前漢武帝の西域進出,1世紀末の後漢の西域経営,7世紀にはじまる唐の西域経営などはその例である。
 タリム盆地の南北に位置するオアシス地帯には,古くから多くの都市国家が栄え,その間をラクダをつれた隊商民が往来して中継貿易にしたがっていた。イラン系のソグド商人はその代表である。
 東西の中継貿易で発達したこの道を通じて中国の生糸や絹が西方に(絹の道),ヘレニズム文化やイラン系の文物が東方に伝えられ,インドの宗教もこの道をとおって中国に伝えられた。貿易の利益をねらう草原の民の南下も活発であり,トルコ系・モンゴル系民族の侵入があいついだ。

●海の道●
 地中海から紅海やペルシア湾をとおり,アラビア海をわたってインドに達し,さらに東南アジアから中国にいたる海の道も古くからひらけ,船による輸送がさかんにおこなわれた。
 この道による中継貿易の中心地は南インドであり,これと結ぶ東南アジアのマラッカ海峡,インドシナ半島南部も航海上の要衝であった。このため,南方海上では,航海に長じたマライ=ポリネシア系の人々が沿岸各地に国をたて,古くから島々のあいだを往来していた。インドのサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)やスリランカ(セイロン)・扶南・チャンパー・シュリーヴィジャヤなどは海上貿易で栄えた国々である。
 インドと西方との貿易は,ローマが発展してギリシア系商人が活動しはじめた1世紀ころからひらけた。彼らは,季節風を利用してインド洋をわたり,活発に交易した。当時,インドと中国を結ぶ航路もひらけ,ローマ東方領から海の道で中国に達したほか,ミャンマー(ビルマ)から雲南への道をとおって漢の都に達する交通路もひらけた。
 8世紀からは,イランやアラブのムスリム商人が海上に進出し,広州や泉州など,中国沿岸の海港に出入りするようになった。こうした交易の発達とともに,中国人の海上進出も活発になった。ことに北方で騎馬民族の活動が活発となり,陸路による交易がさまたげられるようになった中国の宋代以後,海の道は,ますます栄えるようになった。
2 東西文物の交流

●文物の伝播●
 古くは,彩文土器の東西にわたる広範な分布が文物の交流伝播をうかがわせるし,金属文化や騎馬文化で代表されるスキタイ文化の東アジアへの影響も交流を物語る。中国産の生糸や絹,銅鏡や漆器の西伝もこれを示す。
 時代はくだるが,中国で発明された製紙法の西伝や,その後の火薬・羅針盤・印刷術などの西方への伝播は,その改良や実用化によって人類文化の発展と普及におおいに役立っている。
 ガンダーラ美術や正倉院の宝物にみられるヘレニズム文化の東伝,織物やガラス器具,陶器や金銀細工などで代表されるペルシア文化の東西への伝播は現在に残る多くの製品によって知ることができる。インドや西アジアからの東伝を示す音楽や楽器,あるいは天文・数学・医学などの学問,張騫がもたらしたと伝えられるブドウ・クルミといった食物など,交流伝播した文物はかぎりない。とくに文字の東西への伝播は,文化の発展に重要な役割をはたしている。
 諸宗教の東西伝播も重要である。古くはキリスト教の西伝やペルシアにおこったゾロアスター教・マニ教の東伝などがある。仏教では,大乗仏教や上座部仏教の東伝や南伝がみられる。ヒンドゥー教とその文化の東南アジアへの流布もさかんであった。
 イスラム教は海陸から東西に広がりをみせているし,キリスト教では,はじめネストリウス派の東伝があり,その後,モンゴル帝国時代から元の時代にかけてローマ=カトリックの東伝がみられた。
 海上交易は,時代がくだるとともにさかんになっているが,東南アジア方面に産するコショウに代表される香辛料や象牙・ゥ瑚などは,はやくから交易品として知られ,東西各地に運ばれている。また東アジアの中国との交易は絹・茶・陶磁器などの海路をつうじての西伝を活発にしている。ことにモンゴルの衰退以後,陸路にかわり海路の交易が主流となった。

●人物の往来●
 武力による征服や遠征に活動した人物とは別に,使者として東西を往来した著名な人に中国から西域におもむいた漢代の張騫,後漢の班超の使者甘英の例がある。また,2世紀に海路中国にいたったと伝えられるのが大秦国王安敦の使者である。
 僧侶の往来では,中国にきた西域僧仏図澄や鳩摩羅什,海路中国にいたったといわれる達磨などをあげることができる。一方,中国から仏典を求めて渡印した中国僧として,陸路渡印し海路帰国した法顕,陸路を往復した玄奘,海路を往復した義浄などが著名である。
 キリスト教関係では,草原の道を中心にモンゴル帝国の都カラコルムに往来した教皇使節のプラノ=カルピニやフランス王の使節ルブルックをまずあげることができる。ついで大都出身のネストリウス派の僧ラバン=ソーマのヨーロッパへの往来があり,それは大都で布教したモンテ=コルヴィノの派遣をもたらしている。
 このほかヴェネツィアの商人で『世界の記述』をもって知られるマルコ=ポーロやモロッコの旅行家イブン=バットゥータなどの往来は,東方に関する知識を西方に広め,ヨーロッパ人の東方に対する関心を高めた。こうした東西の交流のなかから,15〜16世紀以降,近代世界のあたらしい展開をみたのである。
第U部

第9章 近代ヨーロッパの誕生

 中世社会はカトリック教会の権威と封建制度によっておさえられていたが,十字軍のころから商業の復活,都市の発達によって自由の機運がおこってきた。やがてイタリアの都市民を中心として,古典研究にもとづくヒューマニズムを根本精神とするルネサンスが成立し,16世紀にはアルプス以北におよんだ。
 またルネサンス時代の技術や科学の進歩が,ヨーロッパ人によるアジアとの直接貿易の欲求を刺激し,いちはやく中央集権を進めたポルトガル・スペインを中心として,アジアへの新航路の開拓,新大陸への到達がおこなわれ,いわゆる大航海時代が出現した。この運動は,世界商業の成立とヨーロッパ人の活動舞台の拡大をもたらし,非ヨーロッパ世界にも大きな影響をあたえた。またスペインの征服者により,古代アメリカ文明の存在があきらかになり,それがあたらしいラテンアメリカ文明の基礎の一つとなった。
 さらに革新の機運は,ドイツで宗教改革運動としてあらわれた。新教徒は聖書にもとづく信仰をかかげて教皇やカトリック教会の諸制度を否定したので,キリスト教会は両派にわかれて争い,大きな社会的変革をひきおこした。さらにカトリック側の反宗教改革により,ポルトガル・スペインの植民政策とあいまって,ラテンアメリカとアジアにカトリックの伝道が進められ,東西文化の交流も進んだ。

1 ルネサンス

●ルネサンスとヒューマニズム●
 中世末期の西ヨーロッパで,封建社会のしくみに大きな変化がおこり,都市経済の興隆のなかで市民の活力が強まってくると,文化や思想の面にもあたらしい動きがあらわれた。中世文化がカトリック教会の権威によって強く規制され,現世に生きる楽しみや,理性・感情ののびやかな活動をおさえてきたのに対し,あたらしい市民生活は,人間性の自由・解放を積極的に求めた。そして,各人がその個性を発揮し,とらわれぬ目で人間と世界をながめようとした。この精神運動をルネサンス(「再生」の意味)とよび,その時期はおよそ14世紀から16世紀にわたっている。
 古典文化の遺産は中世にも一部うけつがれていたが,それは教会の権威や教義をささえる手段にすぎなかった。これに反し,ルネサンスの根本精神は,ギリシア・ローマの古典文化を深く研究することにより@,自己の品性を高め,人間らしい生き方を追求しようとした。これがヒューマニズム(人文主義あるいは人間主義)であり,この精神にたつ知識人をヒューマニスト(人文主義者)という。


@ ギリシア・ローマの古典研究の発展には,オスマン帝国の脅威を前にビザンツ帝国の学者たちがイタリアに移り,ギリシア語の知識を広めたことが大きな刺激となった。

●あたらしい文学●
 古代ローマの伝統がもっとも強いイタリアでルネサンス文芸の花がひらいたのは偶然ではない。そのさきがけは,フィレンツェ生まれのダンテの雄大な叙事詩『神曲』である。彼はカトリックの神学思想に立脚しながらも,個性豊かな人物描写で近代への展望をひらき,しかもその作品をラテン語でなく口語(イタリアのトスカナ語)で書いた。同じフィレンツェのペトラルカは,ヒューマニストの叙情詩人として名をあげ,その友人ボッカチオは,『デカメロン』で,滑シな人間描写をとおして古い権威をするどく風刺し,近代小説の先駆者となった。彼の影響下にイギリスのチョーサーは『カンタベリ物語』をあらわした。
 最大のヒューマニストといわれたのは,ネーデルラント出身のエラスムスである。彼は古典ギリシア語の研究に画期的な業績を残したほか,『愚神礼賛』で聖職者の道徳的腐敗をあざけり,教会を純粋な姿にたちかえらせようとつとめた。彼の友人トマス=モアは『ユートピア』(理想郷)で,イギリス社会のゆがみを批判したが,同じころフランスには,架空の巨人父子の素朴な生き方をえがく『ガルガンチュア物語』で社会の因襲を風刺するラブレーがでた。フランス=ヒューマニストの健全な良識は,モンテーニュの『随想録』に代表される。ルネサンス末期の作家では,騎士道の理想が現実の前に破れさるありさまを悲喜劇的にえがいた『ドン=キホーテ』の作者であるスペインのセルバンテス,人間心理の深い葛藤を,『ヴェニスの商人』『ハムレット』などの戯曲でえがいたイギリスのシェークスピアが有名である。

●美術の黄金時代●
 ダンテの友人でその肖像画をえがいたジョットから,絵画におけるあたらしい流れがおこり,15世紀前半のマサッチョは,遠近法の確立により近代絵画の基調である写実主義の基礎をすえた。彫刻ではギベルティ,ついでドナテルロが同じ方向をめざした。建築でも,ドームとギリシア風の列柱をくみあわせたルネサンス様式がおこるが,その最初のものは,ブルネレスキがそのドームを設計したフィレンツェの聖マリア大聖堂である。ブラマンテ,ついでミケランジェロの設計により,ローマの聖ピエトロ大聖堂が新築されたのは16世紀に入ってからである。イタリアの画家ではそのほか,「ヴィーナスの誕生」で知られるボッティチェリ,多くの聖母子像を残したラファエロ,彫刻家では「ダヴィデ像」や「ピエタ」の制作者ミケランジェロが有名である。ミケランジェロはまた教皇の要請でヴァチカン宮殿のシスティナ礼拝堂に,大天井画「天地創造」や祭壇画「最後の審判」をえがいた。ルネサンスの理想であった「万能人」の典型ともいうべきレオナルド=ダ=ヴィンチは,「最後の晩餐」「モナ=リザ」など絵画の傑作のほか,解剖学をはじめ自然諸科学と応用技術にも天才を示した。
 イタリアでルネサンス絵画がおこったのとほぼ同じころ,ネーデルラントにもファン=アイク兄弟がでて油絵画法をはじめ,フランドル派の基をひらいた。16世紀にでたブリューゲルは,農民や遊ぶ子供など,素朴な民衆の群像をえがいた。ドイツでは聖書を主題にした多くの版画で知られるデューラーやホルバインなどが活躍した。

●ルネサンス文芸の社会・政治的背景●
 ルネサンスの学者や芸術家は都市に住む教養人で,農民大衆とは無縁であった。彼らの多くは,フィレンツェの金融財閥メディチ家やミラノ公,ローマ教皇など権力者の保護のもとで活動している。そのため,ルネサンス文化は一種の貴族性をおび,現存の政治・教会・社会体制を正面から批判する力とはならなかった。
 ルネサンス時代のイタリアは,多くの都市共和国・諸侯国・教皇領に分裂した小国際社会を形成し,抗争がたえなかった。このような分裂状態は列強の介入をさそい,15世紀末から16世紀なかばころまで,イタリア戦争とよばれる覇権争いが続いた。フィレンツェの外交官マキァヴェリが,政治における権謀術数の必要を説く『君主論』をあらわしたのも,そうした戦乱の体験をつうじてであった@。


@ イタリアとならんで,いちはやくルネサンス文化がおこったネーデルラントでは,南北ヨーロッパ商業の中継地として都市が発達し,毛織物業がさかんであった。また,ドイツでは都市生活の成長を背景に,イギリス・フランス・スペインでは国王の保護下にルネサンス文化がさかえた。

●技術と科学精神のめざめ●
 ルネサンス時代には,技術の分野でも,ヨーロッパの発展に大きな影響をおよぼす3大発明がなしとげられた。火砲(火薬)・羅針盤・活版印刷がこれである。
 火薬はすでに元で実戦に用いられていたが,14世紀前半にドイツで発射用火薬,ついでイタリアで金属砲が発明されると,従来の戦術を一変させ,騎士の没落をうながした。羅針盤も宋で知られていたが,14世紀のイタリアで改良され,天文学や海図製作の発達とあいまって,大洋航海を可能にした。15世紀なかばころドイツ人グーテンベルクが発案したという加圧式の活版印刷は,製紙法の伝播と結びついて,書物の製作を従来の写本よりもはるかに迅速・安価なものとし,あたらしい思想の普及に大きく貢献した。自分の目で万物を観察しようとするルネサンスの風潮は,中世のあいだおとろえていた科学精神をよびさました。16世紀の前半,ポーランド人コペルニクスは,古代の天文学に刺激されて地動説をとなえ@,聖書の天地創造説話にもとづいて天動説をとっていた教会の世界観に挑戦した。


@ 彼の地動説は天体観測にもとづく数学的理論で,『天球回転論』が弟子たちによって発表されたのは彼の死後であった。しかしイタリア人ジョルダーノ=ブルーノは,哲学的な立場から地動説と汎神論をとなえたため処刑されている。
2 ヨーロッパ世界の拡大

●大西洋時代へ●
 15世紀末から16世紀にかけて,ヨーロッパ人は外へむかってめざましい進出を開始した。アフリカの南端をまわるインド航路の開拓,新大陸の発見と開発,世界周航の達成など,一連の画期的な事件からなるこの時代は,一般に「大航海時代」あるいは「地理上の発見時代」などとよばれる@。
 海外進出をうながした原因としては,まず都市の興隆を背景とする市民の企業心の高まり,中央集権をめざす君主の財政的要求があった。さらに,イベリア諸国のばあいには,「国土回復運動」をつうじてはぐくまれた,異教徒征服への戦闘的なキリスト教精神がある。また十字軍以来,マルコ=ポーロの『世界の記述』(いわゆる『東方見聞録』)などに刺激されて,アジアの富や文化に対する関心が強まり,地理的知識が広がる一方,羅針盤の改良,堅牢な快速帆船の普及,緯度航法の考案などにより遠洋航海が可能になったこともあった。
 14世紀以来,肉食が西ヨーロッパに普及すると,食肉の調味に必要なコショウなどの香辛料は,需要の多い貴重品として巨大な利益をもたらした。この香辛料を取引する東方貿易は,ヴェネツィアをはじめとするイタリア諸都市の商人に独占されてきたが,15世紀後半以降オスマン帝国の地中海東岸への進出が著しかった。「国土回復運動」でイスラム教徒を駆逐したポルトガルやスペインの君主たちは,直接,香辛料貿易の利益にあずかろうと考え,大西洋に注目したのである。


@ これらのよびかたは,いずれもヨーロッパ人本位のものであるが,旧来用いられてきた「地理上の発見時代」という語は,新大陸や新文化の発見者の立場をあまりに露骨に示しており,非ヨーロッパ世界の存在を無視した表現であるため,今日では「大航海時代」という表現が多く用いられている。

●インド航路の開拓●
 ポルトガルの商人は,すでに15世紀の初めころから,アフリカ西岸の探検にのりだしていたが,この活動はとりわけ「航海王子」エンリケの奨励により,おおいに進んだ。エンリケの後継者ジョアン2世の時代から探検航海はおおいにはかどり,1488年にバルトロメウ=ディアスがアフリカ南端の喜望峰に達したのち,ヴァスコ=ダ=ガマはこの岬を迂回してインド洋を横ぎり,1498年,ついにインド西岸のカリカットに到達した@。
 インド航路の開拓は,一種の国営事業としておこなわれたから,それにともなう香辛料の直接取引は,人口わずか 150万のポルトガルの王室に莫大な利益をもたらし,首都リスボンは一時世界商業の中心となった。


@ アフリカ東岸にでたガマは,マリンディに寄港してイスラム教徒の水先案内人をやとい,その指示でインドにむかった。インド洋はそれ以前からイスラム商人の活動圏だったのである。

●新大陸への到達●
 競争相手のポルトガルに一歩でおくれたスペインでは,1492年に女王イサベルが,ジェノヴァ生まれの船乗りコロンブスの提案をうけいれ,パロス港から「インド」@にむかう船団をおくりだした。コロンブスは,大地は球形で,大西洋を西航するほうが「インド」への近道であるという,フィレンツェの天文学者トスカネリの説を信じ,70余日の困難な航海の末,カリブ海に浮かぶサンサルバドル島に到着した。コロンブスは,その後3回の航海をかさね,今日のアメリカ大陸のカリブ海沿岸地方にも上陸したが,あくまでこれらの土地を「インド」の一部だと思いこんでいたため,先住民をインディオ(インディアン)と名づけた。
 1500年,ポルトガル人カブラルはインドへの航海中,針路をあやまって今日のブラジルに漂着しこの地をポルトガル領とした。その後イタリア人アメリゴ=ヴェスプッチの南アメリカ探検によって,コロンブス以来探検が進んだ土地が,アジアとは別の大陸であることがあきらかになり,この大陸は彼の名にちなんで「アメリカ」と名づけられたA。
 1519年,スペイン王室の命令でポルトガル人マゼラン(マガリャンイス)は,香辛料の特産地モルッカ諸島をめざして西まわりの大航海に出発し,南アメリカ南端の海峡(マゼラン海峡)をへて太平洋を横ぎり,フィリピンに達した(1521年)B。彼自身は先住民との戦いで死んだが,残った少数の部下はアフリカまわりで翌22年スペインに帰国し,史上最初の世界周航をなしとげて,大地球形説の正しさを証明した。


@ 当時,西ヨーロッパの人々は,東アジア・東南アジア・南アジアをふくむアジア大陸東半の地域を漠然と「インド」(スペイン語ではインディアス)とよんでいた。
A 北方では,これより先,イギリス王ヘンリ7世の支援でイタリア人カボットがニューファンドランドと北アメリカを探検し,1513年にはスペイン人バルボアが,パナマ地峡を横断して太平洋を発見した。
B 「太平洋」の名はマゼランの命名による。なおフィリピンは1565年レガスピがセブ島に上陸,さらにルソン島のマニラを占領したときからスペイン領となり,時の国王フェリペ2世にちなんで命名された。

●スペインによるアステカとインカの征服●
 発見のあとには残忍な征服が続いた。アメリカ大陸には,ベーリング海峡がまだアジアと地続きであった古い時代に,モンゴロイド系と思われる人々が渡来し,独特の農耕文化を持つ集落を形成した。メキシコ湾岸では,はやくも前1000年ころオルメカ文明が成立していたが,中央アメリカのユカタン半島やグアテマラでは,4世紀から10世紀初頭にかけて,マヤの都市国家が形成され,ピラミッド状の神殿,二十進法による数の表記法,精密な暦法,文字などを持つ独自の文明を発達させた。つづいて12世紀なかごろからメキシコ高原に進出したアステカ族は,15世紀以来強力な国家を建設し,象形文字や彩文土器など,古代オリエントと似かよった文明をうみだした@。
 他方,前1000年ころから北部アンデス地域にチャビン文化が成立して,潅漑によるトウモロコシの栽培が普及しA,大小の王国が興亡したが,15世紀後半にはエクアドルからチリにおよぶ広大なインカ帝国が成立した。マヤやアステカ文明と同様,インカ文明も鉄器は知らず,金・銀・青銅器を用いたB。また文字はなかったが,独特なキープ(結縄)によって記録をつくった。ここでは太陽の崇拝がおこなわれ,国王(インカ)は太陽の化身として,巨大な石造建築に象徴される専制的な権力をふるった。
 スペインの王室は,「征服者たち」(コンキスタドレス)のひきいる軍隊をおくりこみ,これらの古い文明を持つインディオの諸王国をほろぼした。まずコルテスが1521年にアステカ族を破ってメキシコを征服し,ついで33年,ピサロがインカ帝国の内輪もめに乗じてこれをほろぼし,首都クスコを劫掠したのち,あたらしい首都リマを建設した。先住民がたちうちできなかったのは,スペイン軍の火砲の威力と機動力に富む騎兵であった。


@ 新大陸には馬・牛・ラクダなどの大型家畜はなく,鉄器や車の使用も知られていなかった。
A トウモロコシやジャガイモ・サツマイモ・トマトなどの新大陸の物産は,大航海時代以後,旧大陸に伝えられた。
B アステカ文明にもみられたが,インカでも美しい陶器や織物,金・銀・青銅(南アメリカのみ)の細工品がつくられた。

●ヨーロッパの変動●
 インド航路の開拓,新大陸への到達は,ヨーロッパにおける遠隔地貿易の中心を,地中海から大西洋に臨む国々へ移動させた。また商業の規模も,ヨーロッパをこえた世界的広がりを持つようになり,商品の種類にも取引額にも変化がおこった(商業革命)。このような世界商業圏の形成は,すでにめばえはじめた資本主義経済に,広大な海外市場をひらくことにより,その発達をおおいにうながすことになった。他方,16世紀なかばころから,生産費の安いラテンアメリカの貴金属,とりわけ1545年,ボリビア南部のポトシ銀山が発見されて以来,銀が大量に流入したことは,ヨーロッパの物価を2〜3倍にひきあげるという現象(価格革命)をひきおこした@。これによって西欧諸国では一般に商工業が活気をおびた反面,東欧諸国は経済面で西欧に穀物を輸出する地域となり,農民の農奴化が進展して農場領主制(グーツヘルシャフト)が広まり,従来,地中海貿易との連関で栄えた南ドイツの銀生産も,急速におとろえてしまった。


@ 固定地代の収入で生活する領主は,この物価騰貴によって打撃をうけた。
3 宗教改革

●ルターの宗教改革●
 カトリック教会の刷新運動はすでに14世紀ころからおこっていたが,1517年ドイツからおこった宗教改革は,民衆の生活と日常的に結びつく教会のあり方を根本的にかえたという点で,教会の権威やカトリックの教義の根本をうたがわなかったルネサンス以上に,大きな社会的・政治的影響をおよぼした。
 ルネサンス文芸を保護したメディチ家出身の教皇レオ10世は,ローマの聖ピエトロ大聖堂の新築資金を調達するために,ドイツで贖宥状(免罪符)を大々的に売りだした。教会のために喜捨などの善行を積めば,その功績で過去におかした罪も赦されるなどという教えが,当時は教皇庁による金集めに利用されていたのである@。
 1517年,修道士で,ザクセン選帝侯の創立になるヴィッテンベルク大学の神学教授でもあったマルティン=ルターは,魂の救いは善行によらずキリストの福音への信仰のみによるという確信から,贖宥状の悪弊を攻撃する九十五カ条の論題を発表した。この論題は神学者の討論むけのものであったが,たちまちドイツ中に広まり,大きな反響をうんだ。そして,教皇側の神学者たちとの論争のうちに,ルターが教皇権そのものを否認していることがあきらかとなり,彼は『キリスト者の自由』を刊行した1520年,異端者として破門するとの威嚇をうけた。しかし教皇庁の搾取をいきどおる諸侯,自由を求める市民,封建制の重圧に苦しむ農民など,ドイツ国民の各階層の多くがルターを支持した。
 時の皇帝カール5世は,1521年初めにルターが教皇に破門されると,彼をその春ひらかれたヴォルムスの帝国議会によびだして,異端的な説の撤回を求めた。ルターが良心をまげずこれを拒否したため,皇帝は彼から法の保護をうばったが,ルターの主君ザクセン選帝侯はひそかに彼をかくまった。ここでルターは『新約聖書』のすぐれたドイツ語訳を完成し,民衆が直接キリストの福音に接する道をひらいた。
 ルターはあくまで聖書のみを信仰のよりどころとしたが,1522年春あたりからは,聖霊の働きを重視し聖書を軽んずる急進的な運動がおこった。その代表者のひとりミュンツァーは,ルターの福音主義を旗印とし,農奴制の廃止などを要求するドイツ農民戦争(1524〜25年)を指導して,処刑された。ルター自身,最初のうちは農民反乱に同情的だったが,運動がいっそう過激化すると,これを弾圧する諸侯の側にまわった。ともあれ,ザクセンはじめ,ルターの教えを採用した諸侯は,領内の教会の首長となり(領邦教会制),修道院の廃止,典礼の改革などを押し進めていった。
 その後ドイツでは,イタリア戦争やオスマン帝国によるウィーン包囲など,複雑な国際関係を背景としつつ旧教徒と新教徒との争いがシュマルカルデン戦争という武力闘争にまで発展した。しかし,けっきょく政治的妥協の形で1555年,アウグスブルクの和議が成立し,諸侯はカトリック派とルター派のいずれをも採用できるが,彼らの奉ずる宗派に領民はしたがわねばならないという原則が確立した。ルター派はやがて北欧諸国にも広がった。


@ ドイツは政治的に分裂していたため,教皇による政治的干渉や財政上の搾取をうけやすく,「ローマの牝牛」といわれて,贖宥状販売にも好都合であった。

●スイスの宗教改革とカルヴァン●
 スイスではツヴィングリが,1523年以来チューリヒで宗教改革をはじめたが@,彼はカトリック諸州との戦いのなかで31年に没した。フランスのヒューマニストで,ルターの説に共鳴し,『キリスト教綱要』を公刊したカルヴァンは,ジュネーヴで独自の宗教改革をおこなった。彼の教えは,神の絶対主権を強調する厳格な禁欲主義を特徴とし,そのためジュネーヴでは一種の神権政治がしかれた。また彼は,魂が救われるか否かは,あらかじめ神によって定められているという「予定説」を説き,これが職業労働を神の栄光をあらわす道と理解する考えと結びついて,資本主義勃興期における中産市民のあいだに広く普及した。教会組織のうえでは,ルターが司教(監督)制度を維持したのに対し,カルヴァンはこれを廃止すると同時に,教会員のあいだから信仰のあつい者を長老に選んで牧師を補佐させる長老主義をとり入れた。カルヴァン派は,さかんな宣教活動をつうじてフランス・ネーデルラント・スコットランドなどにも広まり,その勢力はルター派をしのぐにいたった。
 こうして,ドイツの諸領邦や自由都市ではルター派が,スイスではツヴィングリ派を吸収したカルヴァン派が,16世紀なかばには,もはや無視できないキリスト教の宗派となった。これら,ローマ教皇の権威を認めず,聖職者の特権を否定する(万人祭司主義)新宗派を総称してプロテスタンティズムというA。


@ ツヴィングリが市政府との協力で改革を押し進めた際,中世以来の幼児洗礼を引きついだのに不満を持つ信徒たちは,成人洗礼のみが有効だと主張し,再洗礼派とよばれた。再洗礼派はドイツやネーデルラントにも広まったが,ミュンツァーも同様な立場をとり,反国家的な危険分子として,カトリック側からも,ルター派・カルヴァン派からも弾圧された。
A 「プロテスタント」(新教徒)の呼称のおこりは,皇帝カール5世が対フランス戦争への支援のため,1526年のシュパイアー帝国議会でルター派の諸侯や自由都市に信教の自由を認めながら,戦局が好転した29年の第2回シュパイアー国会でこの認可をとりけしたのに対し,ルター派が「抗議文」を提出したことにある。

●イギリス国教会の成立●
 イギリスでは,テューダー朝第2代の国王ヘンリ8世が,王妃との離婚の認可を教皇にねがい,これを拒否されたためローマと縁を切る,というまったく非宗教的な動機から宗教改革がはじまった。彼は議会の支持のもとに,首長法(1534年)を発して,国王がイギリス国内の教会の主権者であると宣言し,また同じく議会立法で修道院を廃止し,その広大な土地財産を没収した。
 これはまだ外面的な改革であったが,次代のエドワード6世のもとで教義の面でもプロテスタンティズムの原理をとり入れて,一般祈祷書がつくられた。つづく女王メアリ1世はスペイン王室と結託してカトリックを復活しようとくわだてたが,エリザベス1世にいたり,1559年の統一法で国教会体制が最終的に確立された。この国教会は,ほぼカルヴァン主義を採用しているが,司教(主教)制を維持するほか,礼拝や儀式の面でも旧教に似かよった点が残っている。

●反宗教改革●
 宗教改革の進展を前にカトリック教会は,教義の明確化と内部革新をつうじて,勢力をたてなおそうとつとめた。これを反宗教改革とよぶ。1545年からトリエントでひらかれた公会議で,教皇の至上権が再確認されるとともに,聖職者の生活を粛正し,他方では禁書目録をつくり,宗教裁判所を強化して思想統制をおこなった。スペインのイグナティウス=ロヨラがフランシスコ=ザビエルら同志とともに結成し(1534年),教皇の許可をうけたイエズス会(ジェズイット教団)は,厳格な紀律と組織のもとに,ヨーロッパ内外で積極的な宣教・教育活動をくりひろげ,カトリック教会の勢力の挽回におおいに貢献した@。
 この反宗教改革によって旧教徒と新教徒の対立はいちだんと激化し,ヨーロッパ各地で宗教戦争をひきおこした。また,このようなカトリック諸国の布教活動は,「大航海時代」の世界的通商・植民活動と密接なつながりを持った。
 なお,すでに中世からあらわれ,近代初期の宗派対立によって輪をかけられた妄信,つまり自然的災害の原因を特定の人間に帰する,非科学的な「魔女狩り」が,17世紀まで各地にあれくるったことも忘れてはならない。


@ その結果,南ヨーロッパへの新教の波及がはばまれ,南ドイツの多くの地域が新教徒から奪回された。またザビエルは,インド・東南アジアに布教し,1549年には日本にも来航して信徒(キリシタン)をえた。イエズス会士はまだキリスト教を知らない東アジアや南アジア,ラテンアメリカに宣教師を派遣している。
第10章 ヨーロッパ近代国家の形成

 中世封建社会の変化により,各国では国王による中央集権化が進み,近代市民社会への過渡期にあたる絶対主義体制が成立した。16世紀におけるスペイン・イギリス,17世紀のフランスがその典型であるが,18世紀初めのスペイン継承戦争によりスペインが没落し,かわってオーストリア・プロイセン・ロシアが登場した。これら諸国はヨーロッパの覇権をめぐってたえず争いを続けた。とくに17世紀に覇をとなえたフランスは,たびかさなる戦争で財政難をおこし,18世紀の啓蒙思想の影響をうけた市民階級が中心となって革命をおこすにいたった。絶対主義諸国のうち,とくにイギリスは,封建領主権がはやくおとろえ,市民階級の台頭により17世紀のイギリス革命によって絶対主義をぬけでて,議会政治の国となった。またこれより先,オランダはスペインから独立して大商人貴族の支配する連邦共和国となった。
 絶対主義時代の諸国はいわゆる重商主義政策を採用し,国内では大商工業者が栄えて資本主義生産がはじまった。また市場や原料の供給地を求めて植民地獲得競争がおこり,ヨーロッパ大陸の戦争と並行して激しい植民地戦争がおこなわれた。そして16世紀にスペイン,17世紀にオランダを打破したイギリスは,17世紀末から18世紀にかけてフランスとたたかい,最終的に勝利をえた。イギリスの広大な海外市場と資本の蓄積とは,18世紀後半にはじまる産業革命の誘因となり,19世紀に覇をとなえる基礎をすえるにいたった。

1 絶対主義諸国家の盛衰

●絶対主義の成立●
 中世末以来,封建社会の変質にともなって諸侯は独立性を失い,王権による中央集権化が進んだ。国王は官僚機構をつうじて行政・司法を掌握する一方,租税制度に裏づけられた王権直属の常備軍をつくっていった。このようにして,ほぼ16〜18世紀ころ,各国に成立した強力な君主政治を絶対主義(絶対王政)という。
 しかし,イギリスのように封建領主制がはやくくずれたところをのぞけば,絶対主義のもとでも,社会には旧来の身分制度が根強く生きのび,領主である貴族や聖職者たちは,中間権力として,国王による国民の直接支配をさまたげていた。彼ら特権身分は,平民のおさめる租税を免除されていたので,国王は,戦争や宮廷の維持にあてる莫大な資金をえるため,興隆しはじめた商人たちと手をにぎるようになった。
 商業資本の担い手であるこれら商人や金融業者の増加とともに,生産のしくみにも変化がおこった。彼らは手工業生産者に道具や原料を前貸しして注文生産をおこない,製品を買い占めて生産を支配した(問屋制)。またマニュファクチュアといって,ギルドの枠外で資本家が労働者を仕事場に集め,分業の方式で生産をおこなうこともはじまった(工業制手工業)。これらは,いずれも資本家が賃労働者をやとって市場むけの生産をおこなう制度,すなわち資本主義的生産様式のはじまりを示すものであった。
 絶対主義の国家は,富国強兵をめざして国内の商工業を保護育成し,貿易の振興によって,できるだけ多くの貨幣を手にいれようとした。この政策を重商主義という@。そこでヨーロッパ列強は,自国製品のための海外市場として植民地を求め,激しく争った。重商主義は資本主義の発展をうながしたから,市民階級(ブルジョワジー)は王権を支持した。しかし,政治が経済に介入するこのような政策は,市民階級がいっそう成長するにつれ,不自由なものと感じられ,彼らは政治への参加と自由な経済活動を求めて,王権と対立し,市民革命をおこすにいたったA。この動きがもっともはやくみられたのはイギリスであった。


@ 重商主義の前段階として,もっぱら貨幣の素材である金銀の獲得をめざす重金主義をおく考え方もある。
A 絶対主義の形成期には,王権と手をにぎる特権的な商人や金融業者が市民階級のなかで優位を占めた。しかしマニュファクチュア経営者などのあたらしい中産階級が台頭するにつれ,市民階級の層が厚くなっていった。

●スペインの強盛●
 中世末にネーデルラントを政略結婚で獲得していたオーストリアのハプスブルク家は,スペイン王位をも継承し,カルロス1世のときスペイン=ハプスブルク家がはじまった。このカルロスが神聖ローマ皇帝(カール5世)に選出され,キリスト教世界の政治的統一を夢みるようになると,フランス王家との敵対はぬきさしならぬものになった。ちょうどそのころ東方からオスマン帝国(トルコ)の勢力が進出してきたため,カールはその治世の大半をフランス・トルコとの戦いについやさねばならなかった@。
 カール5世の退位(1556年)とともに,ハプスブルク家がスペイン系とオーストリア系にわかれたのち,フェリペ2世のもとでスペインは全盛期をむかえ,1571年トルコの海軍をレパントの海戦に破って,その脅威をやわらげた。さらに,1580年ポルトガルの王統がたえると,フェリペはその領土をも継承し,文字どおり「太陽のしずまぬ国」を実現した。


@ 新大陸の発見によりラテンアメリカから流入してくる多量の銀も,宮廷の豪奢とならんで,この巨額な戦費にそそぎこまれ,国民をうるおすことがなかった。

●オランダの独立●
 商業の発達したネーデルラントには,カルヴァン派の新教徒が多かった。カール5世の退位後,この地がスペインのフェリペ2世の統治下におかれると,熱心なカトリック教徒であるフェリペはきびしい旧教化政策をとり,さらにこれまで大幅に認められてきた自治権をうばおうとしたため,諸州の激しい反乱をまねいた(1568年)。南部の10州(フランドル地方)はやがてスペインに屈服したが,北部7州は1579年ユトレヒト同盟を結んで,オラニエ(オレンジ)公ウィレム(ウィリアム)のもとに抗戦を続け,1581年,ネーデルラント連邦共和国の独立を宣言した@。
 この反乱によりヨーロッパでの通商・金融活動に致命的な打撃をうけたスペインの国力は,もともと国内産業の基盤が弱かったこともあって,急速におとろえていった。エリザベス1世のもとで最終的に新教国となったイギリスは,オランダ独立を側面から援助した。フェリペは1588年,エリザベスを王位から追うため,強大な無敵艦隊をおくったが,機動力に富むイギリス海軍に敗れ,大西洋の制海権を失った。
 その後もスペインはオランダの奪回につとめたが,オランダは北欧での中継貿易で富をたくわえ,さらに東南アジアにまで貿易網を広げて(1602年,東インド会社設立),いっそう国力を強め,1609年の休戦条約で事実上の独立をかちとった(オランダ独立戦争)。フランドルのアントワープにかわって,今やアムステルダムが国際金融の中心となり,17世紀前半には学芸もおおいに栄えて,オランダは全盛期をむかえた。


@ 連邦の中心ホラント州の名をとって,このあたらしい連邦国家はオランダともよばれる。

●イギリスの興隆●
 イギリスでは,バラ戦争による封建貴族の没落が,もともと強力だった王権をいっそう強める結果となり,絶対王政への道がひらかれた。しかしテューダー朝のもとでも,国王は依然として,地方行政の面で州の有力者である地主階級ジェントリ(郷紳)の自発的な協力を必要とし,他方,フランスなどとちがって強力な官僚機構や常備軍は形成されなかった。また,ヘンリ8世にはじまる国教会体制も,教会行政の頂点に国王をすえることをとおして絶対主義の強化をたすけた。しかしこの宗教改革そのものが議会の立法活動をつうじてなしとげられたところに,この国の議会制の強みがある。
 15世紀末以来さかんになった囲い込み@による羊毛生産の増大は,毛織物業をイギリスの国民産業とした。エリザベス1世時代のめざましい海外進出A(1600年,東インド会社設立)はこれを背景としており,また,この点で,その繁栄をほとんど仲介貿易に依存し,しかも連邦制のもとで強い中央権力を欠いていたオランダにまさっていた。


@ エンクロージャーの訳語で,毛織物市場の拡大に対応するため,領主や地主が農地を農民からとりあげ,生垣や塀で囲い込んで牧場にしたこと。のち産業革命期に食料増産の目的で議会が推進した第2次の囲い込みに対し,15世紀末〜17世紀なかばのそれを第1次囲い込みとよぶ。トマス=モアは『ユートピア』のなかで,これを「羊が人間を食う」ものだと批判した。
A スペイン領西インドをおそい,イギリス人最初の世界周航をなしとげ,無敵艦隊来襲の際,一提督として活躍したフランシス=ドレークは,エリザベス朝時代の海上発展の象徴といえる。

●フランスの宗教戦争と絶対主義●
 フランスは百年戦争をつうじて,国内にあったイギリス領を一掃し@,中央集権的な国民国家への道をあゆんできた。しかし宗教改革の影響はこの旧教国にも波及し,16世紀なかばには,迫害にめげず,カルヴァン派の新教徒(ユグノー)の勢力が無視できなくなった。
 シャルル9世が幼少で王位につくと,母后カトリーヌのもとで,新旧両宗派の争いは貴族間の党派争いと結びつき,1562年以来,30年以上にわたる内戦がおこった(ユグノー戦争)。反宗教改革を主導するスペインはフランスの旧教徒同盟を援助し,ユグノー側もドイツの新教徒やオランダ・イギリスと結ぶなど,この宗教戦争は外国勢力の介入をまねいて,フランスの国家統一をおびやかした。しかしけっきょく,ユグノーの首領であったブルボン家のアンリ4世が王位を継承すると,国益の見地から旧教に改宗したうえ,1598年のナントの勅令で,ユグノーにも大幅な信教の自由とほぼ完全な市民権を認めたので,内戦はおわった。
 アンリ4世にはじまるブルボン朝のもとで,フランスは絶対王政の全盛期をむかえた。ルイ13世の宰相リシュリューは,不穏な動きを示す貴族や南西フランスに勢力を持つ反王権的なユグノーを打ち破り,国際政治の面では,三十年戦争の際,新教徒の側にたってハプスブルク家の皇帝権力をくじこうとつとめたA。ついで1643年に幼少のルイ14世が即位すると,宰相マザランの強権政治に反対する高等法院や貴族が反乱(フロンドの乱)をおこしたが,政府はまもなくこれを鎮定し,絶対主義をさらに強化した。1661年,マザランの死とともに親政を開始したルイ14世は,「太陽王」として王権万能の政治を実現しB,ヴェルサイユに壮大な宮殿を建造させて,貴族を宮廷の従僕のようにあつかった。財務総監コルベールは重商主義政策をとって,国内の商工業を育成し,東インド会社などの特権会社を振興した。豪奢をこのむ王はヴェルサイユに当代一流の芸術家・文人を集めて彼らを援助したため,フランスは文化のうえでもヨーロッパの模範とされた。
 ルイは増強された軍隊を用いて,ヨーロッパの覇権をめざし,たびたび侵略戦争Cをおこなったが,列国が連合してこれに抵抗したため,成果は少なかった。ルイの后はスペイン王女だったので,1700年,スペインのハプスブルク家が断絶したとき,孫のフィリップがフェリペ5世として王位をついだ。ハプスブルク家のオーストリアは,新大陸のスペイン植民地に利害を持つイギリス・オランダなどと連合してフランスとたたかい(スペイン継承戦争,1701〜13年),けっきょく,ユトレヒト条約(1713年)で,スペイン・フランス両国が合同しないという条件で,ブルボン家のスペイン王位継承が認められたD。
 表面ははなやかだった「太陽王」の治世も,たびかさなる戦争と宮廷の浪費をまかなう重税で平民に大きな犠牲をしい,またナントの勅令の廃止(1685年)によるユグノーの商工業者の大量亡命は,産業の発展を阻害した。このため,1715年,ルイ14世の死とともに曾孫ルイ15世が即位すると,無力な王のもとで財政はますます悪化し,政治も乱れて,のちの大革命の原因となった。


@ ドーヴァー海峡に面する都市カレーのみは,16世紀なかばまでイギリス領にとどまった。
A ルイ13世がまだ未成年のとき,母后は国内の政情安定のため1614年に三部会を召集したが,諸身分の利害の対立で翌15年に解散し,以後1789年までひらかれなかった。
B 「朕は国家なり」という伝説的なことばは,国家の利害を王のそれと同一視するという点で,ルイ14世の国家観をよく示している。なお,ルイの宮廷説教師ボシュエは,王権神授説の著名な代表者である。
C 南ネーデルラント継承戦争(1667〜68年),オランダ侵略戦争(1672〜78年),ファルツ戦争(1688〜97年)などをおこなった。
D イギリスがその代償としてスペインからジブラルタル・ミノルカ島を得,フランスからニューファンドランド・アカディア・ハドソン湾地方を領有したことは,この戦争の勝利者がイギリスだったことを示している。

●三十年戦争●
 神聖ローマ帝国が,事実上,大小の領邦に分裂していたドイツは,「大航海時代」における西欧列国の国民的発展におくれをとった。そのうえ,アウグスブルクの和議ののちも,反宗教改革の動きのなかで宗派上の紛争がやまず,ついに1618年,三十年戦争とよばれる大きな戦乱がおこった。その口火は,オーストリアの属領ベーメン(ボヘミア)の新教徒が,ハプスブルク家の国王(のち皇帝に選ばれる)の旧教化政策にむかっておこした反乱であるが,戦火はたちまち帝国の西部・北部へと広がり,しかも皇帝と旧教諸侯にはスペインが加勢し,デンマークは新教側をたすけるため介入したので,国際的な宗教戦争となった。
 デンマークが敗退し,傭兵隊長ヴァレンシュタインの皇帝軍が北ドイツを制圧すると,バルト海に利害関係を持つ新教国スウェーデンの国王グスタフ=アドルフがドイツに上陸し,旧教軍を圧迫した。しかしスウェーデンの干渉は旧教国フランスに支援されており,グスタフ=アドルフの戦死で和平気分が高まると,フランスは公然と参戦して皇帝軍とたたかった。この事実は,三十年戦争が,ハプスブルク家対フランス王家の,中世末以来続いている権力闘争の一環でもあったことを示している。
 1648年のウェストファリア条約で三十年戦争もおわり,ドイツの宗教平和は回復されたが@,フランスはアルザス地方,スウェーデンは北ドイツの沿海地域に領土を得,ドイツ諸侯にはほとんど完全な主権が承認されたので,神聖ローマ帝国の分裂状態は決定的となった。またスイスとオランダの独立がこの条約で正式に認められたのに対し,長年の戦乱にあらされ人口も激減したドイツは大打撃をうけ,西欧諸国に対する社会経済的な立ちおくれは著しくなった。


@ アウグスブルクの和議の原則が再確認されるとともに,カルヴァン派も正式に認められたが,個人の信教の自由はまだ問題にならなかった。

●プロイセンとオーストリア●
 三十年戦争の戦禍のなかから,北ドイツでは,オーストリアにつぐ第2の強国プロイセン(プロシア)が,急速に成長しはじめた。この国は,15世紀以来ホーエンツォレルン家の支配下におかれたブランデンブルク選帝侯国が,17世紀の初め東北方のプロイセン公国@をあわせてできたもので,同世紀の後半,選帝侯が常備軍をつくって反抗的な貴族や都市をおさえ,絶対主義への道をひらいた。スペイン継承戦争で皇帝をたすけてプロイセン王国に昇格したこの国は,2代目の王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世のもとで財政・行政をととのえ軍備を増強し,典型的な絶対主義国家となった。
 1740年に即位したフリードリヒ2世(大王)は,同年オーストリアのマリア=テレジアがハプスブルク家の全領土を継承すると,これに異議をとなえて資源の豊富なシュレジエン(シレジア)を占領した。このとき,オーストリアの継承権を主張するバイエルン(バヴァリア)公や,かねてハプスブルク家と対立していたフランス王が荷担してたたかい(オーストリア継承戦争,1740〜48年),けっきょくシュレジエンを併合した。シュレジエンの奪回をめざすマリア=テレジアは,長年敵対してきたフランスと同盟し(「外交革命」),ロシアとも結んだので,フリードリヒは機先を制して七年戦争に突入,苦戦の末ついに有利な和平を結んでシュレジエンを確保し,プロイセンをヨーロッパの列強の地位に高めた。
 「君主は国家第一の僕」と自称するフリードリヒは,ヴォルテールらのフランス啓蒙思想に傾倒し,内政面では,信教の自由を認めたほか,産業の育成,司法の改革などで国民の福祉向上に尽力したが,統治方式はあくまで絶対主義的であったから,啓蒙絶対君主の典型とされている。プロイセンが成立したエルベ川以東の地域は,中世後期の植民をつうじてドイツ領となったもので,初期には入植促進のため農民に有利な地位があたえられたが,15〜16世紀以来,騎士身分のユンカー(領主貴族)の農民支配が強まり,絶対主義時代には,彼らが王権の支柱となった。フリードリヒの啓蒙思想も,ユンカーに支配される農民の農奴的地位をなんら改善しなかったのである。
 オーストリアでも,マリア=テレジアは,プロイセンとの戦争にそなえて種々の内政改革をおこない,その子ヨーゼフ2世は啓蒙絶対君主として,宗教寛容政策や農奴解放,教育・医療施設の充実など,上からの近代化につとめたが,貴族の土地への課税には抵抗が大きく,ほとんど失敗におわったA。


@ 13世紀にドイツ騎士団のたてた国家が,ホーエンツォレルン家出身の騎士団長のもとで新教に改宗し,プロイセン公国となった。
A ハプスブルク家は,チェック人の住むベーメン王国,マジャール人のハンガリー王国,北イタリア地方などをも支配していたため,ヨーゼフの画一的改革は民族感情の反発をまねいた。

●ロシアの台頭●
 東ヨーロッパでは,16世紀なかばにモスクワ大公のイヴァン4世(雷帝)が正式にツァーリ(皇帝)の称号を用い,貴族をおさえて専制政治の基礎をかためた@。彼は領土を南ロシアに広げ,コサックAの首長イェルマークが占領したシベリアの一部を公式に接収して,アジアへも進出しはじめた。帝の死後しばらく内紛が続いたが,1613年ミハイル=ロマノフを祖とするロマノフ朝が帝権をにぎると,ふたたび専制が強まり農奴制が強化された。17世紀の後半おこったステンカ=ラージンの農民反乱が鎮圧されたのち,帝位にのぼったピョートル1世(大帝)は,みずから西欧諸国の視察におもむき,これを模範とする国制改革・農業振興によって,国力をおおいに充実させた。帝は軍備の拡大を背景にシベリア経営を押し進め,中国の清朝とネルチンスク条約を結んで両国の境界を定め通商をひらいたほか,南方ではトルコを圧迫してアゾフ海に進出した。当時西方のバルト海域にはスウェーデンが勢力を張っていたが,ピョートルは同国のカール12世が年少で王位につくと,ポーランド・デンマークと結んで戦いをひらいた(北方戦争)。カールははじめのうちロシア軍に連勝したが,やがて兵力をたてなおしたピョートルが,逆にスウェーデンを打ち破ってバルト海に覇権をうちたて,東方の大国としての地位をかためたB。
 18世紀後半,女帝エカチェリーナ2世は,ピョートルの事業をうけつぎ,南方ではクリミア半島をトルコからうばい,東方ではオホーツク海まで進出し,日本にも使節ラクスマンをおくった。ロシアでは,プロイセンと同様,近代に入って逆に農民の地位が悪化していた。ピョートルは勅令で農奴を工場で使役することを認め,エカチェリーナもはじめは啓蒙絶対君主として種々の改革をこころみたが,プガチョフの農民反乱ののちは,貴族の側にたって農奴制をかえって強化し,さらにフランス革命がおこると,これへの対抗から専制政治をきびしくした。


@ イヴァンは,ビザンツ皇帝の後継者を自任していた。
A コサックは,農奴制の圧迫をのがれてロシアの東南辺境に移住した農民で,牧畜・狩猟・漁業などをいとなむかたわら戦士団を形成し,独立性が強かった。
B 1703年,バルト海沿岸にペテルブルクを建設し,ここに首都を移した。

●ポーランドの分割●
 ポーランドでは16世紀後半ヤゲウォ朝が断絶すると,選挙王制のもとで貴族間に紛争がたえず,18世紀には国力がおとろえた。ロシアのエカチェリーナ2世がこれに乗じて内政に干渉し,勢力を西に広げようとしたので,プロイセンのフリードリヒ2世はオーストリアをさそってロシアにポーランド分割を提案し,3国はそれぞれ国境に近いポーランドの領土をうばった(1772年)。
 ポーランドの愛国者たちは奮起し,憲法を制定し国力の充実につとめたが,フランス革命がおこり西欧諸国の関心がそちらに集中すると,プロイセンはロシアと第2回の分割を強行した(1793年)。愛国者コシューシコは義勇軍をつのってロシアとたたかったが敗れ,3国はついに残りの領土も分割し(1795年),ポーランドはいったん滅亡して,第一次世界大戦後の独立まで,外国支配のもとにおかれることとなった。
2 イギリス立憲政治の発達

●王権と議会の対立●
 イギリスではエリザベス1世の死でテューダー朝がたえると,スコットランドのステュアート朝がイギリスの王位をついで,1603年ジェームズ1世が即位した。このころ,商工業の発達で市民階級の力が強まり,また農村ではすでに荘園領主制がすたれて,多くの独立自営農民(ヨーマン)がうまれた。なかには副業として毛織物マニュファクチュアをいとなむ富農もあらわれたが,地方行政や議会の下院で活躍したのは,いぜん,貴族と農民の中間にたつ地主階級のジェントリ(郷紳)であった。
 このように有力な中産階級が成長し,彼らは議会をつうじてその権利をのばそうとつとめていたが,ジェームズはそうした時代の動きを理解せず,王権神授説@をとなえて専制政治をおこなった。当時,中産階級のあいだでは,絶対王政の支柱である国教会に不満なカルヴァン派(ピューリタン,清教徒)が力を増し,彼らは,議会を無視して新税をとりたてたり少数の大商人に独占権をあたえたりする王の気ままな政治に正面から反対した。つぎのチャールズ1世も父の政策を改めず,財政難打開のため公債を強制するなどしたので,議会は1628年,権利の請願を可決し,議会の承認なしに租税を徴収しないことや,国民を法律によらず逮捕しないことなどを約束させた。しかし王はこれをまもらず,翌年議会を解散すると,11年間も議会なしの専制政治をおこなった。
 1639年,チャールズが長老派(プレスビテリアン)の優勢なスコットランドに国教を強制しようとして反乱をまねくと,王は戦費調達のため,翌40年やむなく議会を招集したが,議会は課税をこばんだので,ただちにこれを解散した(短期議会)。反乱の鎮圧に手をやいた王は,同年あらたに議会を招集したが(長期議会),この議会も激しく王の悪政を攻撃したので,王は武力でこれをおさえようとし,ついに1642年王党派と議会派とのあいだに内戦がおこった。


@ 王権は神からさずかったものであるから,なんら人民によって拘束されることがなく,国王がなにをおこなっても人民はこれに反抗できない,という政治思想。

●ピューリタン革命●
 王は,議会派の勢力の強いロンドンをさけて,ヨークに拠った。戦局は,最初のうち王党派に有利であったが,やがて議会派にオリヴァ=クロムウェルが登場すると,彼はピューリタンの信仰にもえる鉄騎隊@で王党派を打ち破り,王を捕虜とした。ピューリタン左翼の独立派を代表する彼は,立憲王政をめざす長老派を議会から追放し,1649年,チャールズ1世を処刑して,共和政をうちたてた。これをピューリタン革命というA。
 クロムウェルは,中産階級や地主の利益をまもる立場から,財産と参政権の平等を主張して社会変革をのぞむ水平派を弾圧する一方,王党派の殲滅を口実にアイルランドを征服し,先住民の土地を没収して,この島をイギリスの植民地的な地位におとしいれた。またチャールズ1世の子がスコットランドに拠ると,軍をさしむけてこの地をも征服している。経済政策の面で彼は重商主義をとり,国内産業の保護,貿易の振興のため,1651年航海法を発布したが,これはオランダ商船がイギリスの港に出入りすることを禁じていたので,中継貿易を主とするオランダに打撃をあたえた。このため,両国間に第1次の英蘭戦争(1652〜54年)がおこり,イギリス優勢のうちにおわったがB,この間クロムウェルは権力を一身に集め,1653年には終身の護国卿となって,厳格な軍事的独裁政治をしいた。ここにおいて,自由を愛するイギリス国民の不満は高まり,その子リチャードが父の死後あとをつぐと,長老派が力をもりかえし,王党派と妥協をはかるにいたった。


@ 鉄騎隊はジェントリのほかヨーマンをも多数ふくんでおり,紀律と闘志にすぐれていた。
A 絶対王政を倒し,資本主義経済の自由な発展をさまたげてきた特権商人の独占権などを廃止した点で,ピューリタン革命は市民革命としての性格を持っている。
B その後イギリスは第2次(1665〜67年),第3次(1672〜74年)の英蘭戦争にも勝って,オランダにかわり海上の覇権をにぎった。

●王政復古と名誉革命●
 この情勢をみて,フランスに亡命中のチャールズ1世の子は1660年に帰国し,チャールズ2世として王位についた。しかし王政復古は,けっして以前の絶対王政の復古ではなく,むしろ議会の復活であった。61年に招集された新議会では,王党派が多数を占めたが,彼らもジェントリの代表者であり,共和政期の軍事独裁が崩壊した今では,ふたたび革命以前の伝統的な地方自治と,議会による王権の制御を主張した。それゆえ,チャールズがふたたび専制政治をこころみ,カトリックの擁護さえくわだてると,議会は審査法(1673年)を制定して,官吏と議員を国教徒にかぎり,人身保護法(1679年)によって国民を不当に逮捕しないことを定めて,市民的自由を保障した。
 それでも王の専制はやまず,次代のジェームズ2世はカトリックの復活と絶対主義の再建につとめたので,1688年,ジェームズに王子がうまれたのをきっかけに,議会は結束して,ジェームズの長女で新教徒のメアリと,その夫でオランダ総督のウィレム3世をまねいた。ジェームズは抗戦をあきらめてフランスに亡命したので,翌89年,ウィリアム3世とメアリ2世とは,議会の提出した権利の宣言を承認したうえで,ともに王位についた。これを名誉革命という。議会は同年この宣言を権利の章典として制定した。これは権利の請願や人身保護法をうけつぎ,国民の生命・財産の保護などを定めたもので,これにより議会主権にもとづく立憲王政が確立された。

●議会政治と政党内閣●
 クロムウェルの独裁政治がおわったのち,王政は再建されたにしても,この復古王政のもとで,議会は立法の府としてむしろ活性化しはじめた。そのことは,1670年代末ころから,国王の大権を重んずるトーリー党,議会の権利を主張するホイッグ(ウィッグ)党という,議会内の二つの派閥@がうまれたことにも示されていた。名誉革命では両者が手をにぎり,ウィリアム3世ははじめのうち両党の代表者による連立内閣を組織させたが,王の晩年には議会の多数党が内閣を組織する政党政治がはじまった。
 ウィリアムには子がなく,その死後はメアリの妹のアンが王位についた。17世紀初頭,ジェームズ1世の即位でイギリスと同君連合を形成していたスコットランドが,イギリスと合邦して大ブリテン王国となったのは,アン女王の治世,1707年のことである。アンが没してステュアート朝がたえると,遠縁にあたるドイツのハノーヴァー選帝侯Aがむかえられ,ジョージ1世としてハノーヴァー朝をはじめた。この王が現イギリス王室(ウィンザー朝)の直接の祖である。しかしジョージはドイツ人で英語がわからず,イギリスの国情にもつうじていなかったため,政務はもっぱら大臣にゆだねた。これがきっかけとなって,18世紀前半,ホイッグ党のウォルポール首相時代に,内閣は国王に対してでなく議会に責任を負うという責任内閣制が確立し,立憲政治はいちだんと発展した。いわゆる「王は君臨すれども統治せず」の原則である。ただ,この当時は地主(ジェントリや貴族)が支配階級であったから,参政権はかなりの土地財産を持つものだけにかぎられ,イギリスの議会政治もまだ民主的なものとは到底いえなかった。


@ 全体としてトーリー党には貴族や大地主が多く,ホイッグ党はジェントリや都市の商人が多かった。
A ドイツのハノーヴァー侯が選帝侯の位をさずけられたのは,1692年である。
3 ヨーロッパ列強の植民活動

●アジアにおける勢力争い●
 ポルトガルはインド航路を開拓してのち,火砲の威力でマムルーク朝のエジプト海軍を打ち破り,さらにインドのゴアを占領して(1510年)総督府を設け,これを東アジア貿易の根拠地とした。ついで,これまで香辛料貿易を独占していたムスリム商人を駆逐して,スリランカ・マラッカ・モルッカ諸島なども占領したポルトガルは,1517年,広州で明と通商をひらき,57年にはマカオに居住権を得,ここを拠点に対中国貿易をくりひろげた。1543(天文12)年,ポルトガル人ののった船が種子島に漂着したのをきっかけに,彼らが平戸に来航し,17世紀初めまで日本と通商関係を持ったのも,このような事情による。しかし,アジアにおけるポルトガルの勢力が長続きしなかったのは,この国の世界商業が王室の独占事業であって,国内産業の発展につながらなかったためである。他方スペインは,フェリペ2世時代にその名にちなむフィリピンを領有し,マニラを拠点にアジア貿易を展開した。
 16世紀末以来,オランダはアジアへの進出を開始した(1602年,東インド会社設立)。オランダ商人はジャワ島のバタヴィア(現在のジャカルタ)を根拠地に,ポルトガル商人を排除しつつ香辛料貿易の実権をにぎった。他方アンボイナ事件@を転機に,イギリスの勢力をインドネシアから締めだして,のちのオランダ領東インドの基礎をかため,またアジアへの中継地として南アフリカにケープ植民地をきずいた(1652年)A。日本の鎖国(1639年)後も対日貿易を許されたオランダは,一時台湾をも占領した。アンボイナ事件以後,イギリスはもっぱらインド経営に力をそそぎ,ボンベイ・マドラス・カルカッタを基地として,さかんな通商活動を展開し,3回の対オランダ戦争をつうじて,17世紀末には世界貿易の覇権をにぎった。最後の競争相手はフランスである。17世紀初頭アンリ4世のもとで創設されながら,まもなく活動をやめていたフランス東インド会社(1664年再建)は,コルベールのもとでインドに進出し,ポンディシェリ・シャンデルナゴルを基地としてイギリスと張りあった。
 イギリス・フランスのインド経営は,ムガル帝国の皇帝や地方政権の認可のもとでおこなわれたが,帝国が内部紛争におちいると,両国は地方の豪族を買収して,たがいに勢力範囲の拡大をめざした。ヨーロッパの七年戦争は世界史的規模における英仏戦争の一局面であり,この戦争の前後,インドでも北アメリカでも両大国の激しい植民地争いがくりかえされた。インドでは,当初フランス総督デュプレクスのたくみな戦略がイギリスを苦しめたが,彼が本国に召還されると,イギリス東インド会社の傭兵軍をひきいたクライヴが,フランスと地方豪族の連合軍をプラッシーの戦いで打ち破り,イギリス領インドの基礎をきずいた。


@ 1623年,モルッカ諸島(インドネシア東部)のアンボイナ島で,同地のイギリス商館員(雇用日本人をふくむ)全員をオランダ人が虐殺した事件。
A このときオランダが南アフリカに入植させた農民が,帝国主義時代にイギリスとたたかったブール人の祖である。

●アメリカにおける植民地争奪●
 ポルトガル領のブラジルをのぞくラテンアメリカを植民地化したスペインは,インディオや西アフリカから輸入した黒人奴隷を酷使して,ポトシ銀山をはじめとする鉱山の開発につとめ,莫大な金銀を独占した。スペインから独立したオランダも,1621年西インド会社を設立し,アフリカ西岸とアメリカとの通商に活躍し,北アメリカ東岸にはニューネザーランド植民地を領有し,ニューアムステルダム(1664年イギリスがうばい,ニューヨークと改名)を建設した。
 フランスは17世紀初頭以来ケベックを中心にカナダへ進出し,ルイ14世時代には広大なルイジアナを手にいれた。他方イギリスは17世紀初頭,北アメリカ東岸に最初の植民地ヴァージニアを設けたが,その後,多くのピューリタンが本国での迫害をのがれて北アメリカに移住し,ニューイングランド植民地を形成した。そのほかにも経済的あるいは宗教的な動機などから,イギリス人を主とする移民が自由の新天地を求めて渡来し,18世紀前半までには13の植民地が南北にならぶかたちとなった。これらの入植者は,ラテンアメリカのばあいとことなり,先住民のインディアンと融合しなかった。
 18世紀初め,スペイン継承戦争の結果,イギリスはフランスから北アメリカの領土を獲得,オーストリア継承戦争ではフランスの兵力をヨーロッパに釘づけにするため,マリア=テレジアを援助した。ついで七年戦争と並行して北アメリカでも英・仏の植民地戦争(イギリスではフレンチ=インディアン戦争とよぶ)がたたかわれた。この戦争は,インドにおいてと同様,イギリス側の大勝利におわり,1763年のパリ条約で,イギリスはカナダとミシシッピ以東のルイジアナ・フロリダ・西インド諸島の一部およびセネガルを獲得した。フランスは,逆に,ミシシッピ以西のルイジアナをスペインに譲渡したので,北アメリカにおける領土をすべて失い,ここにイギリス植民地帝国の基礎が確立された。

●奴隷貿易●
 アフリカでは,中世以来アラブ商人が東海岸で奴隷貿易をおこなっていた。それは彼らのインド洋貿易の一部であった。ところが,ポルトガル人による西アフリカ海岸の探検以来,西欧列強による大西洋ルートの黒人奴隷貿易がはじまった。すでに16世紀のあいだに,西インド諸島やラテンアメリカのスペイン植民地において,インディオの酷使で労働力が減少すると,その補いとしてアフリカの黒人を輸入して鉱山労働などに使役することがはじまった。さらに17世紀に新大陸や西インド諸島でサトウキビ・タバコ・綿花などの大農園(プランテーション)がさかんになると,ますます大量のアフリカの黒人が,奴隷として新大陸へおくりだされるようになった@。
 この奴隷貿易は,ヨーロッパから武器や雑貨などをアフリカにおくり,それと交換でえた奴隷をすし詰めの輸送船で新大陸におくりつけて,新大陸からは砂糖・綿花・タバコ・コーヒーなどの農産物をヨーロッパに持ち帰って売りさばく,という三角貿易の一環としておこなわれた。この奴隷貿易に従事したイギリスAなどヨーロッパの列強は莫大な利益を得,産業革命の一条件である資本蓄積がうながされたが,逆にアフリカの西海岸地方は,貴重な労働力を失って大きな損害をこうむった。


@ 奴隷のおもな供給地はギニア(ゴールドコーストからカメルーンにかけての地域)で,19世紀までに強制輸送された奴隷の数は,およそ 960万人にものぼると推定されている。
A リヴァプールやブリストルが奴隷貿易によって栄えた。
4 17〜18世紀のヨーロッパ文化

●芸術と文学●
 ルネサンスに続く17〜18世紀のヨーロッパ文芸は,絶対主義のもとで,王侯の宮廷生活との結びつきを深め,彼らの権威を誇示するのに役立てられた。他方,英・仏など先進西欧諸国では,成長した市民階級が海外からの茶・砂糖・コーヒーなどの新奇な商品を消費するようになる「生活革命」がおこり,文芸活動も彼らの生活感情を反映するようになった。
 絶対君主の権勢をもっともよく示すものは,17世紀のスペインやフランスで完成された豪壮華麗なバロック式の美術で,ルイ14世のヴェルサイユ宮殿に代表される。絵画では力動感にあふれた画風で知られるフランドル派の巨匠ルーベンスや,その門弟ファン=ダイクが名高く,スペインのエル=グレコ・ベラスケス・ムリリョらも数々のすぐれた肖像画や宗教画で宮廷をかざった。独立後のオランダではレンブラントが,明暗を強調する写実的な画法で,市民のたくましい活力を表現した。
 18世紀になると,バロック式にかわって,フランスのワトーの絵画にみられるような,繊細優美なロココ式の美術が広まり,王侯貴族や富裕市民に愛好されたが,プロイセンのフリードリヒ2世がポツダムにたてたサンスーシ宮殿もこの様式の建築として名高い。バッハやヘンデルのバロック音楽が完成されたのはこのころである。
 文学では,ルイ14世時代のフランスに,悲劇作家のコルネイユ・ラシーヌ,喜劇作家のモリエールらがでて,規則と調和を重んずる古典主義の傑作をうんだ。またリシュリューの創設になるフランス学士院(アカデミー)は,国語の統一と洗練に貢献し,フランス語はヨーロッパ諸国の上流社会で広く用いられた。ドイツでは,古典主義が18世紀後半ふたたび活気をおびた市民生活と結びつき,ゲーテやシラーによって完成された。
 絶対王政がはやく倒れたイギリスでは,17世紀にミルトン・バンヤンがでて,それぞれ『失楽園』『天路歴程』というピューリタン文学の名作を残したが,18世紀になると,個人の感情を自由に表現する風潮がうまれ,さかんな貿易・植民活動を背景に,デフォーの『ロビンソン=クルーソー』,スウィフトの『ガリヴァー旅行記』のような市民小説がうまれた。

●科学と哲学の発達●
 17世紀のヨーロッパは一般に経済が低調で,凶作や飢饉も多く,魔女狩りのような迷信が流行したが,他方では「科学革命」の時代とよばれるほど,近代的合理主義の思想や学問が本格的に確立されて,自然界の研究が進歩した。すでにルネサンス時代,コペルニクスが地動説をとなえキリスト教的世界観をゆるがしたが,イタリアのガリレイは,自分で製作した望遠鏡で天体の動きをくわしく観察し,これにもとづく『天文対話』で地動説の正しさを経験的に立証した。同じころドイツ人のケプラーは,皇帝の保護のもとに,地動説の立場から惑星運行の法則を発見している。17世紀後半にはイギリスのニュートンが,同じく天体運動の観察から出発して万有引力の法則をとなえ,近代物理学の基礎をうちたてた。18世紀にも,植物学のリンネ(スウェーデン),化学のラヴォワジエ(仏),天文学のラプラース(仏),種痘法の創始者ジェンナー(英)などにより,科学の各分野にすぐれた成果がうみだされ,伝統的な世界観を大きくかえていった@。
 事実の観察を重んじ,そこから一般法則をみちびく経験論(帰納法)を『新オルガヌム』のなかで説いたのは,イギリス人のフランシス=ベーコンであった。他方,ほぼ同じころ,大陸ではフランスのデカルトが数学的な論証法を用いる合理論(演繹法)をうちたて(『方法叙説』A),ともに近代哲学への道をひらいた。『瞑想録』で知られるフランスのパスカル,自然そのものを神とみなしたオランダのスピノザ,世界の調和を「単子」から説明したドイツのライプニッツは,キリスト教の信仰をあたらしい科学的な世界観や合理主義と,それぞれ独自の仕方で結びつけている。
 18世紀の末にあらわれたドイツの哲学者カントは,ロックをへてヒュームにより完成されたイギリスの経験論と,デカルト以来の大陸の合理論とを総合し,人間の認識能力に根本的な反省を加える批判哲学をとなえ,ドイツ観念論の祖となった。また彼は国際平和に関する考察もおこなっている。


@ このほか,気体力学の土台をきずいたボイル(英),血液の循環を発見したハーヴェー(英)の功績も大きく,またアメリカのイギリス植民地では,フランクリンが避雷針を発明した。
A 「われ思う,ゆえにわれあり」という有名なことばは,真理探究の出発点として,まずいっさいをうたがってみる,というデカルトの方法をよく示している。

●政治・経済思想●
 自然科学の発達をささえる旺盛な探究心は,やがて人間社会の考察にもむかい,近代的な自然法思想をうんだ。この自然法とは人間の本性にもとづく不変の法であり,それによれば国家の起源は,自然状態における自由・平等な個人が自発的にとり結ぶ契約(社会契約)から説明された。オランダのグロティウスは,海外貿易をめぐる諸国の抗争を前に『海洋自由論』を,また三十年戦争のさなかに『戦争と平和の法』をあらわし,自然法思想を国家間の関係に適用して,「国際法の祖」となった。『リヴァイアサン』の著者であるイギリスのホッブズは,自然状態を「万人の万人に対する闘い」ととらえ,内戦の防止に焦点をあわせて,社会契約から国家主権の絶対性を結論した。これに反し名誉革命の支持者ロックは,ホッブズのように人間の自然権の中心を生存権におかずこれを財産権におき,『統治論二篇』で不法な統治への反抗の権利を擁護して,のちのアメリカ独立革命に深い思想的影響をあたえた。
 自然法思想は,重商主義による国家規制の強かったフランスでは,経済の領域に適用され,『経済表』の著者ケネーや財務総監テュルゴーの重農主義の理論をうんだ。これは富の源泉をもっぱら土地に求めつつ,経済活動の自由放任を主張するものである@。いちはやく産業革命のはじまったイギリスでは,アダム=スミスが『諸国民の富』(『国富論』)で国民の生産活動の全体を富の源泉とみなし,分業と市場経済の基礎理論によって,自由主義的な古典学派経済学の確立者となった。


@ 重農主義の原語フィジオクラシーは,がんらい,「自然の支配」を意味していた。

●啓蒙主義●
 人間の幸福を増大するため,理性の光によっていっさいの偏見や迷妄の闇を打ち破ろうとする精神は,すでにルネサンス期にめざめていたが,科学革命をへて,18世紀にはいっそう強力な思想運動となった。これを啓蒙主義とよび,退廃した絶対主義のもとに社会矛盾が深まりつつあるフランスで,もっとも力強く発展した。『法の精神』でイギリスの憲政をたたえ,『ペルシア人の手紙』で大胆な社会批判をおこなったモンテスキュー,機知にあふれた文筆でカトリック教会の権威に挑戦し,イギリス賛美の『哲学書簡』のほか,人間精神の進歩という見地から世界文化史を考察したヴォルテールが活動し,少しおくれて『社会契約論』で有名なルソーがあらわれた。彼は『人間不平等起源論』にもみられるとおり,万人の平等にもとづく人民主権論のもっとも大胆な主張者で,フランス革命に深い影響をおよぼしたが,一般に啓蒙思想家が文明の進歩を謳歌したのとことなり,人間の自然的な善性を信じて文明化の害悪を指摘している。ディドロとダランベールの編集した『百科全書』は,フランス啓蒙主義者たちの思想を集大成したもので,内外に大きな社会的反響をよんだ。
 ドイツでは啓蒙主義や自然法思想が絶対主義と結びついて,いわゆる啓蒙絶対主義をうみだしている。もとよりカントやレッシングなどに代表される市民的な啓蒙思想もあったが,その重点はキリスト教の合理的解釈や法の近代化にあり,社会的変革につながる急進性は欠けていた。
第11章 アジア諸国の繁栄

 東アジアにおいては14世紀後半にモンゴルの支配が後退し,あらたに漢民族による明王朝が建設された。明は民族意識を高めて中国固有の文化の復興に努力し,南海諸国への遠征もおこなって強盛をほこった。つぎに中国を支配したのは満州族の清王朝であった。清は東アジアの大半を領有して康サ・雍正・乾隆年間に最盛期をむかえた。また明・清代をつうじて,経済の面では長江中・下流域の諸産業が発展し,周辺地域も開発された。
 西アジアでは14世紀にティムール朝が中央アジアのサマルカンドを首都として栄え,イル=ハン国をほろぼし,西アジアを支配して,イラン的要素の強いトルコ=イスラム文明を形成した。オスマン帝国はビザンツ帝国をほろぼし,16世紀前半のスレイマン1世のときに最盛期をむかえた。一方,イランでは,16世紀初めにシーア派のサファヴィー朝が成立してオスマン帝国に対抗した。
 インドでは16世紀前半にティムール朝系のムガル帝国が建設され,アクバル帝のときヒンドゥー教徒との融合がはかられて最盛期をむかえ,インド文化とイスラム文化の融合したインド=イスラム文明がうまれた。しかし17世紀後半にはイスラム教徒とヒンドゥー教徒の対立が激しくなり,ヨーロッパ勢力の侵入も加わってムガル帝国は衰退にむかった。

1 中国文化圏の拡大

●明の興亡●
 元末の紅巾の乱で頭角をあらわした朱元璋は,長江下流域の穀倉地帯を制圧すると,1368年,南京で帝位につき(太祖洪武帝),国号を明,年号を洪武と定めた@。明軍は同年,元をモンゴル高原にしりぞけ(北元),漢民族による中国統一を再現した。明は,経済力のある江南を根拠地として中国を統一したただ一つの王朝である。
 洪武帝は,民衆の民族意識を高めながら,支配体制の確立と国土の再建につとめた。まず,政治の最高機関であった中書省を廃止し,宰相の制をやめ,六部などを皇帝に直属させて親政体制をかためた。また財政を確立するために,民戸で村落行政組織としての里甲制Aを実施し,租税・戸籍台帳(賦役黄冊)や土地台帳(魚鱗図冊)をつくらせた。軍事面では,軍戸で衛所制Bを編成した。このほか,朱子学を官学とし,科挙制をととのえ,明律・明令をつくり,民衆教化のために6カ条の教訓(六諭)を定めたりして専制支配体制の基礎をかためた。また対外的には北辺にそなえて一族の諸王を華北に分封したほか,海禁策をおこなって中国人の渡航を許さず,交易は朝貢貿易を中心とした。
 洪武帝の死後,2代建文帝が強力となった諸王に対する抑圧策をとったことから,これに抵抗して燕王が挙兵し(靖難の変),南京を占領して帝位についた(成祖永楽帝)。帝は,宦官を重く用い,親政を補佐する内閣大学士をおき,江南と北京を結ぶ運河をととのえ,都を北京に移した。また対外積極策をとって5回もモンゴル高原に親征したほか,ヴェトナムを支配し,イスラム教徒の宦官鄭和にしばしば大規模な南海遠征をおこなわせたC。鄭和がひきいた大艦隊は東南アジアからインド洋・ペルシア湾にいたり,一部はアフリカ東岸にまで達し,南海諸国の対明朝貢をさかんにした。
 永楽帝死後の明は,内治と財政の安定をめざして対外消極策をとり,北で内モンゴルから後退し,南でヴェトナムの独立をみとめた。しかし,政治は宦官の勢力増大や官僚の政権争いなどによって乱れはじめた。また16世紀には,北で韃靼,東南海岸で倭寇の活動が激しくなったD(北虜南倭)。
 万暦帝初期の16世紀後半には, 張居正による政治のたてなおしもみられたが,彼の死後くずれた。しかも,同世紀末には,豊臣秀吉の侵略に苦しむ朝鮮への援軍派遣,国内での反乱続発,東北地方での女真族との戦いの激化などにより,多額の軍事費を必要とするようになった。このため,財政難は深刻となり,民衆は重税に苦しんだ。しかし官僚は東林派Eと非東林派にわかれて党争にあけくれ,宦官も横暴をきわめ,政治をかえりみなかった。社会の不安は高まり,暴動が各地でおこるようになった。その結果,明は李自成の反乱軍に北京を占領されて滅亡した(1644年)。


@ 明以後は一皇帝一年号としたので,年号で皇帝をよぶようになった。
A  110戸で1里を構成した。財力ある10戸を里長戸,他の 100戸を10甲にわけ,各甲に甲首戸をおいた。里長・甲首は輪番(10年で1巡)で里甲内の徴税や徭役の責任を負い,治安維持などにあたった。また里内の人望ある長老を里老人とし,里内の裁判や教化にあたらせた。
B 唐の府兵制にならった兵制。 112人で百戸所,10百戸所で千戸所,5千戸所で1衛を編成し,府・州・県などに設置した。衛所には屯田がおかれた。
C 遠征は永楽帝時代に6回,宣徳帝時代に1回おこなわれた。
D 元末から朝鮮・中国の沿岸をあらした倭寇は,室町幕府のとりしまりなどによって明初におとろえた(前期倭寇)。その後,16世紀に再燃した倭寇(後期倭寇)は,明のきびしい貿易統制に不満を持つ中国の商人たちが海賊化したもので,多くは中国人であった。
E 1604年,顧憲成らが江蘇省の無錫で再建した東林書院関係者を主とする党派。

●清の統一●
 中国東北地方には,農牧・狩猟の生活をいとなむツングース系の女真(女直,清では満州〈満洲〉@と改称)族がいた。彼らの一部は,12世紀に金朝をたてたが,13世紀以後は,元・明の支配をうけた。しかし16世紀末,建州女直のヌルハチが自立して女真諸部族をしたがえ,1616年に建国して国号をアイシン(満州語で金の意)と定めた(後金)。
 太祖ヌルハチは,八旗Aを編制して軍制をととのえ,独自の満州文字をつくり,統一体制を強化しながら東北地方の支配を進めた。
 2代の太宗ホンタイジは,内モンゴルのチャハルをしたがえると,1636年に国号を清と改めた。また朝鮮を服属させ,明の長城以南にもたびたび侵入し,六部や都察院をはじめとする諸制度をととのえ,満州人の八旗のほか,蒙古・漢軍の八旗をも編制したりして国力の充実につとめた。
 1644年,李自成が明をほろぼすと,3代の世祖順治帝下の清軍は,明からくだった呉三桂の先導で山海関から華北に入り,北京に遷都して中国全土の支配を進めた。その際,活躍した呉三桂ら3人の漢人武将を雲南・広東・福建に配置して藩王としたが,その勢力は強大となり,4代の聖祖康サ帝のときに三藩の乱(1673〜81年)をおこした。これを平定した帝は,明の遺臣の鄭成功B以来,台湾を根拠地として「反清復明」の運動を続ける鄭氏一族をくだし,台湾を中国の領域に加えた(1683年)。中国内地を平定した帝は,当時,黒竜江(アムール川)ぞいに南進していたロシアとたたかい,1689年にネルチンスク条約を結んで両国の国境などを定めたC。また,西北モンゴルのジュンガルが外モンゴルを征したので,帝はこれを親征して外モンゴルを支配し,青海・チベットをもしたがえた。帝は内治にも力をつくし,康サ・雍正・乾隆の3代 130余年にわたる清朝盛時の基礎をきずいた。
 雍正帝は内政に力をそそいで皇帝独裁の体制を確立するとともに,ロシアとは1727年にキャフタ条約を結んで,モンゴル北辺での国境や通商などについてとりきめた。乾隆帝も内治・外征につとめたが,とくに対外的には,西方でジュンガルや回部をしたがえ,支配領域を拡大した。その結果,清は18世紀なかごろに中国内地・東北地方・台湾を直轄領,モンゴル・青海・チベット・新疆を藩部としたほか,朝鮮・ヴェトナム・タイ・ミャンマー(ビルマ)・ネパールに勢力をおよぼした。
 清は中国統治にあたって明の制度を採用しながら,雍正帝が軍機処Dを設置し,乾隆帝が理藩院Eを整備したように,独自の制度をあわせおこなった。軍制では,八旗以外に常備軍として漢人で組織する緑営を各地におき,治安の維持にあたらせた。また,中国統治に漢人の協力を必要としたので,中央要職の定員を満・漢同数とするなどの併用策をとってその任用につとめた。このほか科挙をさかんにおこない,学者を優遇し,学問を奨励した。反面,満州人の風俗であった辮髪を漢人に強制し,文字の獄や禁書によって思想を統制し,白蓮教など民間の宗教結社を邪教としてとりしまるなど,きびしい政策もおこなった。


@ 満州(中国では満洲)は満州語のマンジュを漢音表記したものである。
A 八旗は満州族固有の狩猟・軍事組織を基礎にしてあらたに編制した軍事組織であり,同時に社会・行政組織の基礎をなした。八旗に所属する者は旗人とよばれ,軍事の義務を負い,土地(旗地)を支給された。
B 明の滅亡後,明の遺王が江南で清に抵抗したが(南明という),その遺王のひとりから明朝の朱姓をたまわったので国姓爺とよばれる。
C アルグン川とスタノヴォイ山脈(外興安嶺)をもって両国の国境とした。この条約は,清がヨーロッパの国と結んだ最初の対等の条約である。
D はじめ軍事機密を保持するために設置した臨時機関であったが,のち常置の機関となり,数名の軍機大臣による合議制の皇帝諮問機関として権威を持ち,政治の最高機関となった。
E 藩部関係事務の統轄機関。太宗が内モンゴル平定時に設けた蒙古衙門を起源とする。

●明清の社会●
 明代には江南を中心に大土地所有と佃戸制がいちだんと進んだ。同時に,これまで米穀生産の中心であった長江下流域では,16世紀ころから綿織物や絹織物に代表される家内手工業がさかんになり,その原料となる綿花や,養蚕に必要な桑の栽培などが普及した。このため,明末には,開発の進んだ長江中流域の湖広(現在の湖北・湖南省)地方があらたな穀倉地帯となった@。また,茶の栽培や景徳鎮に代表される陶磁器の生産もさかんにおこなわれたが,こうした生産の増大は商品に対する国内需要の増加や流通の拡大をはじめ,当時,来航しはじめたポルトガルやスペインの商人たちが,中国の絹・茶・陶磁器などを大量に買いつけるようになったことなどから,おこったものである。
 商業・手工業などの発達は,山西商人や新安商人Aなどの全国的な活動をさかんにし,主要な都市では,同郷者や同業者があつまって,相互の連絡や共栄をはかる互助組織の拠点をなす会館や公所がたてられた。貨幣の流通も活発となり,明初の紙幣や銅銭にかわって銀が主要な貨幣として流通するようになったB。ことに日本銀の流入が増加し,ヨーロッパの商人が,中国の産物を買いつけるためにメキシコ銀などを大量に持ちこんだ16世紀以降,ますますさかんになった。銀の流通は税を銀で代納する傾向をうみ,16世紀なかごろからは,これまでの両税法にかわって一条鞭法がおこなわれるようになった。地税や人丁(成年男子)の徭役(力役)などをまとめて銀でおさめるこの税法は,江南ではじまり,全国に普及した。
 商業経済の発達とともに,商人で地主となるものも増え,江南では地主で都市に居住するものが多くなった。また郷紳Cの政治的・社会的地位も増大した。こうしたなかで一般農民の生活は苦しく暴動があいついだD。広東・福建方面の農民のなかには,禁をおかして東南アジアなどに移住するものも多く,のちの南洋華僑のもとになった。
 清では,国内商業や外国貿易がますますさかんになり,銀の流入はさらに増加した。ヨーロッパ人との貿易は,乾隆帝が1757年に交易港を広州1港に限定し,翌年実施したのちも,公行という特許商人の組合が交易を独占して活発におこなった。当時,中国貿易を独占する勢いを示していたのは,茶の貿易を中心とするイギリス東インド会社であった。また税制は,はじめ明の一条鞭法をうけついだが18世紀初めに,丁銀(丁税)を地銀(地税)にふくめた地丁銀制がはじまり,全国に広がった。このため,古来の人頭税(人丁ごとの税や役)はなくなり,税制はさらに簡略になった。


@ 宋代以来「蘇湖(蘇州と湖州)熟すれば天下たる」などといわれていたが,明末になると「湖広熟すれば天下たる」といわれるようになった。
A 山西省出身の山西商人ははじめ政商として,のち金融業を中心に活躍した。また安徽省徽州(古名は新安)出身の新安商人は塩商資本をもとにして活躍した。
B 銀は銀塊で使用され,鋳造貨幣ではなかった。
C 在郷の科挙合格者や官僚経験者などの総称。地方の実力者として大きな役割をはたした。
D 佃租(小作料)をめぐる,佃戸の地主に対する抗争(抗租運動)が,明末のころから激しくなった。

●明清の文化●
 明では,実用と実践を第一とする文化が発達した。儒学では,朱子学が官学となり,永楽帝が『永楽大典』@『四書大全』『五経大全』などの編纂事業をおこない,思想の固定化が進んだ。しかし,16世紀初めには,宋の陸九淵の学を発展させた王陽明(王守仁)が,知行合一を説いて陽明学をおこし,実践と実用を重んずる気風が高まったA。知識人たちのなかには実用を第一とする実学もさかんとなり,『本草綱目』(李時珍著),『農政全書』(徐光啓編),『天工開物』(宋応星著),『崇禎暦書』(徐光啓ら編)などがつくられた。こうした動きのなかで,明末清初には,黄宗ケ・顧炎武らが文献をあつかうのに実証を重視する考証学をおこした。庶民文化もさかんで,小説では『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅』,戯曲では『牡丹亭還魂記』などがつくられた。絵画では董其昌が大成した文人画系の南宗画(南画)や,仇英らの院体画系の北宗画(北画)が栄えた。工芸面では,染付・赤絵などのすぐれた陶磁器が主として景徳鎮でつくられた。
 清は,学芸を奨励し,漢人の学者たちを優遇して多くの編纂事業に参加させ,『康サ字典』『古今図書集成』B『四庫全書』Cなどをつくらせた。考証学は多くの学問分野でさかんになり,乾隆時代の銭大ェなどすぐれた学者をうんだ。乾隆後半からは公羊学もおこり,清末に変法を推進した公羊学派のさきがけをなした。
 庶民文化は清でも栄え,小説では『紅楼夢』『儒林外史』『聊斎志異』,戯曲では『長生殿伝奇』『桃花扇伝奇』などをうんだ。絵画では南宗画がおこなわれた。また,ヨーロッパ風の明暗法や遠近法もとり入れられた。


@ 永楽帝が編纂させた一種の百科辞典。2万2877巻。現存するのはその一部である。
A 明末には李贄(李卓吾)がでて儒学の礼教主義を偽善として批判したりした。
B 事項別の百科辞典で1万巻からなる。
C 全国から古今の図書を集めて編集した大叢書。7万9000余巻の図書を経(古典),史(歴史),子(諸子),集(文集)の4部に分類して編集した。

●宣教師の活動と文化の交流●
 16世紀のポルトガルの来航後,キリスト教宣教師も来航した。まず日本で布教活動をしたイエズス会宣教師のザビエルが中国布教をめざし,広州港外に到着したが病死した。その後,マテオ=リッチ(利瑪竇)をはじめ多くのイエズス会宣教師が来航し,17世紀初めから北京を中心に布教をはじめた。マテオ=リッチは士大夫層をつうじて明の宮廷に接近し,ヨーロッパの天文・暦法・地理・数学・砲術などを紹介して信用され,布教活動を認められた。彼は,徐光啓の協力をえてエウクレイデスの幾何学を漢訳(『幾何原本』)したほか,世界地図の『坤輿万国全図』@を作成したりした。
 イエズス会宣教師は,清朝でも活躍した。暦の改訂につくしたアダム=シャールA(湯若望)やフェルビーストB(南懐仁),中国全図の『皇輿全覧図』作成に協力したブーヴェ(白進),ヨーロッパの画法を紹介したり,円明園の設計に加わったカスティリオーネ(郎世寧)などはその例である。
 イエズス会宣教師は布教にあたって,信者に孔子の崇拝や祖先の祭祀などを認め,みずから中国のことばを用い,中国の服装を身につけたりして成果をあげた。しかしその布教方法に反対する他派の宣教師が,これをローマ教皇に訴えたことから典礼問題がおこった。教皇はイエズス会宣教師の布教方法を否定したが,康サ帝は,これに反発してイエズス会宣教師以外の布教を禁じ,雍正帝は1724年にキリスト教の布教を全面的に禁止した。
 キリスト教の布教をめざして来航した宣教師たちは,ヨーロッパ文化を中国に紹介するとともに,中国の文化をヨーロッパに紹介する役割もはたした。その結果,中国の科挙制や宋学の理論をはじめ,造園術や建造物の装飾などが紹介され,ヨーロッパ諸国の制度や文物に影響をあたえた。


@ この地図は,中国の人々にはじめて世界の大きさを知らせ,日本などにも伝えられて,その世界像を一変させるいとぐちとなった。
A 明末に徐光啓らと『崇禎暦書』を作成したり,大砲鋳造にあたった。清では,天文台の長官となった。
B 清初に来航し,アダム=シャールをたすけて暦法改訂や大砲鋳造に活躍した。天文台副長官となった。
2 中国の隣接地域の変遷

●台湾●
 台湾は,長いあいだ中国文化圏の外にあって,中国との関係はうすく,1624年からはオランダ人が貿易の拠点をきずいていた。しかし1661年,明の遺臣鄭成功がオランダ人を駆逐し,台湾を根拠地として清に抵抗した。このため清は,1683年に鄭氏一族をくだし,台湾を清の直轄領とした。福建・広東方面から多くの中国人が台湾に移住するようになったのは,これ以後のことである。

●モンゴル・トルキスタン・チベット●
 明初,モンゴル高原に後退した元朝の一族は,北元として残ったが,まもなくほろんだ。15世紀なかごろには,西北モンゴルのオイラートがエセンのもとで強力となり,中国に侵入して明の英宗正統帝を土木堡でとらえ(土木の変,1449年),首都北京にせまったが,まもなくおとろえた。16世紀になると,内モンゴルでアルタン=ハンのひきいる韃靼が強力になり,北京をおびやかした。彼は,まもなく明と和し,西進して青海・チベット・中央アジアに進出した。このアルタン=ハンが黄帽派のチベット仏教をとり入れてから,モンゴル人のあいだでチベット仏教が広く普及した。
 清がおこると,内モンゴルの韃靼はこれにしたがった。しかし,オイラート系のジュンガルが強力となり,青海・チベットを支配して外モンゴルに侵入した。このため康サ帝が親征し,以後,乾隆帝の時代にかけてたびたびジュンガルを討ち,1757年,清の領域に加え新疆とよぶようになった。
 チベットでは,14世紀末から15世紀初めにツォンカパがチベット仏教を改革して戒律のきびしい黄帽派(黄教)@をひらいた。以後,この派の教主がチベットを実質的に支配するようになり,16世紀後半にアルタン=ハンがダライ=ラマAの称号をおくってから,その名でよばれるようになった。清は,18世紀にチベットをしたがえ,ダライ=ラマをはじめとする多くの活仏Bを利用してモンゴル人やチベット人を支配した。


@ 旧来の諸教派を一括して紅帽派(紅教)という。着用した僧帽の色による呼称である。
A ラマは師を意味し,ダライはモンゴル語で海の意。チベットの宗教・政治上の最高権威者とされる。これにつぐのがパンチェン=ラマであり,パンチェンは大学僧の意。
B 高僧の生まれかわり(転生ラマ)をいう。黄帽派の妻帯禁止によってうまれた継承法である。

●朝鮮●
 明が成立したころ,朝鮮沿岸では倭寇の出没が激しく,高麗はその対策に苦しんでいた。そのころ,倭寇を破って名声を高めた李成桂(李朝の太祖)は,1392年に高麗を倒して李氏朝鮮をたて,漢陽(現在のソウル)に都を定めた。
 李氏朝鮮は明との友好をはかり,その制度をとり入れて官僚制国家の体制をととのえ,高麗の仏教にかわって朱子学を公認の教えとした。平和の回復によって文化は栄え,銅活字による印刷が普及して多くの書物が印刷された。また15世紀なかごろには,固有の朝鮮文字である訓民正音(ハングル)がつくられ,文化の普及と発展に役立った。
 李氏朝鮮の政治を動かしたのは,両班という特権身分の文班と武班の官僚であった。彼らは王位継承争いに加わり,儒学の学派争いとも結びついて党争をくり返した。そのうえ,16世紀末には,豊臣秀吉の侵略があり(壬辰・丁酉の倭乱),国土の大部分をあらされた。この危機は,明の援軍や李舜臣がひきいた水軍,民衆の義兵などの活躍できりぬけられた。しかし,党争はその後もやまず,17世紀前半には,清の攻撃をうけて服属した。

●琉球●
 明初の琉球(現在の沖縄)では,三つの勢力がそれぞれ明に朝貢していた。15世紀の初め,中山王が統一を実現して琉球国の代表となり,明に朝貢して中国文化をとり入れた。17世紀初め,薩摩の島津氏に服属したが,中国への朝貢は続いた。

●東南アジア諸国●
 ヴェトナムで陳朝がほろびると,明の永楽帝は,陳朝復興を口実に出兵しヴェトナムを支配した。しかし,明軍を撃退した黎利が1428年に独立して黎朝をたてた。黎朝は王権の強化につとめ,中国文化をとり入れて朱子学をさかんにし,南のチャンパーを征服したりした。しかし,16世紀以後は,政治勢力が南北に分裂して,18世紀後半,西山朝をひらいた西山党の阮氏にほろぼされた。
 ミャンマーでは最初の統一王朝パガン朝が,13世紀に元の侵入をうけてほろんだ。その後は分裂状態が続いたが,16世紀にトゥングー朝によってふたたび統一された。
 タイでは,モンゴル人の雲南侵入で南下したタイ人が,13世紀にスコータイ朝をたてて仏教をとり入れ,タイ文字をつくったりしたが,14世紀に同じタイ人のアユタヤ朝にほろぼされた。アユタヤ朝はヨーロッパ諸国とも交易をおこない17世紀にもっとも栄えたが,18世紀にはおとろえ,ミャンマーのコンバウン(アラウンパヤー)朝にほろぼされた。コンバウン朝は,その後,東北にも勢力をのばし,清と接するようになった。タイ人は,ミャンマーが清と争っているのに乗じてミャンマー人をタイからしりぞけ,現在にいたるバンコク(チャクリ)朝をたてて,清とも交流した。
 ラオスでは,14世紀なかばにラオ人のランサン王国が成立し,16世紀に仏教文化が栄えた。王国は周辺諸国との争いに苦しみ,18世紀には分裂をまねいた。
 諸島部では,10世紀に最盛期をむかえたシュリーヴィジャヤは14世紀にはおとろえた。これにかわったのは,13世紀末に建国したマジャパヒト王国で,東ジャワを中心に最後のヒンドゥー王国として栄えた。しかし,16世紀末にはイスラム教国のマタラム王国がこの地方を支配した。

●日本●
 元寇後の日本では,鎌倉幕府が倒れて南北朝の対立期となった。同じころ,海外貿易をめざす倭寇の活動も活発になった。倭寇は,15世紀初め,室町幕府の足利義満が,明から日本国王に封じられ,明との勘合貿易をはじめてから下火となった。しかし,16世紀には,戦国の気風を反映して日本人の海外進出がさかんになり,同世紀末には,豊臣秀吉の朝鮮侵略となった。また朱印船貿易は徳川家康によって17世紀初め最盛期をむかえた。日本人の活動は東南アジアの諸国におよび,各地に日本町ができた。ヨーロッパ人の日本往来もはじまったが,江戸幕府が幕藩体制を維持するためキリスト教の禁止や貿易の統制などをおこない,17世紀前半にいわゆる鎖国体制をかためてからは,対馬を通じて朝鮮と交易したほかは,長崎で,中国・オランダと交易するにとどまった。
3 トルコ世界とイラン世界

●ティムール朝●
 14世紀のなかばころ,中央アジアのチャガタイ=ハン国は東西に分裂し,各地に豪族が分立する状態となった。そのうち西チャガタイ=ハン国出身のティムールは,1370年にティムール朝をひらき,東西トルキスタンを統一したあと,西進してイル=ハン国滅亡後の領土をあわせた。彼はその間,キプチャク=ハン国や北インドに侵入し,のち小アジアに攻めいってアンカラ(アンゴラ)の戦い(1402年)でオスマン帝国の軍隊を破り,さらに明を討とうとして遠征に出発したが,その途中病死した。ティムールの死後,ティムール朝の広大な領域は東西に分裂し,ともにトルコ系ウズベク族にほろぼされた。
 ティムールがイラン人の世界とトルコ人の世界とを統一したことにより,イル=ハン国で成熟をとげたイラン=イスラム文明が中央アジアに伝えられ,トルコ=イスラム文明として発展した。首都サマルカンドには壮大なモスクが建設され,14〜15世紀には中央アジアの商業・学芸の中心として繁栄した。ティムールや彼の子孫の宮廷で,イラン文学や細密画の傑作が多くつくられたほか,すぐれたトルコ語の文学作品もあらわれ,天文学や暦法もおおいに発達した。

●オスマン帝国の発展●
 13世紀末,小アジア西北部に建国されたトルコ人のオスマン帝国は,まず小アジアのビザンツ帝国領をうばい,やがてバルカン半島に進出してアドリアノープル(現在のエディルネ)を首都とした(1366年)。1396年,バヤジット1世はニコポリスの戦いでバルカン諸国とフランス・ドイツの連合軍を撃破した。その後,彼は小アジアに進出したティムールと衝突してアンカラで大敗したが,国力を回復したメフメト2世は1453年,コンスタンティノープルをおとしいれてビザンツ帝国をほろぼした@。
 ついでセリム1世は新興のサファヴィー朝を破ったあとシリアへ進出し,1517年にはマムルーク朝をほろぼしてエジプトをあわせた。その結果,それまでマムルーク朝のものであった両聖都(メッカとメディナ)の保護権を得,以後オスマン帝国のスルタンは,カリフ政治の後継者としてスンナ派イスラム教の信仰の擁護につとめた。
 オスマン帝国は,スレイマン1世のもとで最盛期をむかえた。彼はサファヴィー朝から南イラクをうばい,北アフリカにも支配を広げたばかりでなく,ハンガリーを征服し,1529年にはウィーンを包囲してヨーロッパ諸国に大きな脅威をあたえた。さらに1538年にはプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィアの連合艦隊を破って,地中海の制海権を手中にした。また彼はオーストリアに対抗するためにフランスと同盟し,フランス商人に領内での居住と通商の自由を認めたA。その後レパントの海戦で敗れたものの,オスマン艦隊はいぜんとして地中海を自由に航行し,17世紀の末まで,オスマン帝国とヨーロッパ諸国との力関係に大きな変化はなかった。
 オスマン帝国のスルタンは強大な権力を持つ絶対専制君主であったが,イスラム法にもとづく政治をおこない,州・県・郡にわかれる整然とした行政機構をととのえた。一方,帝国内に住むキリスト教徒やユダヤ教徒の共同体(ミッレト)には大幅な自治を認め,イスラム教徒との共存がはかられた。
 スルタンの軍隊はティマールBを保持する騎士軍団とイェニチェリ軍団とからなっていた。とくに後者は,バルカン半島の征服後,キリスト教徒の子弟を強制的に徴集した歩兵軍団であり,スルタンの常備軍として,ヨーロッパやアジア各地の征服に活躍した。


@ このときコンスタンティノープルに首都が定められ,以後イスタンブルの呼称が一般化した。
A これをカピチュレーションといい,のちイギリス・オランダなどにも認めた。18世紀以降,オスマン帝国が衰退期をむかえると,ヨーロッパ諸国はこれを中東侵略の有力な手段に用いた。
B ティマールとは,スルタンから授与された土地からの徴税権を意味する。このティマール制はイクター制を継承した制度であり,軍事奉仕の代償としてあたえられた。

●サファヴィー朝●
 ティムール朝の衰退後,イランでは神秘主義教団の長が武装した信者をひきいてサファヴィー朝をひらいた。この王朝にははじめはイラン国民国家としての特質はなく,主要な地域を遊牧民の長が支配する遊牧国家であった。サファヴィー朝は建国後,スンナ派のオスマン帝国に対抗するためにシーア派を国教とし,伝統的なシャーの称号を用い,イラン人の民族意識の高揚につとめた。
 サファヴィー朝は,アッバース1世のときに最盛期をむかえた。彼はオスマン帝国からアゼルバイジャンとイラクの一部をとりかえし,ポルトガル人をホルムズ島から追い,さらに新首都イスファハーンを建設して,美しいモスク・学院・庭園でこの首都をかざった。イランがはじめてヨーロッパ諸国と外交・通商関係を結んだのも,アッバース1世の時代であった。その後サファヴィー朝はしだいに混乱して崩壊にむかったが,この王朝のもとで建築・美術・工芸に代表されるイランの芸術は最高度の発達を示し,独特のシーア派神学が完成した。
4 ムガル帝国

●ムガル帝国の建設と発展●
 北インドにイスラム政権が興亡をくりかえしていたころ,南インドではヴィジャヤナガル王国がおよそ3世紀にわたってヒンドゥー文化の伝統をまもり続けた。ティムール朝崩壊後の16世紀初め,ティムールの子孫バーブルはデリー=スルタン朝末期の政治的混乱に乗じてインドに進出し,1526年,デリーに入城してムガル帝国をひらいた。
 この国の実質的な建設者は,その孫アクバルであった。彼はヒンドゥー教徒のラージプート族と和解したあと,領土の拡大につとめ,晩年にはデカン高原と南部地方をのぞくインドと,アフガニスタンの東半をふくむ広大な地域を支配した。
 アクバルはアグラに新首都をいとなみ,全国を州・県・郡にわけて中央から派遣する官吏に統治させたが,彼らに土地をあたえず,俸給を支給して封建領主化をふせいだ。またイスラム・ヒンドゥー両教徒の融和をはかって人頭税(ジズヤ)を廃止し,全国の土地を測量させて面積に応じた地租を課し,官吏に徴税請負などはさせなかった。そのため帝国は彼の治世中に全盛期をむかえた。
 17世紀のなかばに即位したアウラングゼーブは,長い治世の大半を外征についやし,デカンの大部分をも領有して帝国の領土は最大となった。彼は厳格なスンナ派の立場からヒンドゥー教徒への人頭税を復活し,そのためラージプート族の支持を失ったばかりでなく,マラータ族やシク教徒の反乱をまねいた。とくにマラータ族は,この反乱をつうじてデカン高原西部にマラータ王国を建設した。またアウラングゼーブによるあいつぐ外征は財政の悪化をもたらし,そのため官吏には俸給にかえて土地の徴税権をあたえ,徴税請負もはじめられた。
 アウラングゼーブの死後,帝国は急速に崩壊にむかった。デカン・ベンガルなどの地方政権がつぎつぎに自立し,各地のマラータ諸侯を結集したマラータ同盟も首都デリーにせまる勢いを示した。そのころヨーロッパ人は沿岸の海港を拠点として内陸部にも勢力をのばしはじめ,ムガル帝国の領土は縮小するいっぽうであった。

●インド=イスラム文明●
 デリー=スルタン朝は住民にイスラム教を強制することなく,布教は主として神秘主義教団によっておこなわれた。彼らの説くところは,ヒンドゥー教の神秘主義とあいつうじる面があり@,インド人にうけいれられやすかった。またヒンドゥー・イスラム両教をまなんだナーナクは,偶像崇拝とカースト制度を否定するシク教をとなえ,パンジャーブ地方を中心に多くの信者をえた。
 さまざまな民族の集まったデリー=スルタン朝の軍隊では,ヒンディー語を文法的基礎としながら,トルコ語・イラン語・アラビア語の語彙を大幅にとり入れた話しことばが使われた。これが混成言語ウルドゥー語のはじまりで,ムガル帝国の民衆のあいだで広く用いられ,現在,パキスタンの国語となっている。このように,デリー=スルタン朝のもとで外来のイスラム文化と伝統的なヒンドゥー文化との融合がしだいに進み,特色あるインド=イスラム文明が成立し,それがムガル帝国時代にいっそう成熟した。
 シャー=ジャハーン帝がたてたアグラのタージ=マハル(17世紀なかばころ完成)はイラン=イスラム文明の様式に,伝統的なインド建築の手法を加味したもので,ムガル建築を代表する傑作とされている。
 アクバルはヒンドゥー教徒の画家にイラン風の細密画をまなばせ,その後,宮廷の保護のもとにムガル絵画とよばれる細密画が多くつくられた。とくに肖像画・歴史画にすぐれた作品が多い。インドの伝統的画風もムガル絵画の影響をうけ,ラージプート族諸王の宮廷の保護をうけて発達した。これをラージプート絵画という。


@ 7〜8世紀の南インドで発展したバクティ信仰は,神への絶対的帰依を説き,最高神と一体となる道を求める点で,イスラムの神秘主義と共通している。
第12章 市民社会の成長

 18世紀末からの市民革命によって各国の絶対主義は打撃をうけ,ヨーロッパ世界は自由主義時代へ移行する。アメリカ独立革命とフランス革命は,17世紀のイギリス革命にくらべて,より進んだ革命でその影響も大きかった。両革命に共通した点は,国際戦争の試練をへて成立したこと,社会契約説にもとづく独立宣言および人権宣言が近代民主政の普遍的原理となったこと,人民主権の共和政体を樹立したことなどである。しかし,フランス革命はアメリカ独立革命とことなり,絶対王政を打倒するため,中産市民・都市民衆・農民が協力してたたかったこと,革命がナポレオン戦争によって全ヨーロッパに波及したこと,またイギリス産業革命に刺激されて近代化のモデルとなったことなどで,より徹底した市民革命ということができる。
 産業革命は,資本の蓄積・市場・労働力・資源などにめぐまれたイギリスにはじまり,ヨーロッパに広まって資本主義社会を形成した。産業革命には技術革命と社会変革の二つの側面がある。前者は手工業から機械工業への移行であり,生活物資の大量生産が可能になったため,人々の生活の向上をもたらした。反面,社会変革としては機械制工場の普及のため,資本家と労働者の対立が顕著となり,都市に人口が集中して,いわゆる社会問題・労働問題が発生した。その解決のため,19世紀には社会主義の思想や運動がうまれたが,一面,資本主義もその欠陥の是正につとめ,初期の弊害もしだいに克服されていった。
 このように市民革命と産業革命とは,たがいに関連しながら19世紀の欧米社会形成の原動力となった。

1 アメリカ独立革命

●イギリスの植民地政策●
 17世紀のイギリスや18世紀のフランスなどで発展した自由の理念は新大陸にも波及し,北アメリカのイギリス植民地では本国からの独立運動をひきおこした。
 北アメリカ東部に成立したイギリスの13植民地は,信仰の自由を求めて新天地に移住したピューリタンなどの諸派キリスト教徒や,貿易・開拓の利益をめあてに渡来した人々の努力で切りひらかれたものである@。彼らは自主独立の精神に富みA,各植民地は本国の議会政治にならって住民代表からなる植民地議会を設けB,自治的な政治体制を発展させていた。北部では自営農民による農業のほか商工業も発達したが,南部では,おもに黒人奴隷を使用し,タバコ・米などを栽培する大農園(プランテーション)がさかんであった。また植民地人には知的な中産階級の人々が多く,はやくから大学の設立や新聞の発行もおこなわれた。
 本国イギリスは,植民地の自治を認めるいっぽうで,重商主義政策により商工業の発展をおさえようとした。しかし,この政策はおだやかなもので,また植民地は七年戦争(新大陸ではフレンチ=インディアン戦争)のおわるまでは本国の援助が必要なため,まだ紛争はおこらなかった。しかし七年戦争の終結でフランスの脅威はなくなり,一方,新大陸に広大な領土をえたイギリスは,その領土の警備費と戦費をまかなうため重商主義を強化し,砂糖法などをあらたに制定して植民地に課税したので,植民地人の不満は高まった。とくに1765年の印紙法に対しては,ほとんどの住民が反対し,「代表なくして課税なし」Cととなえてこれに抵抗した。この反対運動には本国からも共鳴者がでて,法律は翌年撤回された。しかしほかの方法でいろいろな課税は続けられ,1773年の茶法に対する住民の怒りがボストン茶会事件Dをひきおこすと,反抗運動はますますさかんになった。これに対して本国側は,ボストン港を閉鎖するなど高圧的な態度にでるばかりであった。


@ 1607年ヴァージニア植民地が最初に建設され,ついで1620年,ピューリタンの一団(ピルグリム=ファーザーズ)がメイフラワー号で渡米し,プリマスに定住して,ニューイングランド植民地の基礎をつくった。
A 植民地人は国王の特許状によって,土地所有権・自治権・イギリス臣民としての権利を認められていた。
B 1619年,最初の植民地議会がヴァージニアに設けられた。
C 植民地は本国の議会に代表をおくっていないから,本国政府は植民地に課税する権利を持たないという法理論。
D 本国政府は,東インド会社の経営難を救うため茶法を制定し,アメリカへ免税で茶を輸出する特権を同会社に認めたので,植民地の密輸商人の利益がおかされた。そこで彼らと結ぶ急進分子が,インディアンに変装して東インド会社の船をおそい,積み荷の茶を海に投げすてた事件をいう。

●独立戦争●
 1774年,植民地側は大陸会議をひらいて本国に抗議したが,本国政府と国王は態度をかえず,翌75年,ついにレキシントンで武力衝突がおこった。植民地側はワシントンを総司令官として団結してたたかい@,1776年7月4日,13植民地の代表はフィラデルフィアで独立宣言を発表したA。この宣言はロックの思想的影響と植民地時代の体験をもとに,トマス=ジェファソンらが起草し,人間の自由・平等や社会契約説,圧政に対する反抗の正当性を主張したもので,フランス革命の人権宣言とともに,近代民主政治の基本原理となった。
 独立軍は,はじめ武器・食料の不足などで苦戦したが,ワシントンの指揮下でよく戦いを続け,またフランス・スペインの植民地側への参戦や,北欧諸国を主とする武装中立同盟Bにたすけられて,しだいに優勢となった。独立軍がヨーロッパ諸国の支援をえたのは,これらの国々が植民政策などでイギリスと対立していたうえ,独立宣言が当時さかんになった啓蒙思想に合致していたことなどによるC。こうしてヨークタウンの戦いに敗れたイギリスは,1783年のパリ条約でアメリカ合衆国Dの独立を承認し,ミシシッピ川以東の領地をゆずったE。


@ ただし独立軍を支持した愛国派のほか,独立反対の国王派や中立派も少なくなかった。
A 1776年の初め,トマス=ペインがあらわした『コモン=センス』(『常識』)は,独立の必要と共和政の長所を力説し,独立運動をもりあげた。
B ロシアのエカチェリーナ2世が提唱。中立国船舶の航行の自由と禁制品以外の物資の輸送の自由を主張したもので,イギリスの孤立感を強め,独立軍を勇気づけた。
C フランスの参戦(1778年)は,大陸会議の駐仏大使として活躍したフランクリンの働きに負うところが多い。なお,独立軍に進んで参加したヨーロッパ人のなかには,フランスの自由主義貴族ラ=ファイエットやポーランドの愛国者コシューシコらがいた。
D 独立を宣言した13州は,1777年国名をアメリカ合衆国と定めていた。
E このほか,フランス・スペインもイギリスと条約を結びそれぞれ領土をえた。

●合衆国憲法の制定●
 アメリカ合衆国は独立したものの,まだ13の独立した州のゆるい連合国家にすぎず,中央政府である連合会議@の権力が弱かったため,政治的・経済的困難が続いた。そこで強力な中央政府を樹立しようとする運動が高まり,1787年フィラデルフィアの憲法制定会議で合衆国憲法がつくられた。この憲法は共和政の民主主義(人民主権)を土台とし,各州に大幅な自治を認めながらも,中央政府の権限を従来より強化する連邦主義を採用した。さらに,合衆国の行政権は大統領のひきいる政府がにぎり,立法権は各州2名の代表からなる上院と人口比例によって各州から代表が集まる下院にあり,司法権は最高裁判所が行使し,相互に抑制しあうことによって,権力が一つに集中することをさける三権分立の原則を定めた。しかしこの後も合衆国憲法を支持する連邦派と,これに批判的な反連邦派の対立は残り,これがのちの政党のもととなった。
 1789年,この憲法にもとづく連邦政府が発足し,ワシントンが初代の大統領に就任したA。彼は,もっぱら戦後の復興と建設につとめ,まもなくおこったフランス革命戦争に対し,中立政策をとった。また,あらたに首都としてワシントン特別区が建設された(1800年)B。


@ 独立宣言発布以後,大陸会議は連合規約を制定して合衆国の政治体制を定めた。連合規約の発効(1781年)以後の大陸会議を連合会議という。
A ワシントン政権では,連邦派をひきいるハミルトンが財務長官として財政の基礎をかため,反連邦派の指導者であるジェファソンが国務長官をつとめた。
B アメリカの独立は,大国として最初の共和政を確立したほか,土地相続制の改革,信仰の自由,アパラチア山脈以西への移住解禁による自由農民の発展などをもたらした点で,社会革命でもあった。一方,この独立は白人移民による独立で,黒人奴隷や先住民の権利は無視された。
2 フランス革命とナポレオン

●旧制度の矛盾●

 アメリカの独立に続いて,代表的な絶対主義国であるフランスに,旧制度@を根本からつくりかえる大革命がおこり,世界の歴史に深刻な影響をあたえた。
 フランスでは,18世紀後半になると絶対主義の弊害がしだいに著しくなった。当時のフランス国民は三つの身分にわかれ,第一身分は聖職者,第二身分は貴族,第三身分は平民からなっていた。少数の第一身分と第二身分が多くの土地を所有し,国家の重要な官職を独占し,しかも免税その他の大きな特権を持っていた。これに反し人口の9割をこえる第三身分には参政権がなく,とくにその大部分を占める農民は,領主への貢租や重い国税のため苦しい生活をおくっていたA。第三身分のうち商工業者や自由職業者は,数は農民よりはるかに少なかったが,しだいに富をたくわえ実力を向上させていたので,その実力にふさわしい待遇をうけないことに不満を感じていたB。また当時さかんになった啓蒙主義の思潮は,不合理な社会を打破し自由な生活にあこがれる革新の気風をゆきわたらせた。イギリスにおける立憲政治の確立や,自由・平等の原理をかかげたアメリカ独立革命の成功は,この傾向をいっそう強めた。


@ 革命前のフランスの政治・社会体制は,旧制度(アンシャン=レジーム)とよばれる。
A アベ=シェイエスは1789年初め,『第三身分とは何か』という小冊子をあらわして,第三身分の権利を主張した。
B またイギリスの産業革命によりイギリス商品が流入し、フランス産業の発展がさまたげられていた。そのほか,各身分のなかに貧富や階級の差がうまれ,社会の矛盾がさらに増大していた。

●革命の勃発●
 ルイ14世の晩年以来,フランスの国家財政は苦しくなり,改善の試みも成功せず,たびかさなる戦争の影響もあって,ルイ16世のときになると,財政はまったくゆきづまった。王はやむなく,テュルゴー・ネッケルらの改革派を蔵相に任命して,特権身分に対する課税などの財政改革をこころみたが,特権身分はこれに抵抗してそのくわだてを失敗させた。さらに一部の貴族は,この機会を逆に利用して王権を制限しようとして,1614〜15年以来ひらかれなかった三部会の招集を要求し,第三身分もこれに賛同した。
 1789年5月,第一・第二身分おのおの約 300名,第三身分約 600名の選ばれた議員がヴェルサイユの三部会に招集された。会議は,はじめから議決方法をめぐって対立し,進行しなかった@。6月,第三身分は真に国民を代表するものであることを宣言して国民議会と称し,憲法が制定されるまでは解散しないことを誓った。これを「球戯場(テニスコート)の誓い」という。これには聖職者・貴族のなかからも同調者があらわれ,国王もこれを認めた。国民議会はただちに憲法制定議会と称して憲法の起草にとりかかった。
 ところが国王は,保守的な貴族に動かされ,武力による議会弾圧をはかり,さらにネッケルを罷免した。そこでおりから凶作でパンの値上りに苦しんでいたパリの民衆はこの事態に怒って市民軍を編成し,7月14日暴動をおこして武器入手の目的で圧政の象徴と思われていたバスティーユの牢獄を攻撃・占領した。この知らせが伝わると保守派の貴族は国外に亡命をはじめ,また全国的に農民暴動がおこり,貴族領主の館が襲撃された。そこで8月4日国民議会は,自由主義的な貴族の提案で封建的特権の廃止を決定したA。また同月26日,議会はアメリカ独立宣言にならって,フランス人権宣言を採択した。この宣言は,すべての人間の自由・平等,主権在民,言論の自由,私有財産の不可侵など,近代市民社会の原理を主張したものである。しかし国王はこのような新事態を認めようとせず,なおも議会の弾圧をくわだてたので,パリの民衆はふたたびたちあがり,10月初め,女性たちを先頭にヴェルサイユへおしよせ,国王一族をパリにつれ帰った(ヴェルサイユ行進)。
 国民議会もこれと同時にパリに移り,翌1790年には全国の行政区画を改め,教会財産を没収し,ギルドを廃止して経済の自由を確立し,度量衡の統一をはかるBなど,種々の改革をおこなった。当時,国民議会を指導したミラボーやラ=ファイエットなどは立憲君主主義者で,王政を廃止する考えはなかった。


@ 第一・第二身分は昔のままの身分別の議決,第三身分は1人1票の合同議決を主張した。身分別の議決では特権身分と第三身分との比は2対1となるが,合同では両方がほぼ同数となり,そのうえ,特権身分のなかに第三身分の主張に同調するものがいたので,第三身分が有利と考えられた。
A この決定により,当時まだ残っていた農奴制・領主裁判権など,農民の人身的隷属を示す封建領主権や,教会におさめる十分の一税は無償で廃止された。しかし生産物や貨幣で領主におさめる貢租の廃止は有償とされたので,農民が土地を獲得して自立するためには多額の支払いを必要とし,実際に貢租から解放された農民は少なかった。
B メートル法施行の方針はこのとき決められ,1799年正式に採用された。

●王政の動揺●
 1791年6月,ルイ16世は王妃マリ=アントワネットに動かされ,オーストリアの援助によって革命に対抗しようとして国外逃亡をはかったが,途中でとらえられパリにつれもどされた(ヴァレンヌ逃亡事件)。この事件は国民の王に対する信頼を失わせ,革命の気勢はいっそうあがった@。9月,国民議会は憲法を発布して,一院制の立憲君主制を定め,選挙権を有産市民にかぎった。憲法発布と同時に国民議会は解散し,立法議会が招集された。この議会では,自由主義貴族や上層市民からなり革命の進行をのぞまない立憲君主主義をとるフイヤン派と,中産階級や商工業市民を地盤とする穏和共和主義のジロンド派が対立した。このころ外国軍が国境にせまり,国内でも反革命の動きが活発になると,共和主義者の勢力が増大し,1792年,政権をにぎったジロンド派内閣は,同年4月王にせまってオーストリアに宣戦させたA。しかし王党派の多い軍部は戦意に欠け,オーストリア・プロイセン連合軍は国内に侵入した。
 この危機にあたり,王がふたたび外国と結ぼうとしていると考えたパリの民衆は,立法議会のよびかけで全国から集まった義勇軍とともに,8月10日テュイルリー王宮をおそい,議会は王を幽閉して王権を停止し,フイヤン派も完全に没落した。


@ 1791年8月,神聖ローマ皇帝レオポルト2世(マリ=アントワネットの兄)は,プロイセン王とピルニッツで会見し,ルイ16世の救援を諸国の君主によびかけた(ピルニッツ宣言)。
A 現在のフランス国歌「ラ=マルセイエーズ」は,この宣戦直後に作詞・作曲され,のちマルセイユからきた義勇軍によってうたわれた軍歌に由来する。

●共和政の成立●
 1792年9月,立法議会にかわって男子普通選挙による国民公会が招集されると,議員の大半は共和派が占め,義勇軍のはじめての勝利@に力をえた彼らは,9月21日開会後,ただちに王政の廃止,共和政の樹立を宣言した(第一共和政)。
 こうした情勢のもとに国民公会の内部では,下層市民や農民の支持をうけ,マラー・ロベスピエール・ダントンらに指導される急進共和主義のジャコバン派が台頭しA,これ以上の革命の激化を防ごうとするジロンド派と対立した。ジャコバン派の主張で国民公会が国王の裁判をおこない,議決により,1793年1月,ルイ16世はついに断頭台で処刑された。他方,フランス軍は攻勢に転じてベルギー地方を占領した。これらのことは諸国の君主に深い衝撃をあたえ,イギリス首相ピットは列国と結んで,フランス包囲の大同盟(第1回対仏大同盟)をつくった。このためフランスは全ヨーロッパを敵にまわして戦わねばならず,国内でも王党派の指揮する農民反乱が広がるという内外の危機のなかで,ジャコバン派による革命裁判所(3月)や公安委員会の設置(4月),さらに経済統制に反対するジロンド派と,ジャコバン派の対立はますます激しくなった。


@ 1792年9月20日,義勇軍は国境に近い小村ヴァルミーでプロイセン軍に対し,最初の勝利をおさめた。
A ジャコバン派は,はじめ広い範囲の革命派をさし,1791年夏までは立憲君主政派,92年夏まではジロンド派が主導権をにぎっていた。国民公会になると,演壇からみて最左翼の高い議席を占めた派を山岳派と称し,これがジャコバン派の主流になった。

●ジャコバン派の独裁●
 1793年6月初め,ジャコバン派はジロンド派を議場から追放して国民公会の指導権をにぎった。ジャコバン政権は男子普通選挙を定めた1793年憲法を制定し,封建的貢租の無償廃止を最終的に確定し@,最高価格令などの強力な物価統制によって,農民や都市民衆の支持をとりつけた。また徴兵制の実施や革命暦Aの制定,理性崇拝の宗教をつくるなど,急進的な施策をつぎつぎに強行した。しかし憲法は施行されず,執行機関の公安委員会と警察機関の保安委員会が強力な権限をにぎった。とくに10月以後,ジャコバン政権はマリ=アントワネットはじめ多くのジロンド派の人々や反革命容疑者を処刑し,いわゆる恐怖政治をおこなった。しかし,外敵を撃退して対外危機が遠のいたにもかかわらず,恐怖政治が続いたので人心に不安をあたえ,経済統制の成果もあがらず,小土地所有農民や,経済的自由を求める商工業市民が保守化したことなどから,ジャコバン派独裁への不満がしだいに高まった。そのうえ,ジャコバン派の指導者内部に対立が生じ,ロベスピエールは過激派のエベールや,穏健派のダントンらを粛清して独裁を強化したが,まもなくパリ民衆の支持を失って孤立し,1794年7月27日(革命暦テルミドール9日),ついに政敵にとらえられて断頭台で処刑された(テルミドールのクーデタ)。ここにジャコバン派は勢力を失い,恐怖政治はおわった。


@ また国外への亡命貴族や聖職者から没収した土地(国有財産)が競売に付された。
A 反キリスト教の立場からグレゴリ暦を否定したもので,共和暦ともよばれる。1カ月を30日とし,それを3旬にわけて各10日目を休日,1年の残りの5日を祭典日とするもので,1792年9月22日(共和政樹立の日)にはじまり,1805年末まで続いた。

●総裁政府●
 ジャコバン派の没落後,穏和共和主義者が有力となり,1795年10月,国民公会は制限選挙制を復活させた新憲法を発布して解散し,ここに上下2院の立法府と5人の総裁からなる行政府が樹立された。これを総裁政府という。しかし亡命貴族・王党派の策動がさかんになる一方,民衆の生活は苦しく,社会不安が続いた。翌96年5月,バブーフを指導者とする一派が,私有財産の廃止をとなえて政府転覆を計画したが未遂におわり,ジャコバン派の残党とともに処刑された。
 長期にわたる混乱のなかで,有産市民や土地をえた農民も,いまでは政治の理念よりも社会の安定をねがうようになった。当時この混乱をおさめて社会秩序を回復させる実力は軍隊にしかなかったので,軍隊指揮者に対する国民の期待が高まった。このような待望のなかから,ナポレオンが登場したのである。

●ナポレオンとその帝国●
 ナポレオン=ボナパルトはコルシカ島にうまれ,フランス本土にわたり士官となって革命軍に加わり,また王党派の反乱を鎮圧して,総裁政府の信任をえた。彼はさらに1796年,イタリア派遣軍司令官としてオーストリア軍をおおいに破り,軍隊と国民のあいだに名声を高めた。さらにナポレオンは,1798年敵国イギリスとインドとの連絡を断つ目的でエジプト(オスマン帝国領)に遠征した@。これに対して,99年にイギリスが,ロシア・オーストリアと第2回対仏大同盟をつくりフランス国境をおびやかすと,総裁政府に対する国民の信頼は失われた。ナポレオンはこの形勢をみて急ぎ帰国し,11月9日(革命暦ブリュメール18日),クーデタで総裁政府を倒し,3人の統領と四院制の立法府からなる統領政府をたて,みずから第一統領に就任して,事実上の独裁権をにぎった。
 1800年,ナポレオンはふたたびオーストリアを破り,また翌年には革命以来フランスと対立関係にあった教皇との和解に成功した。ついで1802年にはイギリスとも講和して(アミアンの和約),国家の安全を確保した。また内政にも力をそそぎA,憲法を改正して終身統領となったうえ,私有財産の不可侵や法の前の平等,契約の自由など,革命の成果を定着させる民法典(「ナポレオン法典」)を制定し,1804年3月これを公布した。こうして同年5月,彼は皇帝の位につき,ナポレオン1世と称して国民の圧倒的支持をうけた(第一帝政)。フランスの強大化をおそれたイギリスの首相ピットは,翌05年ふたたびロシア・オーストリアとくんで第3回対仏大同盟を結成した。
 1805年10月,フランス海軍はトラファルガーの海戦で,ネルソンのひきいるイギリス海軍に敗れ,ナポレオンのイギリス侵入計画は失敗した。しかし陸上では,アウステルリッツの三帝会戦でオーストリア・ロシアの連合軍を破り,さらに1806年,西南ドイツの諸国をあわせてライン同盟を結成し,ナポレオンがその保護者となったので,神聖ローマ帝国は名実ともにほろんだ。この間ナポレオンは,兄ジョゼフをナポリ王,弟ルイをオランダ王とし,またプロイセン・ロシアの連合軍を破って屈辱的なティルジット条約(1807年)Bを結ばせ,教皇領を占領し,大陸をほとんどその支配下においた。
 この遠征中の1806年に,彼はベルリンで大陸封鎖令を発し,諸国にイギリスとの通商を禁じてこれに経済的打撃をあたえ,フランス産業のためにヨーロッパ市場を独占しようとはかったC。その後数年間はナポレオンの軍事的優勢が続き,スペインの混乱に乗じて兄ジョゼフを同国王とし,またオーストリアを破り,ハプスブルク家の皇女と結婚して家門の尊厳をはかるなど(1810年),彼の勢力は絶頂に達した。


@ ロゼッタ=ストーンが発見されたのはこのとき(1799年)である。
A 中央銀行としてフランス銀行を設立して財政の安定をはかり,また商工業を振興し,公教育制度を確立した。
B この条約で,プロイセンは大幅に領土を失い,莫大な賠償金を課せられた。またナポレオンは,ポーランド地方にワルシャワ大公国をたてた。
C しかし,アジアや新大陸に広い海外市場を持ち,産業革命が進行しているイギリスに対しては,この封鎖政策はあまり効果をあげず,かえって大陸諸国を苦しめることとなった。

●ナポレオンの没落●
 しかしナポレオンの大陸支配は永続しなかった。彼は封建的圧政からの自由をかかげてヨーロッパを征服したが,彼のまいた自由の種子は被征服地に民族意識を発芽させ,まずスペインが反乱をおこした。プロイセンではシュタイン・ハルデンベルクらが農民解放などの改革をおこなって国制の近代化をはかり,国民軍を育成し,フィヒテらの精神運動はドイツ国民意識を高めた@。またロシアは大陸封鎖令に違反してイギリスに穀物を輸出し,フランスに反抗した。
 そこで1812年,ナポレオンは大軍をひきいてロシアに遠征し,かろうじてモスクワを占領したが,ロシアの焦土作戦によりついに退却をよぎなくされ,大敗した。これをみた諸国は1813年またも対仏大同盟を結成して解放戦争をおこし,ロシア・プロイセン・オーストリアの連合軍はライプチヒの戦い(諸国民戦争)でナポレオンを破り,翌14年にはパリを占領した。彼は帝位を追われてエルバ島に流され,ルイ16世の弟ルイ18世が王位について,ブルボン朝が復活した。諸国は戦後の秩序再建のためウィーン会議をひらいたが,領土配分をめぐって議事が難航しているあいだに,ナポレオンは15年2月,エルバ島を脱してパリにもどり,ふたたび帝位についた。しかし6月ワーテルローの戦いでウェリントンのひきいるイギリス・プロイセンの連合軍に大敗して最終的に退位しA,南大西洋の孤島セントヘレナに流され,亡命中のルイ18世が帰国し復位した。


@ プロイセン改革は,このほか,都市の自治,営業の自由,教育改革,軍制改革などをふくみ,うえからの近代化を進めたもので,英・仏にくらべると不十分ではあったが,のちにプロイセンがドイツ統一の中心となる基礎がおかれた。また哲学者フィヒテが,ナポレオン軍占領下のベルリンでおこなった講演「ドイツ国民に告ぐ」は有名である。
A ナポレオンのパリ入城から退位までを「ナポレオンの百日天下」という。
3 産業革命

●イギリス産業革命の原因●
 フランス革命より以前に,イギリスで工業生産の様式を大きくかえる産業革命がおこり,資本主義が本格的に成立することとなった。イギリスは近代初頭以来,工業の発展でヨーロッパの先頭にたち,また17世紀にオランダ,18世紀にはフランスを破って世界の海上権をにぎり,広大な海外市場を獲得した。この間に,旧来のギルド制にしばられない問屋制や工場制手工業(マニュファクチュア)が発達して,大量の資本がたくわえられ,資本家は有利な企業を求めていた。他方,農業でも大量生産をめざす営利主義が発達して,大地主が中小農民の土地や村の共同地をあわせ(農地囲い込み〈第2次囲い込み〉)@,資本家がこれを賃借して,耕作技術を改良しつつ大規模農場をいとなんだ(農業革命)。このため多くの農民が土地を失い,彼らは農業労働者として資本家に使われ,また都市に流入して豊富な労働力を提供した。
 このようにイギリスは多くの資本と労働力を保有したうえ,石炭・鉄などの資源にめぐまれており,また17世紀以来,自然科学と技術の進歩もめざましかった。そこであたらしい生産技術が発明されれば,これをすぐ実地に応用して工業生産の拡大に役立てることができた。これらさまざまの事情が結びついて,18世紀後半,イギリスに産業革命がおこったのである。


@ 第1次囲い込み(エンクロージャー)は15世紀末〜17世紀なかばにおこなわれたが,これは当時発展していた毛織物工業のための牧羊を目的とし,非合法的に進められたもので,その規模はまだ小さかった。18世紀の第2次囲い込みは,都市人口の増加に応ずる農業生産の向上を目的とし,議会の承認をえて大規模におこなわれた。

●機械の発明●
 拡大する市場にむけての大量生産を可能にする技術革新は,まず木綿工業の分野で,マンチェスターを中心にはじまった。従来イギリスのおもな工業は毛織物業であったが,18世紀に東インド会社がインド産の綿織物を輸入するようになると,毛織物にかわって綿織物の需要が高まり,とくに奴隷貿易によってカリブ海諸島から輸入した綿花や,中近東産などの綿花を原料とする木綿工業がイギリス国内に発達した@。
 まず1733年,ジョン=ケイによって飛び杼が発明されると,綿織物の生産量が急速に増え,その刺激をうけてハーグリーヴズの多軸紡績機(ジェニー紡績機,1764年ころ),アークライトの水力紡績機(1769年),クロンプトンのミュール紡績機(1779年)などがつぎつぎに発明され,良質の綿糸が大量に生産されるようになった。そこでふたたび織物機械の改良がうながされ,1785年カートライトが力織機を発明した。また18世紀初めニューコメンが蒸気力によるポンプを発明していたが,1769年ワットがこれを改良し,やがて優秀な蒸気機関をつくりだすと,これが紡績機や力織機などの動力に利用され,生産の効率をさらに高めた。
 こうして紡績・織布・動力の諸部門における発明は木綿工業を繁栄させ,資本家は多数の労働者を雇用して機械による大工場の経営にのりだした。それにともない,機械を製造する機械工業,機械の原料である鉄を精錬する鉄工業,鉄の溶解Aや蒸気機関の燃料に必要な石炭の採掘など,他の工業部門も飛躍的な発達をとげた。


@ 1793年アメリカのホイットニーが綿繰り機を発明して綿の種子除去を容易にして以来,アメリカ南部の綿花生産が急増し,イギリスのおもな輸入先となった。
A 18世紀前半,ダービー父子は石炭による溶鉱炉処理に成功,製鉄業の発展につくした。

●交通・運輸機関の発達●
 大規模な機械工業が発達すると,大量の原料・製品・鉄鉱石・石炭などをできるだけはやく安く輸送するため,交通機関の改良の必要がうまれた。18世紀後半には国内の輸送路として運河網が形成されたが,19世紀に入ると鉄道がこれにかわった。すなわちスティーヴンソンが1814年に蒸気機関車@をつくり,これが25年に実用化されて以来,公共の陸上輸送機関として鉄道が普及した。また1807年にアメリカ人フルトンが試作した蒸気船は,河川や海上における運輸・交通に新時代をもたらした。
 こうして19世紀には交通・運輸の一大変革(交通革命)がおこり,世界各地を結ぶ産業・貿易・文化の交流発展に貢献した。


@ これより先,トレヴィシックが19世紀初め,蒸気機関車を発明した。

●産業革命の波及●
 産業革命の結果,イギリスは良質で安価な工業製品を大量にヨーロッパ内外の市場で売りさばき,「世界の工場」の地位を獲得した。それは最初ヨーロッパ諸国の産業を圧迫したが,ナポレオン戦争の終了後,イギリスが機械技術の輸出を解禁すると,諸国もぞくぞくと機械による工場生産をとり入れ,また鉄道の建設にのりだした。
 まずベルギーが,1830年の独立後,豊富な鉄・石炭の資源を活用して産業革命を展開した。またフランスも高関税でイギリス商品の流入とたたかいながら,機械制工業生産に着手したが,資本と労働力の不足から軽工業が中心で,資本主義発達の速度はおそかった@。ドイツ・アメリカではこれよりややおくれて産業革命がはじまったが,19世紀後半には,国家の保護のもとに重工業・化学工業が発展し,やがてイギリスを追いこすようになった。ロシアと日本は19世紀末ころから産業革命に突入した。なお,20世紀に入ると,蒸気と石炭にかわって電力と石油が主要な動力源となった。
 イギリスはまたヨーロッパのみならず,世界の市場形成に主導的役割をはたした。とくにイギリスの自由貿易によって,アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどは従属的地位におかれ,やがてこれら諸地域に民族運動がおこる一因となった。


@ フランスは,革命によって小土地所有農民が増えたため,イギリスにくらべると工業労働力が不足し,また資本の蓄積もおくれていた。

●資本主義体制の確立●
 産業革命以前は,資本主義とはいっても,手工業にもとづく生産であり,規模も小さく,農家の家内工業やギルド制手工業が残存していた。ところが産業革命によって大規模な機械制工場が出現し,大量生産によって安い商品を供給するようになると,従来の家内工業や手工業は急速に没落していった。その結果,大工場を経営する資本家(産業資本家)が経済の大勢を左右するようになり,資本主義体制がここに確立した。
 資本主義工業による大量生産は,人間の生活感情や価値観を変化させ,また経済構造の変化による人口の都市集中をもたらし,たとえば,マンチェスター・バーミンガムのような大工業都市や,リヴァプールのような大商業都市が発展した。
 また工場に集中した労働者は団結の機会をえて,労働者階級としての意識にめざめてきた。しかも分業の発展によって,女性や子供も工場や鉱山で働けるようになったが,当時の資本家は利潤の追求のみを考えて労働者の生活をかえりみず,不衛生な生活環境のもとで,低賃金と長時間労働を強制した。そこで労働者と資本家の関係は悪化し,労働問題・社会問題が発生して論議をよぶようになった。
第13章 自由主義と国民主義

 ナポレオン戦争後の19世紀のヨーロッパの歴史は3期にわけられる。第1期は1815年から48年の二月革命までの保守主義と自由主義の抗争の時代,第2期は以後1871年のドイツ統一のころまでの自由主義・国民主義の発展の時代,第3期はそれ以後,帝国主義への移行の時代である。
 第1期においては,フランスを中心に自由主義と保守主義の抗争がおこなわれたが,けっきょく,1848年の諸革命において保守主義の象徴であったメッテルニヒが失脚し,いちおう自由主義の勝利におわった。つぎに第2期になると,フランスでは普通選挙にもとづく議会帝政が,イギリスでは典型的な政党政治が成立し,イタリア・ドイツは懸案の統一を達成し,おくれたロシアでも農奴解放が実現した。またこの時期までに各国で産業革命が進展して,資本主義が栄えた。そして第3期に入ると,金融独占資本が英・米・独・仏などの各国に成立し,余剰資本の投下地を求めて植民地の再分割へと進んだ。
 一方,資本主義の害悪の是正をめざす社会主義思想は,第1期にフランスを中心におこったが,第2期にはドイツのマルクスがあたらしい経済理論にもとづく社会主義をとなえ,第3期には,インターナショナルが形成された。
 また大西洋のかなたでは,南北戦争の試練をへて,自主独立の精神と豊富な資源,国内市場にめぐまれたアメリカ合衆国が大発展をとげ,世紀末には世界一の工業国として,20世紀の繁栄を約束されるにいたった。

1 自由のための戦い

●ウィーン会議●
 ナポレオンによってかき乱されたヨーロッパの戦後処理のため,1814年から翌15年にかけて,オスマン帝国(トルコ)をのぞくヨーロッパ各国の君主や有力政治家が出席して,ウィーン会議がひらかれた。
 会議はオーストリア外相(のち宰相)メッテルニヒの主宰のもとに,フランス外相タレーランがとなえた正統主義@を基本原則にかかげ,革命前の状態への復帰をめざし,ワーテルローの戦いの直前の1815年6月,ウィーン議定書(ウィーン条約)が成立した。フランスはわずかな犠牲をはらっただけで,スペイン・ナポリのブルボン王家やローマ教皇などが以前の領土をえて復位した。しかし,戦勝諸国のあいだでは領土の配分をめぐって利害が対立し,しばしば大国の利益が優先したが,同時に各国の勢力の均衡がはかられた。すなわち,ロシア皇帝がポーランド王をかね,プロイセンは東西に領土を広げ,イギリスは戦時中に占領した旧オランダ領のスリランカ(セイロン島)・ケープ植民地の領有を認められた。立憲王国となったオランダはこれらの植民地を失った代償として旧オーストリア領ネーデルラント(ベルギー)をあわせ,オーストリアはそのかわりに北イタリアをえた。スイスは永世中立国となり,ドイツでは,オーストリア・プロイセン以下35の君主国と4自由市からなるドイツ連邦が組織された。


@ フランス革命前の正統王朝と旧制度の復活をめざす理念をさす。

●ウィーン体制とその動揺●
 ウィーン会議の結果成立したヨーロッパの政治体制は,メッテルニヒの指導のもとで保守反動の空気に支配された。これに対し,フランス革命とナポレオン支配のもとでめざめた自由主義・国民主義の精神は,諸国民のあいだにただちに反抗運動をひきおこした@。この動きは,多民族国家であるオーストリア帝国がとくにおそれたもので,この後,1848年までのヨーロッパの歴史はウィーン体制をまもろうとする保守主義と,これを打破しようとする自由主義・国民主義との戦いの歴史であった。まず1815年,イギリス・トルコ・ローマ教皇をのぞく各国君主の加入した神聖同盟A,およびイギリス・ロシア・プロイセン・オーストリアの四国同盟Bが成立すると,メッテルニヒはこれらを自由主義運動抑圧のために利用した。しかし,自由主義・国民主義の流れにさからうウィーン体制はしだいにくずれはじめる。その動きはまず,新大陸のラテンアメリカ植民地の独立運動としてはじまった。
 ラテンアメリカのスペイン・ポルトガル植民地は,本国の重商主義政策のもとで搾取に苦しんでいたが,合衆国の独立・フランス革命に刺激され,ナポレオンに本国が征服されたのに乗じて独立運動をおこした。まず1804年,フランス領ハイチCが独立して黒人共和国となり,1810年代には反乱が各地に広まった。シモン=ボリバルはベネズエラの独立運動を指導し,大コロンビア・ボリビアなどを独立させた。またサン=マルティンは,アルゼンチン・チリ・ペルーの独立を指導し,メキシコもイダルゴの蜂起にはじまって独立を達成した。これら諸国の独立はクリオーリョDを主体としてスペインからかちえたもので,すべて共和国になった。一方ブラジルは,ポルトガル王子を頂いて独立帝国(1889年以後共和国)となった。メッテルニヒはこれらの独立運動に干渉しようとしたが,合衆国大統領モンローが,1823年のモンロー教書でアメリカ大陸とヨーロッパの相互不干渉をとなえ,イギリス外相カニングもラテンアメリカ市場の開拓をねらって諸国の独立を承認・援助したため,このくわだては失敗におわった。
 ヨーロッパでも,ギリシアが1821年オスマン帝国からの独立戦争をおこすと,イギリス・フランス・ロシアはバルカンに対する利害からこれを支援したので1829年に独立が達成され,30年ロンドン会議で列国の承認をえた。


@ ドイツの学生組合ブルシェンシャフトおよびイタリアの秘密結社カルボナリの反政府運動,スペインの立憲革命,ロシアのデカブリストの乱などがおこったが,いずれも鎮圧された。
A ロシア皇帝アレクサンドル1世が主唱したもので,各国君主はキリスト教の友愛精神にもとづき,平和維持のために連帯すべきことをうたっている。保守主義にもとづくが,平和をめざす国際協力機構のさきがけともみられる。
B 1818年フランスが参加して,五国同盟に拡大された。
C ハイチは15世紀末スペイン領となったが,17世紀末フランス領植民地にかわった。
D ラテンアメリカの住民には,クリオーリョ(植民地生まれの白人)のほか,メスティーソ(先住民と白人との混血),インディオ(先住民),ムラート(白人と黒人との混血),アフリカ生まれの黒人などの階層があった。

●七月革命とその影響●
 フランスではルイ18世が,有権者をごく少数にかぎった新憲法を発布して立憲君主制をしいたが,つぎのシャルル10世は,貴族・聖職者を重んじて議会を圧迫し,革命中に土地を没収された亡命貴族に多額の補償金をだしたりして,ますます反動的な政策をとった。そして反政府派が議会の多数を占めると,国民の不満をそらせるためアルジェリア遠征をおこない,選挙によって成立した議会を,反王権的という理由で未招集のうちに解散するなど圧政をしいた。このため1830年7月,パリに革命がおこって王を追放し,自由主義者として知られるオルレアン家のルイ=フィリップが王としてむかえられた@。この七月革命は各地に広がり,ベルギーはオランダに反抗して独立を宣言し,翌31年立憲制の王国となった。しかし,ポーランド・ドイツ・イタリアにおこった騒乱は鎮圧された。


@ ルイ=フィリップの王政を七月王政といい,その政治は主として銀行家その他大資本家の利益にもとづいておこなわれた。

●イギリスの諸改革●
 イギリスでは,1828年に審査法が廃止され,翌29年にはオコンネルらアイルランド人の努力によってカトリック教徒解放法が成立し,カトリック教徒やその他の非国教徒も公職につけるようになった。
 またイギリスでは産業革命の結果,大きな人口の移動がおこったにもかかわらず,選挙区は昔のままで,種々の不合理があった@。そのため選挙法改正の運動がおこり,ホイッグ党内閣が改正案を議会に提出すると,地主の多い保守的な上院は激しく反対したが,七月革命の影響もあって1832年ついにこの法案が成立した(第1回選挙法改正)。これによって選挙区の公正な再編成がおこなわれ,選挙資格も拡張されて,新興の産業資本家などの市民階級が参政権をえた。しかしこれはまだ普通選挙ではなかったので,急進的な改革を要求する労働者は,男子普通選挙の実施,議員候補者の財産資格廃止など6ヵ条からなる人民憲章をかかげて政治運動をおこした。これをチャーティスト運動という。
 つぎに産業資本家に有利な自由貿易の原則も確立された。すなわち1834年に東インド会社の中国貿易独占権の廃止が実施され,またアヘン戦争によって中国の鎖国政策が破られた。とくに重要な改革は,穀物法Aの廃止である。この法は産業資本家にも労働者にも不利益であったため,コブデン・ブライトらが反穀物法同盟を結成して運動を進め,1846年ついに穀物法は廃止された。また1849年には航海法も廃止されて自由貿易が実現した。


@ たとえば,人口移動の結果,有権者のほとんどいなくなった腐敗選挙区がある一方,新興の大都市は選挙区として認められていなかった。
A 穀物法とはイギリスがナポレオン戦争終結後,外国穀物の輸入再開により,国内の穀物価格が下落するのをおそれ,地主保護のために高率の関税を設けたものである。

●社会主義思想の成立●
 産業革命後の労働者の生活は悲惨であったので@,イギリスの工場主ロバート=オーウェンは労働者の待遇改善,工場法制定をとなえ,労働組合や協同組合の設立に努力し,また共産社会建設をもこころみた。これは失敗におわったが,イギリスでは1833年工場法が制定されて,年少者の労働時間が制限されたのをはじめとして,労働条件はしだいに改善されていった。フランスでもサン=シモン・フーリエらが労働者階級を保護するあたらしい社会秩序を樹立しようとした。これらの社会主義者は生産手段を社会の共有にして資本主義の弊害をのぞき,民主的な社会を建設すべきことを説いたが,その理論には空想的な性質が強かったA。またルイ=ブランは生産の国家統制を主張し,プルードンはいっさいの政治的権威を否定する無政府主義をとなえた。
 これらののちにでたドイツ生まれのマルクスは,資本主義体制の没落は歴史の必然であるとする経済学説を展開し,労働者階級の政権獲得と,国際的団結による社会主義社会の実現を説いて,以後の社会主義運動に大きな影響をあたえた。マルクスの根本思想は,1848年彼が友人エンゲルスとともに発表した『共産党宣言』に要約されている。


@ 悲惨であったのは工場労働者だけでなく,在来の手工業者も機械制工場の発達によって生活をおびやかされた。1810年代の手工業者による機械打ちこわし(ラダイト)運動はそのあらわれである。
A マルクス・エンゲルスは,これらの思想を「空想的社会主義」とよび,これに対してみずからの思想体系を「科学的社会主義」と称してほこった。

●二月革命とナポレオン3世●
 フランスでは七月革命以後,産業革命が本格化し産業資本家の力が増大し,また労働者階級の反政府運動も進んだ。当時フランスでは有権者が総人口の1%に満たない制限選挙だったので,中小資本家や労働者の不満が強く,1848年2月,選挙法改正の要求がしりぞけられたのを機会に,パリで革命がおこった。国王ルイ=フィリップはイギリスに亡命し,共和政による臨時政府が成立した。これを二月革命という(第二共和政)。
 臨時政府は有産市民を代表する穏和な共和主義者と,労働者を代表する社会主義者@からなり,両者の対立が激しかった。ところが農民は社会主義政策によって土地を失うことをおそれたため,4月の男子普通選挙で社会主義者は大敗し,穏和な共和派の政府が成立した。これに対してパリの労働者は六月暴動をおこしたが,鎮圧された。
 1848年12月に大統領選挙がおこなわれ,ナポレオン1世の甥にあたるルイ=ナポレオンが当選した。彼は議会の王党派が反動政策で人気を失いつつあったのに乗じ,1851年クーデタをおこして独裁権をにぎると,翌52年の国民投票で皇帝となり,ナポレオン3世と称した(第二帝政)。


@ 社会主義者・労働者の代表としてルイ=ブランらが臨時政府に加わり,はじめて国立作業場が設けられたが,経営不振で廃止され,これが六月暴動の原因となった。

●二月革命の影響●
 二月革命の影響は,ドイツ連邦・オーストリア帝国にもおよんで,三月革命となった。ウィーンでは1848年3月,暴動がおこりメッテルニヒはイギリスに亡命したためウィーン体制は崩壊した。これにつづいてハンガリー・ベーメン(ボヘミア)・イタリア各地でも民族運動がさかんになったが,オーストリア軍により鎮圧された@。3月ベルリンでも暴動がおこり,プロイセン王は憲法発布にふみきった。またドイツ統一と全国憲法制定のため,ドイツ諸邦の自由主義者からなるフランクフルト国民議会がひらかれたが,この試みは失敗した。
 このほか,イギリスでも1848年チャーティスト運動が最後の高まりをみせた。メッテルニヒの失脚後,「ヨーロッパの憲兵」とよばれたロシアがオーストリアにかわり,反動勢力の中心となったA。


@ ハンガリーの反乱鎮圧には,ロシア軍の援助もあった。
A このように1848年の各地の革命運動はすべて失敗したが,労働者や下層民衆の勢力が台頭し,また国民主義の傾向が強まった。
2 自由主義・国民主義の進展

●イギリスのヴィクトリア時代●
 イギリスでは第1回選挙法改正ののち,トーリー・ホイッグ両党がそれぞれ保守党・自由党とよばれるようになり,産業・貿易の躍進を背景に,両党が交替して政権を担当する議会政治が成立した。また1867年の第2回選挙法改正で,都市労働者の多数が選挙権を獲得し,84年の第3回選挙法改正では農業労働者なども選挙権をえて,男子普通選挙に近づきますます民主政が進んだ。そしてヴィクトリア女王の時代に,自由党のグラッドストンと保守党のディズレーリの2大政治家がでて,重要な改革が政党内閣によってつぎつぎに実現した。なかでも1870年の教育法で国民教育が進み,71年の労働組合法によって組合運動が合法化されたことは重要である。
 一方,イギリス系の移民が支配する一部の植民地は自治権を獲得し,1867年カナダが連邦として自治政府をつくったのにつづいて,オーストラリア(1901年)・ニュージーランド(1907年)・南アフリカ連邦(1910年)も自治領となった。ただ以前からイギリスに圧迫されつづけてきたアイルランド人の不満は根強く,アイルランドの自治をめぐる問題は未解決のまま,20世紀に持ちこされた@。


@ アイルランドは,ケルト系民族の国で,中世以来たびたびイギリスに侵略されたが,人民の大半がカトリック教にとどまり,17世紀後半,クロムウェルに征服されて以来,事実上イギリスの植民地状態におかれていた。1801年正式にイギリスに併合されて,ロンドンの議会に代表をおくるようになり,1829年のカトリック教徒解放法の成立によって宗教上の不満はのぞかれた。しかし,アイルランド人は長いあいだ,イギリスの不在地主に対する小作人の地位にあったので生活は苦しく,さらに自治を要求してイギリスへの根強い反感が続いた。グラッドストンらは,アイルランド土地法を発布したが十分な成果がえられず,自治法案も再度否決された。

●イタリアの統一●
 ウィーン会議後も分裂を続け,オーストリア勢力の支配下にあったイタリアでは,自由主義運動が国家統一への努力と結びついた。二月革命後,マッツィーニの指導する「青年イタリア」は自由な統一国家の理想をかかげ,1849年ローマ共和国を建設したが,フランス軍に倒され,またサルデーニャもイタリア統一をめざしてオーストリアとたたかったが,打ち破られた。まもなくサルデーニャ王位についたヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は自由主義者のカヴールを首相に任じた。カヴールは産業の開発や修道院などへの課税による近代化につとめ,ナポレオン3世と秘密同盟を結んで1859年オーストリアと開戦し,フランス軍の援助でこれを破った。
 このとき,イタリアの統一をおそれるフランスが単独で休戦したため,サルデーニャはロンバルディアをえただけであったが,1860年,サヴォイアとニースをフランスにゆずるかわりに中部イタリアも併合した。さらにこの年,「青年イタリア」のガリバルディがシチリアの反乱に乗じて両シチリア王国を占領し,これをサルデーニャ王に献じたので,1861年3月,オーストリア領ヴェネツィアと教皇領をのぞくイタリア王国が成立し,ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が王位についた。その後,普墺戦争の際,ヴェネツィアを併合し(1866年),さらに普仏戦争のとき,フランスの守備兵が去ったのに乗じて1870年ローマ教皇領も占領した@。以後ローマ教皇はヴァチカンの教皇庁にこもって,イタリア政府と対立しつづけた。


@ トリエステ・南チロルなど国境地帯の小地域はなおオーストリア領にとどまり,イタリア人はこれを「未回収のイタリア」とよんで,その併合を要求しつづけた。

●ドイツの統一●
 ドイツでも連邦体制のもとで政治的分裂が続いていた。しかし,ウィーン会議でライン中流の工業地域をえたプロイセンが中心となって,1834年,オーストリアをのぞく大多数のドイツ諸邦からなるドイツ関税同盟が発足したことにより,市民階級がなによりのぞむ経済的統一がほぼできあがった。三月革命の際,自由主義的機運がもりあがったが,フランクフルト国民議会で,ドイツ統一の方式をめぐって大ドイツ主義と小ドイツ主義@が対立し,論争の結果,小ドイツ派はプロイセン王をドイツ皇帝にしようとはかったが,王が革命派からの帝冠はうけられないと辞退したので失敗におわった。
 その後,自由主義者による革命運動にかわって,統一の主導権は,プロイセンの政府・軍部を支配するユンカー(地主貴族)へと移った。1861年プロイセン王となったヴィルヘルム1世は,首相にユンカー出身のビスマルクを任命した。彼は議会の反対をおしきって軍備を拡張し(鉄血政策),1864年オーストリアと結んでデンマークとたたかい,シュレスヴィヒ・ホルシュタインをうばった。さらに66年この2州の処分に関してオーストリアとたたかってこれを破り(普墺戦争),ドイツ連邦を解体し,翌年プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦をつくりあげた。南ドイツの諸邦もプロイセンと同盟したので,統一は完成に近づいた。一方,ドイツから除外されたオーストリアは,1867年マジャール人のハンガリーに自治権をあたえ,オーストリア=ハンガリー帝国と称するようになったA。
 フランスのナポレオン3世は,プロイセンの強大化をおそれてこれを警戒し,スペイン王位継承問題をきっかけに,1870年7月プロイセンに宣戦した(普仏戦争<独仏戦争>)。プロイセンを中心とするドイツ諸国の連合軍はたちまちフランスに侵入して,9月ナポレオン3世をセダンで降伏させた。このときパリに暴動がおこり,帝政は廃止された。ドイツはさらにパリを包囲したので,翌71年1月末フランス政府は降伏し,アルザス・ロレーヌの両州をドイツにゆずり,莫大な賠償金を課せられた。
 フランスの降伏に先だって1871年1月なかば,ヴィルヘルム1世はヴェルサイユでドイツ皇帝の位につき,ドイツ帝国が成立した。この帝国は連邦制国家で,プロイセン王がドイツ皇帝をかね,立法府は連邦参議院と帝国議会からなっていた。帝国議会では男子普通選挙が採用されたが,議会は政府に対して無力であり,帝国の官職の多くは,プロイセンのユンカーが占めたので,立憲主義はたんなる外見にすぎなかった。ビスマルクは帝国の宰相Bとして約20年間,なかば独裁的な権力をふるった。この時期をビスマルク時代という。
 当時,南ドイツで有力であったカトリック教徒は新教国プロイセンの支配をよろこばず,中央党を組織して政府に反対したので,ビスマルクはこれを抑圧しようとした(文化闘争)。しかし社会主義勢力の進出をおさえるため,結局カトリック勢力と妥協しなければならなくなった。また皇帝狙撃事件をきっかけに社会主義者鎮圧法を制定し(1878年),社会民主党Cを弾圧したが,他方では社会政策Dを実施して労働者を味方にしようとこころみた。また保護関税政策を採用して工業化を進めた。


@ 小ドイツ主義は,プロイセンを中心にオーストリアを排除しておこなうドイツ統一方式をさし,大ドイツ主義は,オーストリアのドイツ人地域をふくむ統一方式を意味した。
A しかし,なお多民族国家であるオーストリア=ハンガリー帝国は,以後の民族紛争の原因をつくった。
B 帝国宰相は皇帝にのみ責任を負い,議会に対しては責任を負わなかった。
C 1875年に結成された社会主義政党。はじめ社会主義労働者党と称したが,90年正式にドイツ社会民主党と改称した。
D ビスマルクの実施した社会政策は,災害保険・疾病保険・養老保険などの社会保険で,諸外国の模範となった。

●ビスマルク時代の国際関係●
 ビスマルクは外交政策でも手腕を発揮し,復讐をねらうフランスを孤立させて,ドイツの国際的地位の安全とヨーロッパの平和をまもった。すなわち1873年,ビスマルクはフランスにそなえてオーストリア・ロシアと三帝同盟を結んだ。またバルカンにおいて,ロシアとイギリス・オーストリアとの関係が悪化すると,1878年ベルリン会議をひらいて列国の利害を調整した。
 ベルリン会議後,ロシアがドイツからはなれると,ビスマルクは1881年新三帝同盟を締結させた。またチュニジアがフランスの保護国になったことに不満を持つイタリアをさそって1882年三国同盟(独・墺・伊)を結んだ。さらにバルカンにおける墺・露の対立が激化して三帝同盟が87年消滅すると,同年ドイツ・ロシア間に再保障条約を結び,フランス包囲をはかった。

●フランス第二帝政と第三共和政●
 ナポレオン3世は,カトリック教会と協力するとともに,農民の支持を基盤に,資本家と労働者・小市民の均衡のうえにたち,軍隊・警察の力で反対派をおさえて専制的な政治をおこなった。彼は国民の人気をつなぐため,クリミア戦争・アロー戦争・イタリア統一戦争・インドシナ出兵などの外征によって勢威を示したが,メキシコ遠征の失敗で信望を失い,普仏戦争に敗れて退位した(1870年9月)。
 ナポレオン3世の退位以後,パリに成立した国民防衛政府は抗戦を続けたが,ついに1871年1月,ドイツ軍に降伏した。その後,共和派のティエールを首班とする臨時政府がヴェルサイユに成立し,2月ドイツと仮講和条約を結んだ。ところが,これを認めない社会主義者は,パリ市民を指導して反抗し,3月には民衆による革命的自治政府を樹立した。これをパリ=コミューン@という。
 この革命政権はわずか2カ月で,ドイツ軍の支援をうけたフランス政府軍に鎮圧され,その後,王党派と共和派の争いが続いたが,共和派の勢力はしだいにのび,1875年共和国憲法Aが制定されて,第三共和政の基礎が確立した。しかし政府はつねに分立した小党の連合政権で,政情は安定しなかった。


@ これは短期間でしかも不完全であったが,労働者や小市民が中心となってつくった世界史上最初の社会主義政権と一般にいわれている。
A この憲法は三権分立にもとづき,両院の合同選挙による任期7年の大統領が名目的元首で,実際には内閣が行政権をにぎった。議会は二院制で下院の力が強く,内閣の権限は弱くて政府はしばしば交替した。

●ロシアの改革●
 ロシアではいぜんとして専制政治と農奴制が強固で,市民階級の成長はおくれていた。1825年12月,ニコライ1世の即位に際して貴族の青年将校がおこしたデカブリスト(十二月党)の乱は,自由主義運動の最初のものであったが,ただちに鎮圧された。その後クリミア戦争に敗れてようやく改革の必要をさとったアレクサンドル2世は,1861年農奴解放令をだし,人口の約3分の1以上を占める農奴に人格的自由と土地の所有を認めた。しかしこの改革は旧地主本位で,農民の自由にはなお多くの制限が加えられていた@。しかもポーランドの反乱鎮圧に手をやいた皇帝は,その後ふたたび反動政策をとって専制政治を強行した。
 当時ロシアでは労働者の社会意識が低く,改革をこころざすものは主として都市の知識人階級(インテリゲンツィア)であった。彼らは農民を啓蒙して社会主義的改革をおこなうことが必要であると考え,「ヴ=ナロード」(人民のなかへ)の標語をかかげて農村に入りこんだので,ナロードニキ(人民主義者)とよばれている。しかし彼らも農民の心をとらえることができず,絶望した人々のあいだには,テロリズム(暴力主義)で政府を倒そうとする過激なニヒリズム(虚無主義)の思想が広がり,皇帝アレクサンドル2世をはじめ,高官らが暗殺された。


@ 農民は分与地をえるために多額の支払いを要求され,また土地は多くの場合まとめて農村共同体(ミール)にひきわたされた。

●ロシア南下政策と東方問題●
 オスマン帝国(トルコ)の支配下にある諸民族は,19世紀の前半以来,自由主義・国民主義の風潮のなかで,トルコの衰退に乗じ,独立運動を進めてきた。しかしまだ単独でそれを達成する力がないため,おのずから中近東に利害関係を持つ列強の干渉をまねくこととなった@。ギリシアの独立がイギリス・フランス・ロシアの援助で実現したのもそのあらわれである。とくにロシアは,農産物などの市場を求め,また不凍港の獲得と勢力の伸張をめざしてしきりに南下をくわだてていた。
 1831年,トルコの支配下にありながら自治を認められていたエジプトが領土を要求してトルコと開戦すると,ロシアはトルコを支持して南下の野心をとげようとしたが,列国の干渉にあい,またイギリスのたくみな外交政策におさえられて失敗した(エジプト事件<エジプト=トルコ戦争>)。さらにナポレオン3世が聖地管理権をトルコに要求して手にいれると,ロシアはトルコ領内のギリシア正教徒保護を口実として同盟を申しこんだがうけいれられず,トルコと開戦した(1853年)。英・仏はトルコと結んでロシアに宣戦,クリミア半島の要塞をめぐる激しい攻防ののちロシアを破り,1856年のパリ条約でダーダネルス・ボスフォラス両海峡と黒海の中立化が約束されたため,ロシアの南下政策はまたもや失敗した。これをクリミア戦争という。
 その後,バルカンでは自由主義の影響で,スラヴ系民族の団結によりトルコからの独立をはかるパン=スラヴ主義がおこったが,ロシアはこれを利用して勢力拡大をはかった。たまたま1875年トルコ支配下のボスニアのギリシア正教徒が反乱をおこし,多数殺害された。列国はこれに抗議したが,77年ロシアは単独でトルコと開戦してこれを破り(露土戦争),翌年のサン=ステファノ条約で,ルーマニア・セルビア・モンテネグロを独立させたほか,ブルガリアの領域を拡大してトルコ領内の自治国とし,ロシアの保護下においた。オーストリア・イギリスはこれに反対し,ビスマルクの調停によって1878年ベルリン会議がひらかれた。その結果,サン=ステファノ条約は破棄され,あたらしく結ばれたベルリン条約で,ブルガリアの領土はせばめられて,ロシアはわずかの土地をえたにとどまり,その野望はまたまたさまたげられたA。以後,ドイツの勢力が強大化する一方,露土戦争の失敗後,ロシアは一時南下政策をひかえ,もっぱら中央アジア・東アジアへの進出につとめるようになった。


@ この干渉によって生じた国際政治上の諸問題を,西ヨーロッパの側から「東方問題」とよぶ。
A ベルリン条約で,ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立が列国からも承認され,オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を得,ドイツ・オーストリアのバルカン進出のきっかけができた。またこの際,イギリスはトルコからキプロスの行政権を獲得した。

●北ヨーロッパ諸国●
 スウェーデンは北方戦争に敗れてバルト海の制海権を失い,北ドイツの領土もプロイセンにうばわれた。しかし19世紀初めには憲法がしかれ,責任内閣制が確立した。ノルウェーはウィーン会議の結果,スウェーデン領となっていたが,独自の憲法を持ち,1905年におこなわれた国民投票の結果,独立した。デンマークは,1864年プロイセン・オーストリアにシュレスヴィヒ・ホルシュタインをうばわれたが,以後,農牧を主とする国づくりにつとめた。
 これら北欧3国はいずれも立憲君主制で議会の力が強く,政治・経済が安定し,軍事的には小国であるが,外交面では自主的な平和路線をとり,国内の改革に力をそそいだので,国民の福祉はおおいに向上した。

●国際的諸運動の進展●
 各国の国民主義・民主主義の発展とともに種々の国際的運動もさかんになった。とくに社会主義運動においてそれが著しい。1864年各国の社会主義者がロンドンに集まって第1インターナショナルが結成され,マルクスがその指導者となったが,バクーニンら無政府主義者との対立や,パリ=コミューン後の弾圧の激化により,76年に解散した。しかし1889年パリで第2インターナショナルがつくられ,ドイツ社会民主党を主力として第一次世界大戦まで国際社会主義運動の中心となった。この間,各国の社会主義政党@も発展した。
 このほか,戦争犠牲者の救援を目的として赤十字条約Aが結ばれ,郵便・電信に関する国際的機関もつくられた。また1896年には国際オリンピック大会がはじまり,国際親善に貢献した。


@ ドイツの社会民主党,フランスの社会党,イギリスの労働党など。
A クリミア戦争におけるイギリスのナイティンゲールの活動に刺激され,スイスのデュナンの発案で,1864年ジュネーヴで締結された。
3 アメリカ合衆国の発展

●民主主義の発達と領土拡張●
 アメリカ合衆国では,反連邦派をひきいるジェファソンが,リパブリカン党を結成して1800年第3代大統領に選ばれ,民主主義はさらに発展した。アメリカは独立後,まもなくおこったヨーロッパの戦争に対してワシントン以来の孤立主義にもとづく中立をまもり,貿易上の利益をえていたが,イギリスが海上封鎖で通商を妨害したので,1812年米英戦争がおこった。この戦争は勝ち負けなしの状態でおわったが,戦争中にヨーロッパとの通商がたえたことは,かえってアメリカの経済的自立を強める結果となり,木綿工業の発達が促進され,保護関税によって産業革命への道がひらかれた。
 第5代大統領モンローの時代,国内ではリパブリカン党の一党支配による平和が保たれた。彼は,ラテンアメリカ諸国の独立を支援し,外からの脅威に対抗するためヨーロッパ諸国が新大陸を植民の対象とすることに反対し,またアメリカもヨーロッパに干渉しないことを宣言したモンロー教書を発した。この教書は,孤立主義を具体化したもので,その後長くアメリカ外交政策の基本となった。第7代のジャクソン大統領は西部の出身で農民と都市小市民の票をえて当選し,資本家の勢力をおさえて庶民のための民主政治を進めた@。このころ反ジャクソン派は,北部をおもな基盤とするホイッグ(ウィッグ)党を,またジャクソン派は南部をおもな基盤とする民主党を形成した。その後ホイッグ党は他の奴隷制反対の小政党と合併して,共和党となった。
 アメリカは1803年フランスからミシシッピ川以西のルイジアナ(1800年スペイン領からフランス領となる)を買収して領土を倍増したのち,19年スペインからフロリダを買収した。さらに40年代になると「明白な天命」Aをとなえて45年テキサス,46年オレゴンをあわせ,メキシコとたたかって48年カリフォルニアを獲得し(アメリカ=メキシコ戦争),その領土は太平洋岸に達した。領土の拡大は,独立以来アメリカ政府が奨励した西部地域の開拓をおおいにうながし,東部の社会に不満な人々は,困難とたたかいながら未開のフロンティア(辺境)Bを切りひらき,西へ西へと進んでいった(西漸運動)。西部には東部とちがって植民地時代からの伝統がなく,実力主義の社会だったため,民主政治の発達がうながされた。
 一方,北アメリカの先住民であるインディアンは白人に征服されて指定の保留地に追いやられたC。


@ 彼は,大統領選挙で勝った党派の者に連邦政府の官職をあたえ,さらに官職の交替をおこない政党政治の基をつくった。さらに経済上では,極端な高関税をおさえ,富裕階級の支持する合衆国中央銀行の期限延長を拒否するなど,白人庶民のための政治をおこなったので,この時期にアメリカの文化もさかんになった。これをジャクソン民主主義という。
A 西方への領土拡張は,未開拓地域の文明化を意味し,アメリカが神からあたえられた天命であるとする思想で,オレゴンやカリフォルニア獲得の際,政治的に利用された。
B 東部の文明地域と西方の未開拓地域との境界地帯をフロンティアとよんだ。したがって西部開拓が進むにつれて,フロンティアは西に移動した。
C ジャクソン大統領時代のインディアン移住法により,多数のインディアンがミシシッピ川以西の保留地に移された。19世紀後半に西部開拓が大規模に進められるようになると,追いつめられたインディアンは各地で激しく抵抗したが、1880年代までに白人に鎮圧された。白人の植民当初, 100万人以上と推定されたインディアンの人口は,1890年ころには25万人に減少したが,現在では公民権が認められ、約 140万人に回復している。

●奴隷制度と南北戦争●
 合衆国の西部への発展とともに,南部と北部の対立が激化した。もともと南部地域には黒人奴隷を使用する大農場(プランテーション)が発展していた。とくにイギリス産業革命によって綿花の需要が増大し,18世紀末の綿繰り機の発明以来,綿花栽培が急速に発展した。そのため南部は奴隷制の存続と自由貿易,州の自治を強く要求した。これに反し,産業革命が進み資本主義の発達した北部は,イギリスに対抗するため保護関税政策と連邦主義を主張し,また人道的にも奴隷制に反対していた。北部の自由州と南部の奴隷州とは,西部開拓の結果あたらしい州がうまれると@,その州に奴隷制を認めるかどうかで激しく争った。ミズーリ州の成立のとき,ミズーリ協定(1820年)Aが結ばれてこの対立は一時おさまった。しかし1850年カリフォルニアが自由州として連邦に加入しB,さらに1854年カンザス・ネブラスカ法の成立Cにともない,奴隷制反対をとなえる共和党が結成されるにおよんで,奴隷制をめぐる南北の対立は決定的になった。
 1860年,北部を地盤とする共和党のリンカンDが大統領に当選すると,南部諸州は連邦から分離し,翌61年初めアメリカ連合国をつくってジェファソン=デヴィスを大統領に選び,ここに空前の大内乱である南北戦争がはじまった。人口や経済力では北部が圧倒的にまさっていたにもかかわらず,戦局ははじめ,名将リーの指揮下で善戦した南軍が有利であった。しかし,1863年1月,リンカンは南部反乱地域の奴隷解放宣言により内外世論の支持を集めたE。そして同年のゲティスバーグの戦いに勝利をえてから,グラント将軍のひきいる北軍が優勢となり,65年南部の首都リッチモンドが陥落して南軍は降伏し,合衆国は再統一された。


@ 西部ではある地域の自由人の成年男子人口が5千人に達すると,准州として自治政府を設け,全自由人口が6万人になると連邦議会の承認をえて州に昇格し,最初の13州と同じ資格で連邦に加入することができた。
A このとき,ミズーリ州を奴隷州として認めるかわりにメイン州を自由州として分離し,自由州・奴隷州の数の均衡を保った。また以後,州の新設に際しては,北緯36度30分を境界として北側を自由地域,南側を奴隷地域と定めた。
B カリフォルニアは領土となった1848年に金鉱が発見されたため,おびただしい移民が殺到し(ゴールドラッシュ),人口が急増して50年にはやくも自由州となった。その際,南部の不満をなだめるため,逃亡奴隷取締法が強化され南北の妥協がおこなわれた。1852年,ストウ夫人は『アンクル=トムの小屋』をあらわして,奴隷制に反対した。
C 民主党議員の提案で,カンザス・ネブラスカの両准州が設けられ,その地域が自由州となるか奴隷州となるかは住民の意志にもとづくと定めた法律で,ミズーリ協定を否定するものであったため,南北の衝突がおこった。
D リンカンは穏健な奴隷制拡大反対論者であったが,奴隷問題がもとで合衆国が分裂することをもっともおそれ,民主主義と連邦憲法をまもる立場から開戦にふみきった。
E 1862年共和党政府はホームステッド法を制定し,開拓者に 160エーカー(約65ヘクタール)の国有地を貸与し,定住して5年たてば,無償でその土地をあたえたので,農民の西部進出が促進された。

●南部の再建●
 戦後,荒廃した南部の再建は共和党の主導で,合衆国の軍政下におこなわれた。再建には種々の問題はあったが,1877年におわって南部諸州はすべて合衆国に復帰した。これに先だち連邦憲法修正により,奴隷制は正式に廃止され,さらに解放黒人に公民権・投票権があたえられた。しかし,南部諸州は1890年ころから州法その他によって黒人の公民権・投票権を制限し,また社会的差別待遇を進めたので憲法の条項は骨ぬきになった。解放された黒人は手に職もなく,一般的には分益小作人(シェアクロッパー)@として苦しい生活をおくった。
 南部の没落した旧大農場主(プランター)は,小農民や新興産業資本家らとともにあらゆる手段で共和党政権に反抗しA,民主党のもとに「堅固な南部」を形成した。


@ シェアクロッパーは,ふつう収穫の半分を地主におさめたので,みずからの手には半分しか残らず,貧しい生活をおくり向上ののぞみもない状態がニューディールのころまで続いた。
A 共和党の再建政策のもとでは,経験のあさい黒人の投票権を利用して不当な利益をえようとするものがあり,これに対抗して旧南部白人のなかには,クー=クラックス=クラン(KKK)などの秘密結社を組織して,非合法手段で黒人に対し暴行をおこなったりするものもでた。

●大西部の開拓と工業の発展●
 19世紀後半の大西部(ミシシッピ川以西の大平原地域)開拓は,従来とことなる様相を呈した。まず1860年前後から,ネヴァダ・コロラドなどで金銀の採掘をめざす鉱夫たちが鉱山街をつくった。つづいてカウボーイによる牛のロング=ドライヴがおこなわれ,数百万頭の牛が東部の市場におくられた。この二つの運動は約20年間で下火となったが,1870年代のおわりから乾燥地帯での農業技術の進歩・機械化などにたすけられて,農民が大平原に進出し,やがて世界一の小麦の生産をほこるにいたった。
 西部発展にともない,東部と西部を結ぶ通信・交通機関の整備が急務となり,有線電信の開通に続き,1869年には最初の大陸横断鉄道が完成した。西部開拓の進展によって,1890年ころにはフロンティアがついに消滅した。
 南北戦争の結果,共和党政権の保護もあって,石炭・石油・鉄鋼などを基本とする工業がめざましく躍進し,19世紀末には英・独をしのぐ世界一の工業国になった。それは天然資源にめぐまれ,また西部の国内市場が拡大したことにもよる。またこれにともなって独占企業が成長し,労働運動や農民運動も高まりをみせた。
 工業発展の原動力の一つは移民による労働力の増加である。以前の西欧・北欧系の移民とことなり,南北戦争以後,東欧・南欧・アジア系の新移民が増大し,国内開発と経済発展をささえた。しかし彼らの多くは低賃金の不熟練労働者になったため,種々の社会問題をひきおこし,後年の移民制限問題の発端ともなった。
 対外的にはカリフォルニア獲得以後,太平洋への関心も高まり,1854年にはペリー提督による日米和親条約が結ばれた(日本の開国)。また南北戦争中,ナポレオン3世はメキシコの内乱に干渉してここにフランスの勢力をうえつけようとしたが,戦後,アメリカはフランスの試みが失敗するまで抗議を続けた。また合衆国は1867年,ロシアからアラスカを買収した。
4 19世紀のヨーロッパ文化

●文学●
 フランス革命とそれに続く政治・社会の大きな変動が,自由への願望と民族の自覚をよびさますと,19世紀前半にはドイツを中心に,個人の感情や想像力を重んじ,歴史や民族文化の伝統を尊ぶロマン主義が,かつての古典主義にかわってさかんになった。ドイツのハイネ,イギリスのバイロン,フランスのユーゴーらがその代表である。
 さらに19世紀後半になると,市民社会の成熟,科学・技術の急速な発達が文学にも影響し,非現実的なロマン主義にかわって,人生の真実をありのままに描写しようとする写実主義・自然主義@の思潮が広がった。写実主義のさきがけは,19世紀前半のフランスの社会・風俗をいきいきとえがいたスタンダールとバルザックで,フロベールによって確立され,その流れはイギリス・ドイツ・ロシアにおよんだ。ドストエフスキーとトルストイはとくに名高い。また同世紀の後半にはゾラやモーパッサンの自然主義へと発展し,やはり各国に影響をあたえた。


@ 自然主義とは写実主義をさらに推進して,人間を科学的に観察し社会の矛盾や人間性の悪の面を描写する思潮をいう。

●美術と音楽●
 絵画ではフランス革命・ナポレオン時代にダヴィドが格調の高い古典主義の傑作を残しアングルに引きつがれたが,やがてドラクロワらの情熱的・幻想的なロマン主義の画風にかわっていった。19世紀なかば以来,写実主義・自然主義の流れは絵画にもおよび,フランスに農民生活を主題とした風景画で知られるミレーや,ドーミエ・クールベらがでた。この世紀の末に近づくと,マネ・モネ・ルノワールらの印象派がうまれ,外光による色の変化を重視して明るい絵をえがいた。またセザンヌ・ゴーガン,オランダのゴッホらはこれを発展させて独自の画風をひらき,20世紀の絵画に影響をあたえた。また彫刻ではフランスのロダンが写実主義から出発して内面的真実をほりさげ,近代彫刻を確立した。
 音楽では,18世紀末から19世紀初めにかけて,ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンらの天才がでて古典派音楽が完成され,ついでシューベルト・シューマン・ショパン・ワグナーなどのロマン主義音楽がおこった。

●哲学と人文・社会科学●
 18世紀の啓蒙主義者が確信した理性の認識能力に批判の目をむけたのはカントであったが,その後ドイツ観念論は,フィヒテ・シェリングに引きつがれ,弁証法哲学@をとなえるヘーゲルにいたって完成した。彼らの思想には,個人の価値と歴史の伝統を重んずるロマン主義の影響がみられる。ヘーゲルの死後分裂した学派のうち,左派を代表するフォイエルバッハのとなえた唯物論は,マルクスにうけつがれた。マルクスはヘーゲルを批判しつつ弁証法的唯物論をたて,資本主義社会の分析にもとづき,歴史発展の理論としての唯物史観をとなえた。またキェルケゴールは実存哲学のさきがけとなった。
 産業革命以後,資本主義発展の先頭にたったイギリスでは,18世紀末にでたベンサムが「最大多数の最大幸福」を主張して功利主義を説き,民主政治をたたえたが,フランスでは19世紀前半コントが実証主義をとなえ,現実世界の経験のみに知識の源泉を求めて,社会学の創始者となった。この現実主義的傾向はイギリスのジョン=ステュアート=ミル,ハーバート=スペンサーらの功利主義・経験論哲学にも影響をあたえた。
 またイギリスのアダム=スミスの流れをくむマルサス・リカードらの古典派経済学は,経済の一般法則を研究し,自由放任主義を主張した。
 一方,啓蒙主義の自然法思想が人間本性の不変を強調したのに対し,人間や事物の個性と変化・発展を重視するロマン主義の世界観の影響で,歴史学は19世紀に空前の隆盛をむかえた。ことにナポレオン時代に民族意識が高まったドイツは,歴史研究の中心となり,史料の厳密な検討によって正確な史実を究明しようとする近代史学が,ランケらによって基礎づけられた。これをうけて他の国々でも歴史の研究がさかんになった。
 法学でも,18世紀の自然法が法の普遍性を重んじたのに対し,法は各民族に固有のものだとする歴史法学がドイツのサヴィニーによってとなえられ,経済学でもドイツに歴史学派がうまれた。この派の先駆者リストは,古典派経済学とことなり,おくれた発展段階にある国民経済は国家の保護を必要とすると説いて,ドイツ関税同盟の結成に努力した。またマルクスは唯物史観にもとづいて資本主義の研究を深め,『資本論』(第1巻は1867年刊)でマルクス経済学を樹立した。


@ ものごとは自己の内部にたえず矛盾をうみだし,これをより高次の統一において解決しながら発展していくと考える哲学の理論。

●自然科学と技術●
 自然科学の諸部門は,18世紀までにほぼ基礎ができあがっていたが,産業革命による工業の飛躍的発達にともない,19世紀なかばころからさらにめざましい進歩をとげた。
 物理学の分野では,マイヤー(独)とヘルムホルツ(独)により「エネルギー保存の法則」が発見され,ファラデー(英)が電磁気学の基礎をすえた。ついでレントゲン(独)がX放射線を発見し,キュリー夫妻(仏)はラジウムを発見した。化学ではリービヒ(独)が有機化学の分野を開拓した。医学では細菌学が長足の進歩をとげ,とくにパストゥール(仏)とコッホ(独)の業績が大きい。生物学では,1859年にダーウィン(英)が『種の起源』をおおやけにして進化論を提唱すると,この学説は聖書の語句をそのまま歴史的事実と考える従来の人間観に大きな衝撃をあたえ,人文・社会諸科学にまでおよぶ激しい論争をまきおこした。またメンデル(墺)は,遺伝の法則を発見した。
 生産に直結したあたらしい技術の開発も,科学理論の発達にうながされておおいに進んだ。この世紀最大の成果は,あたらしい電気エネルギーの利用で,これはまず通信部門に,1837年モールス(米)の電信機の発明となってあらわれ,76年のベル(米)による電話機,エディソン(米)による電灯(1879年)・映画・蓄音機や,マルコーニ(伊)の無線電信の発明などがこれに続いた。電力は工場や交通・運輸機関にも動力として利用され,1880年代に石油を用いる内燃機関が登場したこととならんで,産業革命にあたらしい段階をもたらした。
 また化学工業も発展し,ノーベルは1867年ダイナマイトを発明し,80年前後には,乾板写真・パルプ・人造繊維なども登場した。

●地理上の探検●
 科学・技術の発達にともない,欧米人による世界各地の探検も進んだ。オーストラリアは,すでに17世紀なかごろにオランダ人タスマンによってヨーロッパに知られていた。その後,18世紀後半,イギリスのクックの太平洋探検でさらにニューギニアやニュージーランド・ハワイについての知識もえられたが,19世紀になっても地球上には文明に浴さない地域がまだ多く残されていた。とくにアフリカはヨーロッパ人にとって未知の大陸であったが,リヴィングストンとスタンリーが,この世紀のなかばから後半にかけて探検をおこなった。中国の奥地や中央アジアの学術調査も,この世紀の末期にはじまっている。なお極地探検が成功したのは20世紀に入ってからで,1909年アメリカのピアリは北極点に達し,南極点には,1911年ノルウェーのアムンゼンが,翌12年イギリスのスコットが到達した。
第14章 ヨーロッパ諸国のアジア進出

 19世紀に入ると,産業革命に成功したヨーロッパ諸国はアジア諸地域を原料の供給と工業製品の市場として位置づけ,その支配をめざした。このためアジア諸国はその優越した軍事力の前に敗北をかさね,植民地化をまねくにいたった。オスマン帝国は17世紀末以降その領土を縮小し,19世紀に入ってからは,諸民族の独立運動とそれに関連したヨーロッパ勢力の干渉に苦しめられた。インドではイギリスによる植民地化が進み,シパーヒー(セポイ)の反抗をきっかけとする1857年の大反乱の鎮圧後は,イギリス本国による直接支配がはじまった。東南アジアではタイをのぞく諸地域が,オランダ・イギリス・フランスなどによって分割された。東アジアでは衰えはじめていた清朝がアヘン戦争やアロー戦争に敗北し,不平等条約を強制されて半植民地の状況が進んだ。
 こうしたヨーロッパ諸国の進出に対して,アジア諸国ではさまざまな対応のしかたがみられた。イラン・エジプトなどではヨーロッパの影響をうけつつも,イスラム教を抵抗の原点にしようとする動きがあらわれ,オスマン帝国ではヨーロッパの技術や政治体制を導入して,みずからを変革しようとした。インドではヒンドゥー教徒が中心となって反英闘争が,中国では漢人官僚を中心とする洋務運動などが展開された。

1 オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒

●オスマン帝国支配の動揺●
 オスマン帝国は16世紀にヨーロッパ・アジア・アフリカに領土を広げたが,同じころポルトガル人のインド洋海域への侵入がはじまった。やがてインド洋の制海権はイギリスの手に移り,17世紀にはイギリス東インド会社の商館がペルシア湾岸のバスラに設けられた。サファヴィー朝のアッバース1世は東インド会社の艦隊の協力をえて,ポルトガルの勢力をホルムズ島から追いはらった。
 オスマン帝国にとって,第2次ウィーン包囲の失敗(1683年)は致命的な打撃であった。その後のカルロヴィッツ条約(1699年)によって,オスマン帝国はハンガリー・トランシルヴァニアなどをオーストリアに割譲し,さらに18世紀後半には,ロシアとの戦いに大敗して黒海の北岸をうばわれた。
 ヨーロッパの航海者たちは,16世紀以降も香辛料をはじめとするアジアの特産物の買いつけで満足していた。しかし18世紀の後半にはじまったイギリスの産業革命は,原料供給地・製品の販売市場として,政治的・経済的に意のままに支配できる植民地を必要とした。ヨーロッパの軍艦や商船がインド洋に進出し,オスマン帝国がバルカンの領土をつぎつぎに失っていくと,そのアジア・アフリカ領でも,民族的な自覚と自立を求めるあたらしい運動がはじまった。列強の利害が複雑にからみあい,たがいに牽制しあっていたオスマン帝国では,国家そのものは温存されたが,諸民族の自立とヨーロッパ列強の進出により,領土は縮小の一途をたどった。

●アラブ民族の覚醒●
 18世紀のなかばころ,ムハンマド=ブン=アブドゥル=ワッハーブはアラビア半島でイスラム教の改革をとなえるワッハーブ派の運動をおこした。彼らは中央アラビアの豪族サウード家と結んで,リヤドを首都とするワッハーブ王国を建設した。ワッハーブ派は,神秘主義と聖者崇拝をイラン人やトルコ人によってもたらされたイスラム教の堕落とみなし,預言者ムハンマドの最初の教えにかえれと説いた。それは現代まで続くイスラム改革運動のはじまりであったばかりでなく,その主張はトルコ人支配に反抗するアラブ民衆のあいだにうけいれられ,アラブの民族的自覚のさきがけとなった。
 シリアでは19世紀の初め,アラブのキリスト教徒知識人のあいだに,アラブ文化の復興運動がおこった。それは現代アラビア語を確立させるとともに,言語をつうじてアラブの民族意識を高め,19世紀末以降のアラブ民族主義運動への道をきりひらいた。
 1798年,フランスはナポレオンの遠征によってエジプトを占領したが,まもなくイギリスとオスマン帝国の連合軍に敗れて撤退した。この混乱に乗じて,ムハンマド=アリー(メフメト=アリー)が実力によってエジプトの支配者となり(1805年),翌年にはエジプト総督(パシャ)としての地位をオスマン帝国のスルタンに認めさせた。
 彼は旧勢力のマムルークを一掃するとともに,フランスの援助によって近代的な陸海軍の創始,造船所・官営工場・印刷所の建設,教育制度の改革などをおこない,エジプトの近代化を進めた。彼はオスマン帝国の求めに応じてアラビア半島に出兵し,一時ワッハーブ王国をほろぼした(1818年)。さらにシリアの領有を要求して,それが拒否されると,2度にわたってオスマン帝国とたたかった(エジプト=トルコ戦争)。しかしこの戦いでフランスがエジプト,ロシアがトルコを援助したためにイギリスが干渉し,1840年のロンドン会議で,ムハンマド=アリーは,オスマン帝国スルタンの宗主権のもとに,エジプト・スーダンの総督の地位の世襲を認められるにとどまった。
 莫大な債務をかかえるエジプトは,1860年代からイギリス・フランスの財務管理下におかれ,内政の支配もうけるようになった。このような外国支配に反抗してアラービーが反乱をおこすと(1881〜82年),イギリスは単独でエジプトを軍事占領して,事実上これを保護下においた。しかし立憲制の確立を求め,「エジプト人のためのエジプト」をスローガンとするアラービー運動は,その後のエジプト民族主義運動の原点となった。

●オスマン帝国の改革●
 19世紀のなかば,オスマン帝国のアブデュル=メジト1世は,司法・行政・財政・軍事の西欧化改革(タンジマート)を実施した。この改革によって帝国は神権的なイスラム国家から,法治主義にもとづく近代国家へと体制を一新したが,ヨーロッパ工業製品の流入は土着産業の没落をうながし,外国資本への従属がかえって進んだ。
 一方,クリミア戦争のあと国内に立憲制への要求が高まると,1876年宰相ミドハトによりアジアで最初の憲法であるミドハト憲法が発布されたが,アブデュル=ハミト2世は露土戦争の勃発後これを口実に憲法を停止した。またこの戦いに敗れたオスマン帝国は,1878年のベルリン条約により,ヨーロッパ側領土のなかば以上をいっきょに失うことになった。

●イラン・アフガニスタンの動向●
 イランでは18世紀の末にテヘランを首都とするカージャール朝がおこった。カージャール朝はカフカスをめぐるロシアとの戦いに敗れ,トルコマンチャーイ条約(1828年)によってロシアに治外法権を認め,東アルメニアを割譲した。このような混乱を背景に,1848年,農民を中心とするバーブ教徒@は,英・露をはじめとする外国勢力への屈従をこばんで武装蜂起したが,まもなく政府軍によって鎮圧された。
 アフガニスタンでは,18世紀なかば以降アフガン王国が独立を保っていたが,19世紀に入るとカージャール朝はロシアの支援をえてアフガニスタンに攻めいった。ロシアの南進をおそれるイギリスはこれに介入し,アフガニスタンのイランからの独立を認めさせた(1857年)。しかしインドでの権益をまもろうとするイギリスは,アフガニスタンとのあいだに3次にわたるアフガン戦争をひきおこし,第2次アフガン戦争の勝利によってアフガニスタンを保護国とした。


@ サイイド=アリー=ムハンマドが創始したバーブ教は,シーア派の改革と政治・社会の再編成の必要を説いて,多くの民衆にうけいれられた。
2 南アジア・東南アジアの植民地化

●イギリスのインド支配●
 インド貿易に専念することになったイギリス東インド会社は,17世紀前半にポルトガル,同世紀末までにオランダとの競争に勝ち,やがて進出してきたフランスと対立した。両国はそれぞれ地方政権と結び南インドで3回たたかい(カーナティック戦争),イギリス東インド会社軍が勝って支配領域を広げていった。一方,1757年,クライヴのひきいる会社軍がフランスとベンガル太守の連合軍をプラッシーに破り,その後ムガル皇帝と地方政権との連合軍を破ると,ベンガル地方は東インド会社領となり(1765年),また知事(のち総督)をおいて住民から徴税した。その後マイソール戦争によって南インドのマイソール王国をほろぼし,3次にわたるマラータ戦争によってインド中部に進出,さらにシク戦争によって西北インドを支配下におさめた。こうして東インド会社はインド全域に領土を広げるとともに,19世紀初めにはネパールを征服し,オランダ領であったスリランカも占領した。
 これより先,産業革命がおこると,イギリス本国の産業資本家は東インド会社によるインド貿易の独占に強く反対するようになり,その結果,会社の独占貿易は茶をのぞいて廃止され(1813年),ついで商業活動自体も全面的に禁止された(1833年,翌34年実施)。それとともに,これまでイギリスに綿織物・アイなどを輸出していたインドは,イギリス本国に木綿工業の原料を供給し,その製品を購売する市場に転落した。イギリスの安価な機械織り綿布のために,インドの手織り綿布産業は大打撃をうけ,綿花・アイ・アヘン・茶などの輸出作物の栽培,商品経済の浸透,近代的地租制度の採用などにより,自給自足的な村落社会は崩壊した。他方,英語教育やイギリス的司法制度などが導入されて,植民地支配が着々と進んだ。

●インド大反乱とインド帝国の成立●
 このようなイギリス支配に対する反感はインド人の各階層に広まり,1857年には東インド会社のインド人傭兵(シパーヒー<セポイ>)が反乱をおこした@。この反乱にはイギリスの支配に不満を持つ旧支配層や,近代的地租制度によって没落した大土地所有者,土地を失った農民,木綿工業の不振で職を失った商工業者など広範な階層の人々が加わり,北インド全域におよぶ大反乱となった。彼らはデリーを占領し,有名無実となっていたムガル皇帝の統治復活を宣言した。
 しかし反乱軍に統一した組織はなく,翌年には武力にまさる東インド会社軍によって鎮圧され,ムガル皇帝は廃位されて帝国はほろんだ。これを機にイギリス政府は東インド会社を解散して全土の直接支配にのりだし(1858年),1877年にはインド帝国の成立を宣言して,イギリス女王ヴィクトリアがインド皇帝をかねた。新帝国は直轄領と大小 550をこえる藩王国からなり,これらの旧勢力を温存させながら,イギリスの巧妙な植民地経営Aがおこなわれた。


@ シパーヒーは,上層カーストのヒンドゥー教徒や上層イスラム教徒の子弟からなっていた。イギリス軍があたらしく採用した銃の弾薬包には,ヒンドゥー教徒が神聖視する牛の脂とイスラム教徒が不浄視する豚の脂がぬられており,これが彼らの不満を爆発させるきっかけとなった。
A 英語教育の推進などにより近代化をはかる一方,旧勢力を相互に対抗させて,反乱をおさえた。

●東南アジア諸島部の植民地化●
 16〜17世紀におけるポルトガル・オランダ・イギリスなどの東南アジア進出は,香辛料貿易が中心であった。しかしムスリム商人と争ってジャワ島に商権を確立したオランダは,18世紀なかばにマタラム王国をほろぼして,ジャワ島の大部分を領有した。そしてジャワ戦争によってイスラム諸侯の反乱を鎮圧すると,強制栽培制度を導入し,サトウキビ・コーヒー・アイなどの栽培を農民に強制して大きな利益をあげた。オランダは19世紀末までには,現在のインドネシアのほぼ全域を支配し,長年にわたる戦争の末,スマトラ島のイスラム国家アチェー王国を1904年にほろぼして,オランダ領東インドに編入した。
 スペインは16世紀後半にルソン島のマニラを根拠地としてフィリピン諸島の南部をのぞく大部分をカトリックに改宗させるとともに,メキシコの銀による中国貿易で大きな利潤をあげ,19世紀にはサトウキビ・タバコなどの商品作物の栽培をフィリピン農民に強制した。
 イギリスは18世紀末,ふたたび東南アジアに進出し,ナポレオン戦争中に占領したジャワ島はオランダに返還したが,ペナン・マラッカ・シンガポールを領有し,1826年にこれらを海峡植民地とした。ついで北ボルネオを領有したイギリスは,錫資源を求めてさらにマレー半島にも支配を広げ,1895年にマレー連合州を結成し,世界的に需要の高まったゴム栽培を進めた。

●東南アジア大陸部の変動●
 大陸部では,ヨーロッパの進出によって,ヴェトナム・ミャンマー(ビルマ)・タイの3地域を中心に大きな歴史的変動がおこった。
 ヴェトナムでは,フランス人宣教師ピニョーの援助をうけた阮福映が西山朝を倒し,ヴェトナム全土を統一して阮朝をひらき(1802年),清朝から越南(ヴェトナム)国王に封ぜられた(1804年)。しかし,のちにキリスト教徒を迫害したので,ナポレオン3世の軍事介入をまねいた。この戦争の結果,フランスはサイゴン条約を結んでコーチシナ東部(南部ヴェトナムの東側)を獲得した(1862年)。そして翌63年にカンボジアを保護国化し,つづいてコーチシナ全域の支配を完了した(1867年)。フランスはその後も進出を続けて北部(東京)・中部ヴェトナム(アンナン)を占領し,1883年ユエ条約(アルマン条約)によりこの国を保護国とした。
 このようなフランスの侵攻に対して,農民を中心とする黒旗軍@はねばり強い抵抗を続けた。また宗主国の清朝も,フランスのヴェトナム支配を認めず清仏戦争がおこったが,清軍は敗れ,1885年の天津条約でヴェトナムに対するフランスの保護権を承認した。そして1887年にはハノイに総督府をおくインドシナ連邦(仏領インドシナ)が成立し,1899年ラオスも連邦に編入された。
 17世紀以降,イギリス東インド会社はミャンマーと貿易をおこなっていたが,18世紀のなかごろミャンマーにコンバウン(アラウンパヤー)朝がおこると,同世紀の末にこれと通商和親条約を結んだ。その後ミャンマーがインドのアッサム地方へ進出したため,イギリスとのあいだに紛争がおこったが,イギリスは3回にわたるミャンマー戦争(ビルマ戦争)でミャンマーを征服し,全土をインド帝国に併合した(1886年)。
 このようにしてタイをのぞく東南アジアの諸地域は,19世紀の末までにヨーロッパ諸国の植民地としてその支配下におかれた。しかしタイのバンコク(チャクリ)朝は,イギリス・フランスとのあいだに勢力均衡策をとり,ラーマ5世(チュラロンコーン)は軍事・行政・司法などの分野で近代化政策を推進して,独立を維持しつづけた。


@ 阮朝につかえていた中国人の劉永福が組織した義勇軍で,20世紀に入ってもゲリラ戦を展開し,のちのヴェトナム民族解放運動に大きな影響をおよぼした。
3 東アジアの激動

●ロシアの東方進出●
 16世紀後半から毛皮などを求めてシベリアを東進したロシアは,17世紀前半に太平洋岸に達すると,南進して黒竜江(アムール川)岸にあらわれ,清と衝突するようになった。このため,両国はネルチンスク条約やキャフタ条約を結び,国境や通商などについてとりきめた。またピョートル1世(大帝)は18世紀初めからベーリングらに命じてカムチャツカ半島やアラスカを探検させた。この結果,18世紀末にはエカチェリーナ2世の使節ラクスマンが北海道の根室に来航して通商を求め(1792年),鎖国中の日本に北辺問題をおこさせた。
 19世紀なかばにムラヴィヨフが東シベリア総督になると,ロシアはふたたび黒竜江岸に進出し,清が太平天国やアロー戦争で苦しんでいるのに乗じて1858年アイグン条約を結び,黒竜江以北を領有した。ついで1860年には北京条約を結んで沿海州を獲得し,ウラジヴォストーク港をひらいて太平洋進出の根拠地とした@。またイスラム教徒の反乱を機に1871年,イリ地方に出兵し(イリ事件),81年のイリ条約で清との国境を有利にとりきめた。
 この間,ロシアは中央アジアを南下して,19世紀なかごろにはウズベク族のブハラ・ヒヴァ・コーカンドの3ハン国を支配下においた。イランにもはやくから圧迫を加え,1828年にはカージャール朝とトルコマンチャーイ条約を結んで治外法権を獲得している。


@ ロシアの進出は,アジアでの不凍港の獲得や海洋への進出をめざすものであった。このため,しだいに各国が警戒心を強め,国際間の緊張を高める一因となった。

●アヘン戦争とアロー戦争●
 清の盛時も乾隆帝の治世の後半には,官僚の腐敗などによってゆらぎはじめた。民衆は重税や官僚の圧迫などに苦しみ,各地で反乱をおこした。18世紀末におこった白蓮教徒の乱は,その最大のものであった。清は10年をかけて平定したが,その後も反乱は続発した。そのころから,イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国の圧力も強まり,やがてアヘン戦争となった。
 18世紀後半に中国貿易を独占しはじめたイギリスは,中国の茶を買いつけて本国におくり,その代価を新大陸からの銀で支払う一方的な貿易をおこなっていた。そこで,これを打開するために,18世紀末からは,中国の茶を本国に,本国の綿製品をインドに,インド産のアヘンを中国に運ぶ三角貿易をおこない利益をあげるようになった。当時,イギリス本国では,自由貿易を求める機運が強まり,交易を広州港にのみ限定して,これを公行が独占する清の制限貿易を不満とするようになっていた。このためイギリスは,18世紀末にマカートニー,19世紀初めにアマーストらを派遣して,その撤廃を交渉させたが,中華の立場をとる清は応じなかった。こうしたなかで,イギリス本国では1834年に東インド会社の中国貿易独占権の廃止も実施され,中国への制限貿易撤廃の要求は日ましに強まった。
 一方の中国では,アヘンの吸飲が広がり,アヘンの密貿易が急速に増え,大量の銀が国外に流出するようになっていた。はやくからアヘンの吸飲や密輸を禁止していた清は,この実情を重視し,1839年,林則徐を広州に派遣してとりしまりにあたらせた。彼は,広州でアヘンを没収廃棄処分にしたうえ,イギリスとは一般貿易をも禁止する強硬策にでた。イギリスは,この機に武力で自由貿易を実現させようと,1840年,アヘン戦争をおこした。
 清は,すぐれた兵器を持つイギリス軍に連敗して@,1842年に南京条約を結び,香港の割譲,上海・寧波・福州・厦門・広州の5港の開港,公行の廃止,賠償金の支払いなどを認めた。さらに翌年,領事裁判権などの治外法権や最恵国待遇などを認める不平等条約Aを結んだ。また1844年にアメリカと望厦条約を,フランスと黄埔条約を結んで,イギリスと同じような権利を認めた。
 しかし,戦後の交易でもヨーロッパ諸国が期待したほどの利益はあがらず,清側の条約違反も多かったので,イギリスは条約改定の機をねらっていた。1856年,広州でイギリス船籍を主張するアロー号で中国人乗組員が清の官憲にとらわれるというアロー号事件がおこった。イギリスはこれを口実とし,同年広西省でおこったフランス人宣教師殺害事件で清に抗議をしていたナポレオン3世治下のフランスによびかけ,共同出兵をしてアロー戦争(第2次アヘン戦争ともいう)をおこした。英仏軍は広州を占領し,海路北上して天津にせまり,58年に天津条約を結んだ。しかし,翌59年,清軍が批准書の交換を武力で阻止したので,英仏軍は60年に北京を占領しB,北京条約を結んだ。清は,外国公使の北京駐在,天津など11港の開港,外国人の中国内地での旅行の自由,キリスト教布教の自由などを認め,イギリスに九竜半島南部(九竜市)を割譲した。この結果,清は,諸外国から政治・経済上の圧力をうけるようになり,大量の外国商品の流入によって,国内の産業や社会に大きな変化をまねくようになった。


@ 1841年に広州の清軍が降伏すると,郊外の三元里の住民らは,平英団という自衛組織をつくってイギリス軍を攻撃し,以後の民族運動に影響をあたえた。
A 五港通商章程・虎門寨追加条約をさす。またイギリスは清の関税自主権をうばい,1845年には,はじめての租界を上海に設けた。
B このとき英仏軍が円明園の離宮で略奪破壊をおこない,同園は廃墟となった。

●太平天国の興亡●
 アヘン戦争による多額の出費と賠償金の支払いは,銀価の急上昇をまねき,あいつぐ天災も加わって,民衆の生活をいちだんと苦しめた。失業者や流民は急速に増え,地方の治安は乱れた。民衆の不満は,1851年の太平天国の動乱となって爆発した@。太平天国は指導者洪秀全が,上帝会(拝上帝会)という宗教結社を組織して信徒を集め,広西省で挙兵し,建国したものである。太平軍は,貧民や流賊などを加えて大勢力となりながら湖南を北上して湖北の武昌をうばい,1853年に南京を占領してここを首都と定め,天京と名づけた。太平天国は,「滅満興漢」をかかげ,キリスト教と中国固有の思想を調和させ,悪習の撤廃A,男女の平等,土地の均分(天朝田畝制度),租税の軽減などをとなえて民衆の支持をえた。
 太平軍は,その後,北征や西征の軍を進めたが,天京では内部争いがおこり,理想としてかかげた政策も実現しなかったので,しだいに内外の支持を失っていったB。この機に太平軍を撃破したのは,郷勇とよばれる各地の義勇軍で,曾国藩のひきいる湘軍,李鴻章のひきいる淮軍などが,その代表であった。彼らは,常勝軍をひきいたウォードやゴードンなど,外国人の協力もえて,1864年に南京を占領した。こうして太平天国はほろんだが,動乱は,清朝中央や軍隊の無力ぶりを明るみにだし,地方で平定に活躍した漢人官僚が政治の要職を占めるきっかけとなった。また太平天国の運動は,近代中国における民族運動の原動力となり,その後の運動に大きな影響をあたえた。


@ 太平天国では,清が強制していた辮髪をやめ,長髪にしたので,清側では長髪賊とか髪匪ともいった。
A アヘン吸飲の禁止,纏足(女性の足指を幼児から内側にむけて強くしばり,小足とする風習)の禁止はその例である。
B イギリスなどの各国は,はじめ好意的中立の立場をとったが,のち清朝側を支持した。

●洋務運動の進展●
 1860年に北京条約を結んだ清は,総理各国事務衙門(総理衙門)を設けて外交事務の処理機関とし,外国との和親やヨーロッパ文化の摂取につとめて,富国強兵と経済の再建をはかった。この運動を洋務運動といい,清朝は同治の中興@とよばれる一時的安定期をむかえた。しかし,運動を推進したのは太平軍の鎮圧に活躍した曾国藩・李鴻章・左宗棠らの漢人官僚であり,中体西用Aの立場をとるその運動は,清朝の支配体制を維持するにとどまった。


@ 当時,熱河で病死した文宗咸豊帝にかわって帝位についた穆宗同治帝の年号によって,このようによばれた。
A 中国の儒学にもとづく制度や伝統をまもりつつ,西洋の科学や技術を採用すること。

●日本の変革●
 欧米諸国の圧力は日本にもおよび,1853年のペリーの来航によって,17世紀以来の鎖国は破られた。江戸幕府は,攘夷か開国かをめぐる激しい対立のなかで,54年に日米和親条約,58年に日米修好通商条約を結び,開国を断行した。しかし,幕府は討幕運動によって倒れ,68年の明治維新となった。明治政府は,欧米にならって富国強兵をはかり,政治・経済・軍事・教育などあらゆる分野の改革を進め,工業の発展に力をいれた。しかし,政府が藩閥専制であったことから,その打破と国会の開設を求める自由民権運動がおこり,81年に10年後の国会開設が約された。その結果,89年にドイツ憲法を手本にした大日本帝国憲法が発布され,翌90年に二院制の議会が開設された。
 こうしたなかで,対外的には,ロシアとのあいだに幕末の1855年(安政元年12月)に和親条約が結ばれ,開港のほか,択捉島以南を日本領とし,樺太(サハリン)を雑居地とすることなどがとりきめられていた。明治政府は,1875年に樺太・千島交換条約を結んで,全樺太をロシア領,得撫島以北をふくむ全千島を日本領と定めた。また台湾出兵,琉球領有もおこない,さらに大陸侵略をもはかるようになった。

●朝鮮の開国●
 清に従属した17世紀以後の李氏朝鮮では,党争などによる政治動揺が続き,農村ではあいつぐ災害による飢民の増加などによって社会不安が高まっていった。19世紀初めにおこった洪景来の乱は,没落官人の指導する代表的な農民反乱である。このような状況のなかで,1860年代に入ると,欧米諸国は鎖国を続ける朝鮮に対し開国をせまるようになった。しかし,高宗李太王の摂政大院君はこれを拒否し,攘夷につとめた。日本は1875年におこった江華島事件@を機に朝鮮にせまり,翌76年に領事裁判権などをふくむ不平等な日朝修好条規(江華条約)を結んで,釜山など3港を開港させた。宗主国の立場をとる清はこれに対抗して朝鮮への統制を強めようとした。当時,朝鮮内部では,金玉均らの開化派と閔氏らの保守派とが対立し,壬午の軍乱Aや甲申の政変Bなど内争が激しくなり,日清間の対立も深まった。このため,日清両国は1885年に天津条約を結び,両国軍の撤兵,将来出兵時の事前通告などを約した。しかし1894年,全ォ準らの指導下に甲午農民戦争(東学党Cの乱)がおこると,両国軍が出兵して日清戦争となった。戦いは日本の勝利におわり,翌95年,下関条約が結ばれた。条約により,清は,朝鮮の独立,日本に対する「東半島・台湾・澎湖諸島の割譲,賠償金の支払い,通商上の特権付与,開港場での企業の設立などを認めた。この結果,日本は大陸侵略の足場を朝鮮にきずき,極東で南下をめざすロシアとの対立を深めていった。


@ 日本の軍艦が朝鮮沿岸で挑発的な演習をおこない,江華島付近で両国軍が衝突した事件。
A 漢城(現在のソウル)でおこった軍隊の反乱。大院君派の軍隊が閔氏一派の要人を多数殺害し,日本公使館を襲撃して,日本人を殺した事件。清は大軍をおくって閔氏をたすけ,大院君をとらえ,指導権を強化した。
B 開化派が漢城で日本の武力をかりて保守派を倒した政変。清軍の進撃で3日目に敗れた。
C 1860年ころに崔済愚が創始した民族的な新宗教。キリスト教の西学に対し,東学という。朝鮮在来の民間信仰に儒・仏・道3教などを融合してつくった。
第V部

第15章 帝国主義の成立とアジアの民族運動

 19世紀末になると欧米の資本主義経済は第2次産業革命といわれる技術革新の進行によって企業の集中が進み,独占資本主義の段階に達した。そこでうまれた巨大な生産力を背景にして,技術的・軍事的に優勢な欧米列強諸国はきそって植民地や勢力圏を求めて海外進出をおこない,帝国主義政策を実行した。その結果,アジアの大半は植民地となるか半植民地化の状態におかれ,アフリカさらに太平洋地域の島々も分割された。これらの植民地・従属地域は資本の投下地(資本の輸出地)または農産物・原料の供給地とされ,地球全体が資本主義世界の枠組に編入された。この時期,貿易・交通・通信手段が発達し,人・物・情報・文化などの往来もさかんになったため,ここに名実ともに「世界の一体化」が完成した。
 帝国主義諸国内では生活水準の向上と政治参加を求める労働運動が拡大し,社会主義政党が結成されて体制変革の動きもおこったが,それに対して排他的国家主義や人種差別主義を強調して国民を統合しようとする動きもあらわれ,社会的緊張が高まった。また植民地・従属地域ではそれぞれの伝統的きずなを生かし,あるいは西欧の思想の影響をも受けて,民衆も加わった抵抗と解放のための闘争が激しく展開された。
 こうした列強の経済的発展の不均等や分割・再分割をめぐる争いには近代化に成功した日本も加わり,各国の緊張と対立を激化させて,それぞれの軍事ブロック形成を助長し,その国際対立はついには第一次世界大戦を引きおこすことになった。

1 帝国主義の成立と列強の国情

●帝国主義●
 産業革命をいちはやく達成して,「世界の工場」とよばれたイギリスに対抗するため,1830年代以降,ヨーロッパ大陸諸国やアメリカ合衆国でも産業革命が推進された。その結果,これらの国々でも資本主義が発展し,とくにドイツやアメリカにおいては,あたらしい技術・工業部門の開発をともなったため,これは第2次産業革命ともよばれている。第1次産業革命が蒸気力と石炭を動力源として,綿工業など繊維部門の軽工業を中心としたのに対して,第2次産業革命では,電力・石油をあたらしい動力源に使い,鉄鋼や,アルミニウムなどの非鉄金属,電機・化学工業といった重工業部門が発展した。これらの重工業建設には巨額の資本を必要としたため,金融資本@の支配がめだち,大規模施設による大量生産能力を調整し,相互の競争をさけるため,企業の集中・独占の形成(カルテル・トラスト・コンツェルン)が進んだ。
 急速な工業発展は,工業労働者の数を増大させ,都市化を進め,中小企業や農業を圧迫するなど,それまでの経済・社会構造を大きく変容させて国内の政治・社会の緊張を高めた。海外領土,植民地の重要性は,工業のための資源供給地や商品市場としてばかりでなく,国内の社会不安をしずめるための移民や国外投資(資本輸出)の対象としても注目された。1870年代以後,欧米列強はイギリス・フランスを先頭に,植民地や勢力圏を求めて,近代化のおくれたアジア・アフリカ・ラテンアメリカ・太平洋諸島に殺到した。この動きが帝国主義であり,それは列強による世界再分割のはじまりとなった。
 資本主義の発展は各国で不均等であったため,帝国主義の動きも列強によって違いがあった。イギリス・フランスがはやくから広大な植民地を領有する一方,ドイツ・イタリア・日本などの資源や市場が不足する後発資本主義国は,独自の植民地獲得や既存の植民地の再分割を要求した。帝国主義国相互の対立は,やがて排他的な国家主義の台頭や軍備拡張競争をまねき,第一次世界大戦の原因となった。
 列強の国内では,労働者を基盤にして帝国主義や軍国主義政策に反対する社会主義の運動がおこり,社会主義政党が国際的に連帯する第2インターナショナルも結成された。アジア・アフリカ地域でも,さまざまな形で地域の自立をまもり,植民地化に抵抗する動きがあった。こうした運動は,やがて民族主義に成長し,20世紀の歴史を形成する大きな流れとなった。


@ 銀行資本と産業資本が融合して形成された独占資本をさす。

●イギリス●
 イギリスでは,1870年代からそれまでの植民地体制を強化する帝国主義政策が押し進められた。保守党のディズレーリ首相はスエズ運河の株式を買収し(1875年),さらに露土戦争にも干渉した。また自由党から保守党に移り,95年植民相となったジョゼフ=チェンバレンは,国内の社会問題の解決には植民地の開発が必要と考え,南ア戦争(ブール戦争)を指導し,保護関税をとなえた。
 一方,イギリスの国内では,90年代になると,社会主義者の集まりであるフェビアン協会@や労働組合から,労働者独自の政党をつくろうとする機運が高まった。やがて労働代表委員会が結成され,1906年以後これは労働党になった。労働党は社会主義をめざしたが,フェビアン協会の影響もあって,漸進的な改革でその実現をはかる穏健な方針をとった。1905年に成立した自由党内閣は,労働党の支持をうけて国民保険法など多くの社会改革をおこない,労働者の地位を改善させた。しかし,保守党の勢力が強い上院が改革に抵抗したので,政府は11年に議会法を成立させて,下院の優位を確定したA。
 自由党内閣はまた,懸案であったアイルランド自治法を1914年に成立させた。しかし,イギリス人が多数を占める北アイルランド(アルスター)は自治法に反対し,アイルランド独立を主張するシン=フェイン党との対立が激しくなった。このため,政府は第一次世界大戦の勃発を理由に,自治法の実施を延期した。


@ フェビアン協会は1884年知識人を中心に設立された社会主義団体で,バーナード=ショウやウェッブ夫妻などが活躍し,その社会主義はフェビアン社会主義とよばれた。
A 上院は以後,予算案などの支出をともなう法案を否決できず,下院を連続3期通過した法案を拒否できないことになった。

●フランス●
 フランスは,工業化ではドイツやアメリカに追いぬかれたが,資本力が強く,銀行は国外投資によって利益をあげた。第三共和国憲法成立(1875年)後,80年代から海外侵略を強め,インドシナやアフリカに,イギリスにつぐ大植民地をつくりあげた。
 国内では,普仏戦争の敗北から回復すると,ドイツに対する報復の主張や共和政に対する攻撃が,ブーランジェ事件@やドレフュス事件Aとなってあらわれた。政府は世論の支持をうけて,これをしりぞけた。
 その後も,左右両派の抗争が続き,労働運動のなかにも労働組合の直接行動によって革命をめざすサンディカリズムが広まったが,1905年フランス社会党が成立し,また同年政教分離法も発布されて,共和国は安定した。しかし,ドイツに対する警戒心は強く,露仏同盟や英仏協商を結んで対抗した。


@ 元陸相ブーランジェが,右翼に支持されて1889年政権を奪取しようとして失敗した事件。
A ユダヤ系の軍人ドレフュス大尉は,ドイツのスパイとして軍法会議で終身刑を宣告された。しかし,真犯人が判明し,作家のゾラなどを中心に世論が軍部の権威主義や反ユダヤ主義的傾向を批判し,再審を求め,最終的には1906年ドレフュスは無罪となった。この事件で軍部は信用を失った。

●ドイツ●
 1888年,ドイツでは皇帝ヴィルヘルム2世が即位した。皇帝は親政への意欲が強く,ビスマルクの主張するロシアとの再保障条約の更新や社会主義者鎮圧法の延長にも反対したので,ビスマルクは90年に辞職した。このころ,ドイツの資本主義の発展はめざましく,石炭業ではイギリスにせまり,製鉄・紡績・化学工業ではイギリスをしのぐ勢いとなり,貿易でもイギリスの地位をおびやかした。この経済力を背景に,ヴィルヘルム2世は,「世界政策」の名のもとに積極的な帝国主義政策をとり,海軍の大拡張をはかって,イギリスに挑戦した。
 国内では,専制的な政治体制に反対して,民主主義を求め,社会主義をめざす労働運動が広まった。ドイツの社会主義運動はラサールによって1860年代からはじめられたが,その後ベーベルらのマルクス主義の運動もおこり,75年両者は合同して,のちのドイツ社会民主党がうまれた。社会民主党はビスマルク時代には社会主義者鎮圧法によって活動をおさえられたが,90年に同法が廃止されてからは急速に発展し,1912年には議会第1党になって,他国の社会主義政党の模範とされた。社会民主党はマルクス主義にもとづく社会主義革命を目標としていたが,19世紀末から,党内には議会主義による社会改良を主張するベルンシュタインらの修正主義があらわれた。

●ロシア●
 1861年の農奴解放は,不十分ながら,ロシアの資本主義発展の基礎をつくった。ロシアの資本主義は1890年代に入るとフランス資本の援助によって著しく発展し,都市では大工業が急速に成長した。しかし,工業や銀行の多くは外国資本の手ににぎられ,工場での労働条件は劣悪であった。国内市場のせまいロシアは,シベリア鉄道の建設を進めるなど,アジアやバルカン方面に進出しようとした。この間,工場労働者を基盤としたマルクス主義運動も広まり,98年にはロシア社会民主労働党の結成が宣言された。政府はこの運動を禁圧したので,その有力指導者は国外に亡命した。
 社会民主労働党は1903年,レーニンのひきいるボリシェヴィキと,マルトフ・プレハーノフのひきいるメンシェヴィキとに分裂した@。このほかロシアにはナロードニキの流れをくむ社会革命党があった。一方,有産階級の自由主義者は,議会政治による国政改革をめざした。これがのちに立憲民主党の創設にいたった。こうして,ロシアの現状打開の声は高まった。
 1905年日露戦争の戦況が不利になると,国民の不満はいっそう高まり,血の日曜日事件をきっかけとして革命(第1次革命)へと発展した。革命を進める労働者の自治組織としてソヴィエトAが結成され,農民も蜂起し,海軍の一部でも反乱がおこった。自由主義者も改革を求めたので,皇帝は譲歩して十月宣言を発し国会(ドゥーマ)を設け,自由主義的改革をめざすヴィッテ(ウィッテ)を首相に登用した。
 しかし,国会は立法権が制限され,選挙制度も不備であったうえ,皇帝ニコライ2世は蜂起を鎮圧して自信を持ち,まもなく反動政治がふたたび強まった。
 その後ストルイピンが首相となって,農村共同体(ミール)を解体しB,富農を育成して,帝政の新しい支持層をつくりだそうとする土地改革をめざしたが,中途で挫折した。これによってかえって農村内部の階層間の対立は激化し,社会不安が増大した。政府は国民の不安をそらすために,バルカン方面への南下政策を強め,国際緊張を高めた。


@ ボリシェヴィキ(ロシア語で「多数派」の意)は,党を労働者・農民を基礎とする少数の革命家の集団としようとしたのに対し,メンシェヴィキ(「少数派」の意)は,広く大衆に基礎をおき,中産階級とも妥協して漸進的に革命を進めようとした。
A ロシア語で,「会議」あるいは「評議会」の意。
B 農村共同体は農奴解放後も残り,ここを革命の拠点にしようとする考えもあった。

●アメリカ●
 アメリカの経済は南北戦争後いっそう拡大し,その工業力は19世紀末には世界の首位にたつまでになった@。国内のフロンティアが消滅するにつれ,海外進出をとなえる帝国主義的傾向が登場した。共和党のマッキンリー大統領は,産業保護のために高関税政策をとり,対外的にはハワイを併合し,米西戦争によってフィリピン・グアム島を領有した。さらに1899年には,国務長官ジョン=ヘイが門戸開放通牒を発して,中国市場参入をめざした。
 ついで大統領となった共和党のセオドア=ローズヴェルト(ルーズヴェルト)は,進歩主義(革新主義)の立場をとり,反トラスト法(1890年制定)を発動して,資本家のゆきすぎをおさえ,社会改革につとめた。また,1904年パナマ運河の工事に着手した。1913年に大統領となった民主党のウィルソンは,その政策を引きつぎ,「新しい自由」をとなえ,反トラスト法の励行,関税引き下げなど,一連の改革によって国民の利益を増進しようとした。


@ このような繁栄とともに資本家による産業独占の弊害も進んだので,各種の労働組合組織がうまれ,1886年にはアメリカ労働総同盟(AFL)が結成された。

●ラテンアメリカ諸国●
 メキシコ以南のラテンアメリカ諸国のほとんどは農業国であり,農村では封建的な大土地所有者が支配し,貧富の格差は非常に大きかった。また,民族構成が複雑で,民主的自治の伝統を持たないため,独立後も政情が不安で,政変も多く,国際紛争にもなやまされた。メキシコや中央アメリカでは,はやくからアメリカ合衆国が経済的に進出し,南アメリカでは19世紀末までイギリスが市場を支配していた。
 ラテンアメリカ諸国の団結と共同防衛をめざす会議は,1826年シモン=ボリバルの提唱でひらかれたのちも,何度かこころみられた。1889年,アメリカ合衆国の主催でパン=アメリカ会議がはじめてひらかれ,これ以降アメリカ大陸の問題では合衆国の主導性が強くなった。合衆国は,1898年の米西戦争,1902年の英・独のベネズエラ干渉の調停などによって,ヨーロッパ列強をこの地域から排除した。他方,合衆国は米西戦争で独立したキューバの憲法に,自国の干渉権を規定したプラット条項(プラット修正)をいれさせて事実上の保護国としたり,1903年にはパナマを独立させ,パナマ運河を完成させた(1914年)が,運河地帯を支配下におくなど,強引なカリブ海政策@を実行した。
 メキシコは,1860年代にナポレオン3世の出兵をうけたが,大統領フアレスは,アメリカ合衆国の援助でこれをしりぞけ,国内改革につとめた。つぎのディアスは独裁者となり,外資導入によって近代化をはかったが,貧富の差をかえって増大させた。1910年,自由主義者マデロ,農民指導者サパタらが革命をおこし,ディアスを追放した。その後,革命派の内部で抗争が続いたが,1917年,勤労者の権利や政教分離をうたい,大統領に強力な権限をあたえた民主的憲法が制定された。これがメキシコ革命であり,メキシコの近代化の出発点となっただけでなく,他のラテンアメリカ諸国にも大きな影響をあたえた。


@ セオドア=ローズヴェルトのカリブ海政策は,軍事力を誇示してたびたび中米諸国への武力干渉をおこなったので「棍棒外交」とよばれた。また,つぎのタフト大統領は,ラテンアメリカ諸国の債務を合衆国が肩がわりし,経済力をてこに干渉したので「ドル外交」とよばれた。
2 アフリカ・太平洋諸地域の分割

●列強のアフリカ分割●
 19世紀前半まで,ヨーロッパ人は北アフリカとインド航路の港や砂金・奴隷取引所など沿岸部のほかは,アフリカに関する知識をほとんど持たなかった。19世紀なかごろ,リヴィングストンやスタンリーが中央アフリカを探検して事情を伝えると,列強はようやくこの宝庫に注目し,侵略をくわだてるようになった。1880年代に,中央アフリカをめぐってイギリスとフランスが対立したのを機会に,ドイツのビスマルクは欧米14カ国の代表をまねいて,84〜85年にベルリン会議(コンゴ会議)をひらき,アフリカ分割の原則を定めた。これ以後,列強はアフリカに殺到し,またたく間にその大部分を分割した。
 イギリスは,スエズ運河@の株式の過半数をえたのち,エジプトの内政に干渉し,アラービーの反乱を鎮圧して,エジプトを事実上の保護下においた。さらに,イギリスのスーダン侵入に対しておこったマフディー派の抵抗Aをおさえて,1899年にはエジプト=スーダンを征服した。アフリカ南部では,セシル=ローズがケープ植民地を根拠地として周辺に進出した。さらにイギリスは1899年からブール(ボーア)人とたたかって(南ア戦争<ブール戦争>),トランスヴァール・オレンジ両国を征服したB。さらに1910年には,従来の植民地にこの両国を加えて南アフリカ連邦を組織し,自治領とした。こうして,アフリカの南北をおさえたイギリスは,ケープタウン・カイロをつなごうとした。これにインドのカルカッタを結びつけようとするイギリスの政策を3C政策という。
 フランスは,19世紀前半アルジェリアを攻略し,1881年チュニジアを保護国としたのち,さらに南進して広大なサハラ砂漠を占領し,ジブチ・マダガスカルとの連絡をめざし,大陸を横断しようとした。このため,イギリスの縦断政策と衝突して,1898年ファショダ事件がおこったが,フランスの譲歩によって解決した。その後,両国はドイツの脅威に対抗するため,1904年イギリスはエジプトで,フランスはモロッコでそれぞれ優越権を持つことを認めあい,英仏協商を成立させた。
 ドイツは1880年代なかば,アフリカ東部と西部・西南部にカメルーンなどの植民地を獲得したが,20世紀に入るとさらに植民地の拡大をめざし,1905年と11年の2度にわたってモロッコ事件をおこしたC。しかし,いずれの場合もイギリスがフランスを支援したため失敗におわり,モロッコは1912年に正式にフランスの保護国になった。
 イタリアは,1880年代にソマリランド・エリトリアを得,エチオピアをねらったが,96年アドワの戦いでエチオピア軍に敗れて失敗した。しかし,1911〜12年にはトルコとたたかってリビア(トリポリ・キレナイカ)をうばった(イタリア=トルコ戦争)。
 また,コンゴ地方には,スタンリーの探検を援助したベルギー国王レオポルド2世の所有地としてコンゴ自由国ができたが,1908年ベルギー領となった。
 こうして20世紀初めには,エチオピア帝国とリベリア共和国Dをのぞいて,アフリカはすべて列強による人為的境界に分断・支配され,そのもとで原料や資源の調達地,商品市場,戦略基地の役割を負わされることになった。


@ スエズ運河は,1869年,フランス人レセップスの努力により開通した。全長 160km。
A マフディー軍は1885年ゴードンにひきいられたイギリス軍をハルツームで破って,イギリス軍の侵入を一時阻止し,帝国主義諸国に衝撃をあたえた。
B ブール人はケープ地方のオランダ人植民者の子孫で,ケープ植民地がイギリス領になってから北進して,オレンジ自由国とトランスヴァール共和国をたてたが,両国にそれぞれダイヤモンドと金が発見されるにおよび,イギリスの侵略がおこり戦争となった。
C ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は,1905年タンジールに上陸し,フランスのモロッコ進出に反対して列国会議の開催を要求した。その結果,翌06年アルヘシラス会議がひらかれたが,列国がフランスを支持したのでドイツの主張はいれられなかった。その後も独・仏の対立はやまず,1911年ドイツはアガディールに軍艦を派遣して威嚇したが,けっきょく独仏協定により,ドイツはフランス領コンゴの一部の獲得を代償に,フランスのモロッコ保護権を認めた。
D リベリアは,解放された黒人奴隷をアメリカ植民協会が入植させて,1847年に独立させた共和国である。

●列強の太平洋諸地域分割●
 太平洋地域には,16〜17世紀以来のスペイン・ポルトガル・オランダの進出に続き,18世紀にはイギリスが,19世紀に入るとフランス・ドイツ・アメリカが進出した。
 オーストラリアは,17世紀なかごろオランダ人タスマンの調査によってヨーロッパに知られていたが,18世紀後半,クックの太平洋探検の結果,イギリス領となった。はじめはイギリスの流刑植民地であったが,自由移民もあって人口は増加し,19世紀なかごろの金鉱発見後,急速に発展した。1901年にはオーストラリア連邦となった。イギリスはさらにニュージーランド・北ボルネオ・ニューギニアの一部を領有した@。ニュージーランドは1907年に自治領となった。
 スペインは国力がおとろえ,16世紀以来の植民地フィリピンの統治にも失敗し,島民の反乱になやまされた。フィリピンでは,1898年アギナルドが独立を宣言したが,アメリカ合衆国は98年の米西戦争の勝利の結果,フィリピン・グアム島を獲得し,さらにカリブ海のプエルトリコもえて,キューバを独立させた。また同年ハワイを併合した。
 おくれて進出したドイツも,1880年代以降,ビスマルク諸島(メラネシアに属する),カロリン・マリアナ・マーシャル・パラオの諸島(ミクロネシア)を獲得した。そのほか,南太平洋に散在する諸島(メラネシア・ポリネシア)も,20世紀初めまでに,イギリス・フランス・アメリカによって分割領有された。


@ オーストラリアでは,先住民のアボリジニーが開発とともに奥地に追われ,ニュージーランドでもマオリ人の抵抗は武力で打ち破られた。
3 アジア諸国の変革と民族運動

●中国利権の争奪●
 清が日清戦争に敗北すると,鉱山採掘や鉄道敷設などの利権を獲得しようとしていた欧米諸国は,争って自国の勢力範囲拡張にのりだした。シベリア鉄道の建設を進め,南進の機会をねらっていたロシアは,その先頭にたった。ロシアは,まず,日本が下関条約によって「東半島を獲得すると,ロシアと同盟関係にあったフランス,中国分割の野心を持つドイツをさそって日本に干渉し(三国干渉),これを清に返還させた。ロシアが,その代償として清からえたのは東清鉄道の敷設権(1896年)であった。
 また,ドイツが宣教師殺害事件を口実に1898年,膠州湾を租借すると,同年,ロシアは「東半島南部を,イギリスは威海衛@・九竜半島Aを租借し,フランスは翌99年広州湾を租借した。そのうえ,ロシアは東北地方,ドイツは山東地方,イギリスは長江流域と広東東部,フランスは広東西部と広西地方,日本は台湾の対岸にあたる福建地方での利権の優先権を清に認めさせ,各国の勢力範囲を定めた。
 当時,アメリカは,米西戦争でフィリピンとグアム島を獲得し,中国市場への関心を高めていた。このため,アメリカは,1899年に国務長官ジョン=ヘイの名で,中国の門戸開放・機会均等を,1900年には領土保全を提唱し,各国に通告した。この結果,各国は,これに同意し,中国分割の矛先をゆるめた。同時にアメリカは,でおくれていた中国市場への進出をはたした。


@ 山東半島東北岸にある。イギリスは東洋艦隊の基地としたが,1930年中国に返還された。
A 九竜半島と付属の33島をふくみ,これを新界といった。

●変法運動と義和団事件●
 日清戦争の敗北は,中国の知識人層に危機感をもたらした。ことに若い知識人たちは,これまでの洋務運動のあり方を批判し,日本の明治維新にならって欧米の政治制度をとり入れる必要があるとして立憲運動(変法運動)をおこした。その中心人物は,公羊学派の康有為である。彼は,1898年,光緒帝を動かして政治の革新を断行させた(戊戌の変法)。しかし改革に反対する保守派は,西太后と結んでこれを弾圧した。光緒帝は幽閉され,康有為や梁啓超らは失脚して亡命し,新政はわずか3カ月あまりでおわった(百日維新)。これを戊戌の政変という。以後の清朝では,西太后のもとで保守派が政治を左右するようになった。
 同じころ,中国社会では,民衆の排外運動が激化していた。さきの北京条約でキリスト教の布教が公認され,教会が奥地にまでたてられるようになると,中国の地方官憲や民衆と,宣教師・信徒とのあいだで争いがあいついだ(仇教運動)。また洋務運動の進展による諸施設の建設や,日清戦争後の諸外国による露骨な中国干渉は,民衆の排外感情を高めた。
 こうした形勢のなかで,山東からおこった義和団を中心とする排外運動は,1900年になると北京・天津にせまり,「扶清滅洋」をさけんで外国人と外国文化を中国から一掃しようとして鉄道や教会を破壊し,宣教師や信徒を迫害した。清朝の保守排外派は,この運動を利用し,各国に宣戦を布告した。各国は在留外国人の保護を名目に共同出兵にふみきった。日本とロシア軍を主力とする8カ国の連合軍は北京を占領し,在留外国人を救出した。これを義和団事件という。1901年,敗れた清は北京議定書(辛丑和約)に調印し,巨額の賠償金の支払い,外国軍隊の北京駐屯,北京周辺の防備撤廃などを認めた。以後,外国の中国に対する干渉はさらに強まり,中国の半植民地化を深めた。

●日露戦争●
 義和団事件で,中国東北地方に大軍をおくったロシアは,事件後も撤兵せず,朝鮮への圧力をも強めた。日清戦争後の朝鮮は,1897年に国号を大韓帝国とし,高宗李太王は皇帝の称号を用い,朝鮮が独立国であることを明示した。しかし,諸外国による利権の獲得は激しくなり,ロシアと日本の干渉による政治上の内部争いも加わって,動揺が続いた。
 ロシアを警戒する日本は,極東で共通の利害を持つイギリスと1902年に日英同盟を結んだ。当時,ロシアの行動を不快としていたアメリカも日本に好意的であった。日本は両国の経済的援助を背景に対露強硬策をとって,1904年の日露戦争となった。日本は,奉天会戦や日本海海戦などで連勝したが長期戦に耐えられるほどの経済力はなかった。ロシアもまた,第1次革命の勃発などで国内不安を増していた。このため,両国は,アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの調停で,1905年にポーツマス条約を結んだ。条約により,日本は韓国の指導・監督権,「東半島南部の租借権,南満州鉄道@の利権,北緯50度以南の樺太(サハリン)の領有権,沿海州の漁業権などをえた。この日本の勝利は,欧米列強の支配下にあった諸民族を刺激し,彼らの民族的自覚を高めた。
 戦後,日本とイギリスとは日英同盟を維持しながら,それぞれロシアと1907年に日露協約・英露協商を結んだ。このためアメリカは極東で孤立するようになり,日本への友好感情は冷却して,対立が強まった。アメリカで日本移民の排斥問題がおこったのは,このころからである。


@ 東清鉄道の支線で,日本が利権をえたのは長春・旅順口間である。

●日本の韓国併合●
 日露戦争中から,日本は3次にわたる日韓協約(1904,05,07)を結び,韓国への干渉を強化していた。ことに第2次協約では日本政府を代表する統監@をソウルに常駐させて外交を監督させることとし,第3次協約で内政に干渉するようになり,韓国軍を解散させたりした。こうした日本の干渉に対し,朝鮮の民衆は各地で激しい反日義兵闘争を展開したが,日本は武力でこれを弾圧し,1910年に同国を併合して(韓国併合)日本の領土とし,朝鮮総督府をおいて統治した。


@ 初代韓国統監の伊藤博文は韓国併合を推進し,1909年ハルビンで安重根に暗殺された。

●辛亥革命と中華民国の成立●
 義和団事件後の清朝は,官制を改め,科挙を廃止する(1905年)などの改革を進めた。また1905年には立憲準備にふみきり,08年に憲法大綱を発表するとともに8年後の国会開設を公約した。当時,国内では中国人の投資する紡績業などの発達を背景に民族資本家が成長し,外国資本の進出に対する利権回収運動を進めていた。彼らは,清朝の立憲準備に対しては,国会の即時開会を求めた。一方,海外では,華僑や留学生を中心に,清朝の支配を打倒して,漢民族の主権国家をつくろうとする革命運動がさかんになっていたが,統一性はなかった。革命諸団体の結集をはかったのは興中会@を指導する孫文で,彼は1905年,日本の東京でこれを実現し,中国同盟会を組織した。また孫文は,民族の独立,民権の伸張,民生の安定をめざす三民主義をとなえ,4大綱領Aをかかげて,組織的な革命運動を展開した。
 1911年,清朝は,責任内閣制をとったが,その構成は満州人貴族を中心としていた。また財政策としてうちだしたのは,外国借款Bによる幹線鉄道の国有化であった。民族資本による利権回収と民営化に逆行するこの政策に,各地で反対運動がおこり,四川では暴動に発展した。こうした形勢のなかで,10月10日に武昌(湖北省)の軍隊が革命の火の手をあげると(辛亥革命,第1革命),たちまち各省に広がり,1カ月のあいだに大部分の省が独立した。革命軍は,帰国した孫文を臨時大総統に選出して,1912年1月,南京で中華民国の建国を宣言し,当時,世界でも数少ない共和政の国家をたてた。中華民国は,清朝の領有していた漢・満・蒙・蔵・回の諸民族が居住する地域を中華民国の領土とした。
 清朝は,革命がおこると,これに対処するため,当時,下野していた北洋軍の実力者袁世凱を起用して軍・政の全権を付与したC。彼は,革命軍に戦争継続の力がないのをみて,清帝の退位を条件に,みずから臨時大総統につくことを革命側に承諾させた。1912年2月,宣統帝溥儀は退位し,清朝による中国支配はおわった。同年3月,袁世凱は北京で臨時大総統に就任し,臨時約法を公布した。
 中華民国が成立すると,中国同盟会は内部分裂をおこした。孫文らは,あらたに国民党を組織して議会勢力の確立をめざし,1913年初めの選挙に大勝した。これに対し,袁世凱は外国借款と御用政党の組織とをもって勢力をかため,国民党を弾圧した。このため第2革命がおこったが,袁はこれを鎮圧し,同年正式大総統となり,国民党を解散させた。ついで彼は,みずから帝位につこうとして1915年12月,翌年からの帝政復活を宣言した。このため,袁の帝政に反対する第三革命が雲南からおこり,諸外国も帝政に反対した。内外からの反発をうけた袁は,翌16年3月,これをとり消したが,まもなく病死した。しかし,革命勢力はまだ弱く,袁の死後は,帝国主義諸国の支援をうけた軍閥諸勢力が北京をはじめ各地に分立して,たがいに抗争する不安定な軍閥政権時代が10数年にわたって続いた。


@ 孫文が,1894年にハワイで華僑を中心に組織した政治的秘密結社。
A 駆除韃虜(満族の清王朝打倒の意),恢復中華,創立民国,平均地権の四つをいう。
B 1910年,英・米・独・仏の4カ国の銀行による4国借款団が結成されており,鉄道借款を中心としていた。
C 彼はこのとき,袁内閣を組織している。

●インドの民族運動●
 インド帝国の成立以後,茶のプランテーションや鉄道の建設などを中心にインドの開発は進んだ。しかし,それはイギリス本国の利益を優先する植民地経済であり,インド民衆の生活向上には役立たなかった。インドではシパーヒーの反乱以後,大規模な反英武力蜂起はなかったが,やがて政治・社会・経済上の不合理に気づいたインド人は,民族的自覚をめざす啓蒙運動をおこすようになった。
 こうして1885年,インド国民会議がボンベイでひらかれた。集まったのは,イギリスに協調的な知識人や地主・商人が中心@であったが,その後,日露戦争での日本の勝利などに刺激され,民族的自覚はさらに高まった。1905年イギリスがイスラム・ヒンドゥー両教徒の分離をはかるベンガル分割令を公布すると,インドの民族運動は激化し,翌06年ティラクらを中心とするカルカッタの国民会議で,英貨排斥・スワデーシ(国産品愛用)・スワラージ(自治獲得)・民族教育の4綱領を決議した。イギリスは,親英的な全インド=ムスリム連盟の結成(1906年)を支援して国民会議派と対抗させたり,1911年に分割令をとり消したりしたが,民族運動は年とともに成長していった。


@ これらの参加者の多くは,ヒンドゥー教徒であった。

●東南アジアの民族運動●
 ヴェトナムは1883年以来フランスの保護国とされていたが,20世紀に入るとファン=ボイ=チャウらは維新会を結成し,フランス支配からの脱却を求めて日本へ留学生を派遣する東遊運動をおこした。フランスは日仏協約(1907年)を結んで日本にとりしまりを求めたが,維新会の活動はヴェトナム光復会にうけつがれた。
 インドネシアでは1911年イスラム同盟(サレカット=イスラム)が結成され,オランダからの独立を求める民族運動の中心となった。また,フィリピンではホセ=リサール@やアギナルドらがスペインからの独立運動を指導し,米西戦争後はアメリカからの独立運動へと発展した。


@ 彼は,1892年フィリピン民族同盟を結成して,文化・経済の向上をはかった。

●西アジアの民族運動と立憲運動●
 ヨーロッパ諸国の進出と「東方問題」の激化は,西アジア諸国の民衆に民族の自覚をうながし,イスラム教徒としての連帯の必要性を痛感させた。各地で民族主義とパン=イスラム主義を説いたアフガーニーの思想は,エジプトのアラービー運動やアブデュル=ハミト2世のパン=イスラム主義政策に大きな影響をあたえた。しかしトルコでは,1878年の憲法停止に不満な青年たちが,スルタンの専制政治に反対して「青年トルコ」(統一と進歩委員会)を結成して首都に進軍し,1908年政府にせまってミドハト憲法を復活させ(青年トルコ革命),政権をにぎった。しかしその後,内外の情勢の変動にともない内閣は反動化し,政局は不安定であった。
 カージャール朝のイランでは,19世紀末から,アフガーニーの影響をうけてタバコなどの外国利権に抵抗するタバコ=ボイコット運動を展開していたが,やがて立憲運動を進め,1906年に立憲革命が成功した。しかしイギリス・ロシアの干渉で1911年議会はとざされた。
第16章 二つの世界大戦

 第一次世界大戦は,英・独をそれぞれの中心とする帝国主義陣営による植民地争奪をおもな争点として勃発した。戦争が長期化すると,参戦各国は経済・社会に対して国家の統制を強める総力戦体制をとり,植民地からも兵員や物資を動員して世界各地を戦争にまきこんだ。大戦中におこったロシア革命は,長期戦がもたらした惨禍に対して民衆が講和への願望,専制への反対を表明したものであった。アメリカ合衆国のウィルソン大統領は「十四カ条の原則」を発表して,あたらしい国際平和秩序建設の構想を示した。
 戦後のパリ講和会議では,「十四カ条原則」にもかかわらず,英・仏などの列強が植民地や勢力圏の配分や調整を優先し,ドイツに対して過酷な制裁を課した。一方,戦勝列強は革命ロシアに対する干渉戦争をおこなって,革命の拡大をくいとめようとした。民族自決の原則もヨーロッパに限定されたため,アジア・アフリカでは民族運動が民族資本家やコミンテルンの協力もえて高揚した。こうしてうまれたヴェルサイユ体制は,ドイツとソ連の排除,アメリカの不参加という問題をかかえていたが,ロカルノ条約が結ばれて一時安定した。アジアでは大戦中から日本の大陸進出や軍備強化が露骨になり,それに反発する民族運動がおこると,アメリカはワシントン会議を開催して,アジア・太平洋地域の安定をはかった。
 1929年,アメリカからはじまった世界経済恐慌は資本主義国の経済を麻痺させ,各国は経済たてなおしに全力をあげた。アメリカはニューディール政策を進め,英・仏はブロック経済体制をとって危機のりきりをはかった。一方,独・伊・日などの後発資本主義国はファシズム・全体主義体制をとり,戦後の国際体制を破壊して,軍事力による領土拡大をねらった。これに対して,ヨーロッパでは反ファシズム運動が展開され,アジア諸国では独立と解放をかかげる民族運動の抵抗が強まったが,西欧諸国とソ連との不一致もあって,独・伊・日の侵略はやまず,ついに1939年第二次世界大戦を引きおこした。

1 第一次世界大戦とロシア革命

●国際対立の激化●
 ヨーロッパ列強の対立は,ドイツが「世界政策」をかかげて世界分割に加わり,さらに再分割を要求したため,いっそうきびしくなった。1890年にドイツでヴィルヘルム2世の親政がはじまると,皇帝はロシアとの再保障条約の更新を拒否して,対外行動の自由をえようとした。そのためロシアは,ドイツ・オーストリアに対抗し,工業化の資本をえるためにも,フランスに接近し,露仏同盟(1891〜94年に成立)を結んだ。その後ドイツは近東に関心をむけ,ベルリン・ビザンティウム(イスタンブル)・バグダードを結ぶいわゆる3B政策をとってバグダード鉄道の建設を進め,イギリスの3C政策に対抗した。また,海軍力をつぎつぎと拡張してイギリスをおびやかした。
 イギリスはそれまで世界帝国として,どの国とも同盟を結ばず「光栄ある孤立」をほこっていたが,ロシアの南下をおそれて1902年日本と日英同盟を結び,ドイツに対抗するため04年フランスとのあいだで英仏協商を成立させた。ロシアも東アジアでの南下政策を日本に阻止されたため,バルカン方面での進出に転じ,ドイツ・オーストリアと衝突するようになった。その結果,ロシアはイギリスと和解し,1907年英露協商@が成立した。ドイツ・オーストリアを共通の敵とし,植民地などの既得権をまもろうとする英・仏・露3国間のこうした協力関係を三国協商とよぶ。
 イタリアは三国同盟の一員であったが,「未回収のイタリア」をめぐってオーストリアと対立し,フランスに接近した。オーストリアは領内に多くのスラヴ系民族をかかえ,パン=スラヴ主義の影響をおそれていた。そのため,セルビアなどバルカン半島のスラヴ系諸国をおさえる目的で,ドイツの支援のもとにバルカン半島への勢力拡大をねらっていた。
 1908年オスマン帝国(トルコ)に青年トルコ革命がおこり,ブルガリアが独立宣言をだすとオーストリアはこれに乗じて管理下のボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合したA。
 1912年,ロシアの支持のもとに,セルビアなどバルカン4カ国間にバルカン同盟が結ばれ,イタリア=トルコ戦争に乗じて領土拡張をねらってトルコに宣戦した(第1次バルカン戦争)。トルコは敗れたが,獲得した領土の分配をめぐってブルガリアとバルカン同盟の3国とのあいだでふたたび戦争がはじまり,トルコ・ルーマニアもブルガリアを攻撃した(第2次バルカン戦争)。ブルガリアは敗北して,三国同盟に接近した。勢力をのばしたセルビアとそれに反発するオーストリアとの関係は,それぞれパン=スラヴ主義とパン=ゲルマン主義をかかげて,さらに悪化したB。


@ イランにおける両国の勢力範囲を定め,アフガニスタンをイギリスの勢力範囲とし,チベットでの中国の主権を認めたものである。
A この2州の住民はスラヴ系で,セルビアがパン=スラヴ主義のもとにおさめようとしていた地域であった。
B ヨーロッパ列強の利害を背景とする民族主義的対立の激しさのため,バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」とよばれた。

●第一次世界大戦●
 1914年6月28日,オーストリアの帝位継承者夫妻がボスニアの首都サライェヴォでセルビア人によって暗殺された。オーストリアはドイツの支持をえて,7月28日セルビアに宣戦した。列強は同盟・協商関係にしたがってつぎつぎと参戦し,ドイツ・オーストリアなどの同盟国側と,フランス・ロシア・イギリス・日本などの連合国側とにわかれてたたかうことになった。その後,トルコ・ブルガリアが同盟国側について参戦し,イタリアは中立ののち,1915年,連合国とロンドン秘密条約@を結んで,三国同盟をはなれ,連合国側にたって参戦した。開戦とともに,それまで戦争に反対していた第2インターナショナルの各国社会主義政党の多くは自国政府の戦争政策を擁護し,国民も政府を支持したので,主要参戦国には挙国一致体制が成立した。
 戦況は,まずドイツ軍がベルギーの中立をおかして北フランスに侵入し,パリをめざしたが,マルヌの戦いで阻止され,西部戦線は膠着状態におちいった。この状態を破るために,ドイツ軍は1916年にヴェルダン要塞を攻撃し,また連合軍は同年ソンムで反撃したが,いずれも失敗した。東部戦線では,ドイツ軍がロシア軍をタンネンベルクの戦いで破ったのち,ロシア領内に進撃した。両陣営とも戦況を打開するため,毒ガス・航空機・戦車などの新兵器を投入したため,死傷者の数は増大し,戦場はいっそう悲惨なものになった。
 海軍力にまさる英・仏はドイツの経済封鎖を実施し,ドイツと海外との貿易を断った。それに対してドイツはもっぱら潜水艦で通商路を攻撃し,イギリスを孤立させようとした。アメリカは中立をまもっていたが,1917年ドイツが無制限潜水艦作戦Aをはじめると,同年4月ドイツに宣戦した。ドイツ国内では1917年以降になると,食料不足が深刻になり,国民のあいだに食料暴動や反戦運動がおこってきた。
 1918年3月,ドイツはロシア革命政府と単独講和を結び,同年春から西部戦線で大攻勢にでたが,連合軍に反撃されて退却に転じた。この年の秋にはブルガリア・トルコが降伏し,オーストリアも単独で休戦条約を結んだ。ドイツも休戦交渉を求め,休戦条件を有利にするため,国政改革によって本格的な議会政治をしいて帝政を維持しようとしたが,11月初めキール軍港で即時講和を求める水兵が蜂起したのを機に,革命が国内に広がった。皇帝はオランダに亡命し,帝国内の連邦各君主も退位して,共和国が成立した(ドイツ革命)。1918年11月11日,共和国政府は連合国と休戦条約を結び,大戦はおわった。
 第一次世界大戦は,ヨーロッパ列強の植民地再分割をめぐる帝国主義戦争としてはじまり,アジア・アフリカの植民地にも拡大した。短期戦の予想に反して戦争が長期化すると,多くの参戦国は戦争遂行のために経済を再編成し,女性を軍需工場に動員し,食料を配給制にするなど国民の生活を直接まきこむ総力戦体制に移行した。この結果,経済・国民生活に対する国家の指導力は増大し,この傾向が戦後にも引きつがれた。また,イギリス・フランスなどは植民地から資源や労働力・兵員の支援を求めたので,こうした地域の人々の民族的自覚を強めることにもなった。
 戦争に勝利して,列強としての地位を維持あるいは強化しようとする展望しか持たなかったヨーロッパ諸列強に対し,大戦後半からは,革命ロシアとアメリカがそれぞれあたらしい戦後国際秩序の理念をかかげて登場し,それまでのヨーロッパ中心の列強体制は大きくゆらぎはじめた。


@ イタリアが連合国側にたって参戦することの見返りに,連合国が戦後の講和条約で「未回収のイタリア」・アドリア海沿岸地域の割譲,植民地の拡大をイタリアに約束した条約。こうした戦後の領土分配に関する秘密のとりきめや約束は,そのほかトルコ領の分配に関する英・仏のサイクス=ピコ協定や,それとあい反する内容を持つパレスチナに関するバルフォア宣言などがあり,その後の紛争の原因となった。
A ドイツの指定する航路以外を通る船舶を,潜水艦が無警告で攻撃することを宣言した作戦。

●ロシア革命●
 専制政治のもとで近代化がおくれていたロシアの国家体制は,大戦がはじまるとたちまちその弱点をあらわし,ドイツ軍の前に敗退をかさねた。そのため,兵士の士気はおとろえ,軍紀も乱れ,国内でも物資が不足して,国民の生活基盤は破壊され,労働者のあいだで戦争を続ける政府への批判的空気が強まった。1916年夏には,動員を命じられた中央アジアの諸民族のあいだでもそれに反対する蜂起がおこった。1917年3月8日,首都ペトログラード@で大規模なストライキ・デモがおこると,たちまち各地に広がり,軍隊もそれに加わるようになった。労働者・兵士はソヴィエトを組織し,これが革命の推進力となった。皇帝ニコライ2世はとらえられて退位し,ロシアの帝政はあっけなく崩壊した。これが三月革命(ロシア暦Aでは二月革命)である。
 社会革命党とメンシェヴィキは,自由主義者と協力して,立憲民主党を主体とする臨時政府を樹立した。しかし,労働者・兵士が結集するソヴィエトは,なお活動を維持して政府の動向を監視していたので,不安定な二重権力状態が続いた。臨時政府は普通選挙にもとづく議会を招集することを決めたが,戦争は継続した。その後,4月にレーニンが帰国するとB,ソヴィエト内のボリシェヴィキの勢力は増大し,政府の方針と対決した。あらたに首相となったケレンスキーは,ボリシェヴィキをおさえようとしたが,9月帝政派の反革命軍が首都をおびやかしたので,ボリシェヴィキに援助を求め反革命軍を平定した。ボリシェヴィキの勢力は全国に広まり,11月7日,レーニン・トロツキーらは,武装蜂起を指導して政府を倒し,権力をにぎった。翌8日,全ロシア=ソヴィエト会議で新政権の成立が宣言され,全交戦国に無賠償・無併合・民族自決の原則による講和をよびかけた「平和に関する布告」や「土地に関する布告」が採択された。これが十一月革命(ロシア暦では十月革命)である。


@ 戦争開始後,ペテルブルクを改称してペトログラードとなった。さらに第一次世界大戦後レニングラードとなったが,1991年に旧名のサンクト=ペテルブルクにもどされた。
A ロシアでは,革命までユリウス暦を使用していた。これがロシア暦で,グレゴリ暦より13日おくれていた。
B レーニンは亡命先のスイスから帰国して,四月テーゼとよばれるボリシェヴィキの基本方針を発表して,臨時政府を批判し,革命をさらに進める必要を説いた。

●ソヴィエト政権の成立と干渉戦争●
 十一月革命直後におこなわれた憲法制定議会選挙の結果,社会革命党が第1党になった。レーニンらボリシェヴィキ政府は1918年1月,議会がひらかれると武力で議会を封鎖し,やがてボリシェヴィキの一党独裁政治を樹立した。ボリシェヴィキ政府は1917年末からブレスト=リトフスクでドイツと単独講和交渉をはじめ,18年3月,不利な条件をのんで講和条約をうけいれた@。
 その後,ボリシェヴィキは共産党と改称し,首都をモスクワに移した。また,全ロシア=ソヴィエト会議は憲法を採択し,全国にソヴィエトを設け,18歳以上の労働者・農民・兵士にソヴィエトの選挙権をあたえ,男女同権を認めた。しかし,西ヨーロッパの議会制度とはことなり,共産党以外の政党は禁止された。
 革命後,帝政派の軍人や社会革命党などが指導する反革命軍が横行し,国内各地で政権を樹立した。革命の拡大をおそれた連合軍は,反革命政権を援助したばかりでなく,直接軍隊を派遣してシベリアなどロシア各地を占領して,干渉戦争にのりだした。ソヴィエト政府はこれに対抗して,徴兵制をしいて赤軍を組織し,チェカ(非常委員会)を設置して反革命派をとりしまった。外国の軍事干渉はロシアの民衆を結束させ,ソヴィエト政府は,3年後には反革命軍を鎮圧し,外国軍もしだいに撤退した。1922年12月にはロシア・ウクライナ・白ロシア(ベラルーシ)・ザカフカースの四つのソヴィエト共和国が連合してソヴィエト社会主義共和国連邦を結成しA,24年1月新憲法が公布された。
 レーニンらは,ロシア革命が成功し,社会主義を達成するためには,先進資本主義国での革命(世界革命)が必要だと考え,世界革命をめざして1919年3月,モスクワでコミンテルン(共産主義インターナショナル・第3インターナショナル)を創設した。その指導によって,ハンガリーなどで革命がおこったが,いずれも長続きせずに失敗した。また,コミンテルンはポーランド・トルコ・中国などの民族運動を支援したが,中国をのぞいて,これらの民族運動は資本主義国の援助をうけて共産主義からはなれ,世界革命の期待は破れた。


@ 交渉では,革命ロシア側は「平和に関する布告」の原則を主張したが,軍事力を背景にしたドイツ側の要求に屈し,西部の広大な地域を放棄して講和を結んだ。しかし,ドイツの敗北によって,この条約は無効になった。
A その後,この連邦は拡大し,1991年の消滅まで15のソヴィエト共和国,20の自治共和国などから構成されていた。

●戦時共産主義と新経済政策●
 革命後,ソヴィエト政府は土地を無償で没収して,国有地として農民に分配し,労働者が工場を管理するなかで工業の国営化を進め,また銀行・外国貿易を国家の手に移した。さらに,干渉戦争と内戦に対抗するため,農民から穀物を強制的に徴発し,国家が都市住民や兵士に食料を配給した。このような政策を戦時共産主義という。これはソヴィエト政権の非常事態への対応としては役立ったが,農民の反対は強く,穀物生産が減り,労働者も工場管理に不慣れのため国民経済の荒廃をまねいた。このため,飢饉がおこり,多くの餓死者がでた。
 この状態を打開するため,レーニンは,1921年新経済政策(ネップ)を採用して,国有化やゆきすぎた徴発をやめ,中小企業の私的営業を許し,農民にも余剰農産物の自由販売を認めた。新経済政策は,銀行・大工業・外国貿易の国家管理の原則をかえなかったが,一定の範囲で資本主義的な営業を復活させ,生産活動をうながすものであった。国民経済はまもなく回復にむかい,生産は戦前の水準に達した。同時に,資本主義国への接近もはかられ,1922年にドイツと国交を結んだのをはじめ(ラパロ条約),イギリス・イタリア・フランス・日本などからも正式に承認された@。


@ 1924年にイギリス・イタリア・フランス,25年に日本,33年にアメリカが承認した。
2 ヴェルサイユ体制下の欧米

●ヴェルサイユ体制の成立●
 1919年1月,連合国代表によるパリ講和会議がひらかれた。講和会議の基礎になった原則は,アメリカ合衆国大統領ウィルソンが大戦中(1918年1月)に発表した十四カ条@であった。ウィルソンはヨーロッパ列強のそれまでの政治や秘密外交を批判し,ロシア革命などにあらわれた民衆の反戦・平和への願望を重視して,民主政治のもとでのあたらしい国際秩序を求めた。しかし,講和会議ではフランスのクレマンソーやイギリスのロイド=ジョージなどが,自国の利益や植民地体制の維持を優先し,敗戦国に報復的な態度をとったため,この原則は部分的にしか実現しなかった。また,民族自決権がヨーロッパに限定され,ドイツの植民地と権益が戦勝列強国に配分されたことは,中国をはじめアジア・アフリカの人々を失望させた。
 1919年6月パリ郊外のヴェルサイユ宮殿で,ドイツと連合国とのあいだでヴェルサイユ講和条約が調印された。ドイツはこれによってすべての植民地を失い,アルザス・ロレーヌやポーランド・デンマークとの国境地帯を割譲したほか,軍備の制限A,ラインラントの非武装化をうけいれ,また多額の賠償金(1921年に1320億金マルクBと決定)を課せられた。
 オーストリア・ハンガリー・ブルガリア・トルコとの講和条約はそれぞれ別個に結ばれたC。オーストリアはドイツ人だけの小共和国となり,旧オーストリア=ハンガリーとロシア帝国の領内から,ハンガリー・チェコスロヴァキア・ユーゴスラヴィア・ポーランド・フィンランド・エストニア・ラトヴィア・リトアニアが独立した。トルコに属していた中東地域でも,アラビアが独立し,シリアはフランスの,イラク・トランスヨルダン・パレスチナはイギリスの委任統治のもとにおかれた。
 ウィルソンの十四カ条の原則にしたがって創設された国際連盟は,世界の恒久平和をめざす史上はじめての大規模な国際的機構で,スイスのジュネーヴに本部をおいて,総会・理事会・連盟事務局を中心に運営された。連盟には国際労働機関と国際司法裁判所が設置された。しかし,ドイツとソ連は除外され,提唱国のアメリカも,外交的な拘束をきらう上院の反対で参加しなかったため,その基礎はまだ不十分であった。また,侵略者を制裁する軍事力を欠いたため,大国のかかわる紛争解決には非力であったが,小紛争の調停や文化交流では一定の成果をあげた。
 パリ講和会議でつくられた戦後の新国際秩序を,全体としてヴェルサイユ体制とよんでいる。


@ 十四カ条は,秘密外交の廃止,海洋の自由,関税障壁の撤廃,軍備縮小,ヨーロッパ諸国民の民族自決,植民地問題の公正な解決,国際平和機構の設立などを求めたものである。
A 陸軍は10万以下とされ,海軍も大幅に制限され,軍用航空機・潜水艦の所有が禁じられた。
B ドイツの通貨であったマルクは,当時金との兌換性がなく価値が不安定であったため,賠償額の算定には1マルク=金 0.358gとする戦前の金マルクが使われた。
C それぞれ,サン=ジェルマン条約(1919年9月),トリアノン条約(1920年6月),ヌイイ条約(1919年11月),セーヴル条約(1920年8月)である。

●国際協調の高まりと軍備制限の進展●
 ヴェルサイユ体制のもとでも,1920年代前半にはなお小規模な国際紛争が続発した。トルコは,ムスタファ=ケマルのもとでギリシアとたたかい,大戦でうばわれた領土の一部を回復し,さきの講和条約(セーヴル条約)を改め,ローザンヌ条約を結んだ。ポーランドも独立直後ソ連に侵攻し,白ロシアとウクライナの一部をえた。イタリアはユーゴスラヴィアと紛争をおこし,フィウメを獲得した。フランスとベルギーは,ドイツが賠償支払いを履行しないことを理由に,1923年ルール地方を占領した。
 しかし,戦後の混乱がおさまると,各国間に国際協調の機運が高まり,1925年ロカルノ条約でドイツと西欧諸国間で国境の現状維持,相互保障がまとまり@,翌26年ドイツは国際連盟に加入した。1928年には,フランス外相ブリアンとアメリカ国務長官ケロッグの提唱により,15カ国(のち63カ国)間で不戦条約が結ばれ,国際紛争解決の手段として戦争にうったえないことが誓われた。
 1921〜22年,アメリカ合衆国大統領ハーディングの提唱でワシントン会議がひらかれた。会議では,米・英・日・仏・伊の主力艦保有トン数を制限し,その保有比率を定めた海軍軍備制限条約Aのほか,中国の主権尊重・領土保全を約束した九カ国条約が結ばれた。また,太平洋諸島の現状維持を求めた日・米・英・仏の四カ国条約も結ばれ,この機会に日英同盟は解消された。ワシントン会議を中心として形成されたアジア・太平洋地域の戦後秩序を,ヴェルサイユ体制に対してワシントン体制とよんでいる。なお,補助艦の制限についてはその後も協議が続き,1927年のジュネーヴ会議での失敗をへて,30年のロンドン会議で米・英・日の比率が決定したB。


@ スイスのロカルノで結ばれた条約で,ドイツと西欧諸国間の国境の現状維持と集団安全保障を定めた。ラインラントの非武装化と国際間の紛争を仲裁裁判で解決することなどが,おもな内容である。
A この保有トン数比率は,米・英・日・仏・伊で,5・5・3・1.67・1.67である。
B このときの保有比率は,米・英・日で,10・10・7である。

●アメリカ合衆国の繁栄●
 第一次世界大戦中,アメリカは連合国に物資・借款を提供して莫大な利益をおさめ,戦後は従来の債務国から債権国になり,世界の金融市場をも支配するようになった。アメリカは戦後,ヨーロッパへの政治的関与をさけたが,軍縮会議の提唱など,国際協調を進めるうえで指導的な役割をはたし,ドイツの経済復興や中国の民族運動なども援助した。
 国内では,1920年女性参政権が実現し,民主主義の基礎が広がった。1921年からは,ハーディング・クーリッジ・フーヴァーの3代12年にわたって共和党の大統領が続き,大企業を中心にした経済体制をささえる政策がとられた。このため,1920年代のアメリカ経済は,大量生産・大量消費による「永遠の繁栄」をほこった。
 この時期に,フォード車に代表される自動車の大衆化,家庭電化製品やラジオ・映画の普及などにささえられて現代大衆文化が成立した。しかし,一方では伝統的な白人社会の価値観が強調されて,禁酒法がしかれ,1924年には移民法が成立して日本をふくむアジア系移民が禁止されるなど,保守的な傾向もあらわれた。

●戦後のイギリス●
 イギリスでは1918年,ロイド=ジョージの挙国一致内閣のもとで第4回選挙法改正がなされ,21歳以上の男子と30歳以上の女性に選挙権が広げられた。さらに28年には第5回選挙法改正で,21歳以上のすべての成年男女に選挙権が認められ,議会政治の安定がはかられた。大戦後の不況と自由党の内部分裂によって,労働党は保守党につぐ第2党の地位に上昇した。1924年労働党は自由党と連立してはじめて政権につき,マクドナルド内閣が成立した。この内閣は1年たらずで保守党内閣とかわったが,29年の選挙で,労働党ははじめて第1党になり,マクドナルドがふたたび政権をにぎった。
 アイルランド自治法が大戦によって延期されたことに抗議して,アイルランドでは完全独立をめざすシン=フェイン党が大戦中に蜂起し,その後も勢力をのばした。イギリス政府は1922年自治領アイルランド自由国を成立させた(北部のアルスターをのぞく)が,独立派はイギリス王への忠誠をこばんで,37年エールの名で独立を宣言し,イギリスもこれを承認した。

●フランスの政情●
 国土が戦場となったフランスは,戦後もドイツに対する警戒心が強く,大国ドイツの復活をおそれた。そのため,フランスはパリ講和会議でドイツへの制裁を主張し,ヴェルサイユ条約でドイツに対する重い賠償請求をつらぬいた。また,ポワンカレ内閣のときには,ドイツの賠償不履行を理由にルール出兵を強行した。
 しかし,こうした対独強硬政策は成功せず,1924年それまでの右派政権は国民の支持を失って,左派連合内閣にかわった。25年から外相となったブリアンはドイツとの協調に転じ,ロカルノ条約を結び,不戦条約を提唱して,国際平和に貢献した。

●ドイツ共和国●
 ドイツでは敗戦と革命によって帝政が倒れ共和国となったのち,1919年1月,ドイツ共産党@などがロシア革命に続く社会主義革命をめざそうとしたが,政権をにぎった社会民主党は軍部と結んでこれを鎮圧した。同年,ヴァイマル(ワイマール)でひらかれた国民議会で,社会民主党のエーベルトが大統領に選出され,民主的な憲法(ヴァイマル憲法)が制定されて,共和国の基礎が定まった(ヴァイマル共和国)。しかし,共和国は賠償支払いやヴェルサイユ条約の責任を共和国に負わせる反共和勢力の活動に苦しみ,政局と経済は安定しなかった。とくに1923年のルール占領に対して,ドイツは不服従運動で抵抗したため,生産が低下し,激しいインフレーションが進んだ。同年,シュトレーゼマンが首相となり,新紙幣(レンテンマルク)を発行してインフレーションを克服し,アメリカの援助で賠償支払いの緩和,資本導入をはかって,経済をたてなおしたA。
 シュトレーゼマンはその後も外相として国際協調につとめ,1926年には国際連盟加入を実現して,ドイツの国際的地位を回復させたB。しかし経済の基礎がかたまらないうちに,29年に世界経済恐慌がおこったため,ドイツは深刻な打撃をうけ,国民生活は混乱し,議会政治は危機におちいった。


@ ドイツ共産党は社会民主党の最左翼を形成していたスパルタクス団を中心に結成された。共産党の指導者ローザ=ルクセンブルクとカール=リープクネヒトは,このとき反革命派によって殺された。
A 1924年,賠償委員会はアメリカのドーズら金融・工業界の専門家の提案(ドーズ案)をうけて,ドイツの負担を当面軽減し,外資の導入によってドイツ経済を復興させることにした。これは,ドイツの賠償支払いを可能にして,英・仏らにそれを対米債務返済にあてさせ,国際経済を回復しようとしたものである。1929年に,最終支払い案としてヤング案がだされ,賠償額を 358億金マルクに限定し,支払い期間も延長された。世界恐慌後,1年間の支払い停止処置(フーヴァー=モラトリアム)ののち,32年ローザンヌ会議で総額は30億金マルクに軽減されたが,ナチス政府は賠償そのものを拒否した。
B この間,1925年大統領エーベルトが死んで,ヒンデンブルクが大統領に選ばれた。

●東・南欧諸国の情勢●
 大戦後,東・南欧では多くの新興国がうまれ,このなかではチェコスロヴァキア・ポーランド・ルーマニアなどがフランスと協力して,ヴェルサイユ体制の維持につとめた。しかし,東・南欧諸国は,チェコスロヴァキアを例外として,ほとんどが農業国で経済的基盤が弱かったうえ,議会制民主主義の伝統を持たず,少数民族問題をかかえて安定を欠いていた。そのため,1920年代末には独裁的な政治体制をとるところが多くなった。
 ハンガリーでは1919年にロシア革命にならった革命がおこったが,革命政権はまもなく倒され,その後は権威主義的な政治体制が続いた。ポーランドは1920年,ソヴィエト政府と戦争をおこして,領土を拡大した。しかし,国内の議会政治は安定せず,26年には独立運動の指導者ピウスツキが実権をにぎる体制ができた。バルカン地域では,セルビアなどがセルブ=クロアート=スロヴェーン王国にまとまり,1929年には国名をユーゴスラヴィアと改称した。

●ソ連●
 ソ連では1924年レーニンが死ぬと後継者をめぐる争いがおこった。22年に書記長になったスターリンは,ソ連1国で社会主義建設ができると主張して共産党内で勢力をのばし,世界革命を説くトロツキーらを追放して実権をにぎった。スターリンの指導のもとにソ連は1928年新経済政策を改めて,第1次五カ年計画に着手し,重工業に重点をおく工業化を推進した。同時に,農業でも集団化と機械化を実行し,集団農場(コルホーズ)・国営農場(ソフホーズ)@の建設を開始した。しかし,工業化や集団化は短期間でおこなわれたため,とくに農民などの抵抗が強かった。それに対し政府は多数の農民を投獄・追放し,生産物の強制供出を強行したため,1932〜33年には多くの餓死者がでたが,農業集団化はほぼ完了した。33年にはじまった第2次五カ年計画では,軽工業にも力をいれて国民生活の向上をはかり,36年にはスターリン憲法が発布された。38年からは第3次五カ年計画によってウラル・シベリア地域の開発と軍需経済の育成をめざした。ソ連は資本主義世界との交流が少なく,世界恐慌の影響をあまりうけずに社会主義の基礎をきずいたため,その計画経済は資本主義国にも影響をあたえた。
 スターリンはこの間,有力指導者をはじめ反対派とみなされた人々を大量に処刑し,独裁と個人崇拝の傾向を強めた。スターリン憲法によって18歳以上の男女による秘密直接選挙が確立したが,候補者推薦制と共産党の一党支配はかわらず,憲法に規定された民族間の平等や信教の自由なども実際には十分まもられなかった。
 一方,対外的にはソ連は国際社会への参加を求め,日本やドイツに対決する姿勢をとり,1933年にはアメリカに承認され,34年には国際連盟にも加盟した。また,コミンテルンも35年からはファシズムの台頭に対抗する方針に転じ,各国共産党は反ファシズム人民戦線をとなえるようになった。


@ コルホーズとは,土地・農具・家畜を共有しておこなう農民の共同農業経営である。ソフホーズは,国営の大規模農場で農業経営のモデルとされた。
3 アジアの情勢

●日本の動向●
 第一次世界大戦がはじまると,日本はドイツに宣戦し,中国におけるドイツの租借地膠州湾(青島)と太平洋上のドイツ領南洋諸島を占領した。その後日本は連合国に物資を供給して国内産業の発展をはかり,大陸での勢力拡大を積極的に進めた。
 まず1915(大正4)年1月,中国に対して,山東におけるドイツの利権引きつぎなどをふくむ二十一カ条の要求をつきつけた。中国の袁世凱政府は,自国の主権を無視するものとしてはじめは要求を拒否したが,5月に日本は最後通告を発して,要求の大部分を承認させた。これによって中国人の対日感情は急速に悪化した@。また,日本は大戦末期に米・英・仏などとともにシベリアに出兵して干渉戦争に加わり,列国の撤兵後も革命勢力の阻止を口実に最後まで軍をとどめて,内外の批判をあび,ようやく1922(大正11)年になって軍を引きあげた。
 戦後の講和会議では,日本は赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を委任統治領として獲得した。さらに国際連盟の常任理事国となり,国際的な地位を向上させた。しかし,列国は東アジアでの日本の勢力伸張に警戒の目をむけるようになった。
 一方,日本の国内では,戦後,国民の政治参加の拡大を求める声が強くなり,労働運動や農民運動が活発になって,あたらしい社会主義思想への関心もおこった。1918(大正7)年の米騒動や政党内閣の誕生,さらに25(大正14)年の男子普通選挙法の公布はこうした流れのなかでうまれた。しかし,政府はこれらの運動を警戒して,普通選挙法と同時に治安維持法を成立させ,この潮流が拡大することを阻止しようとした。また,資本主義経済の急速な成長は,独占的な財閥を発展させたが,財閥と政党が結びつく傾向も目につくようになった。


@ 日本の中国市場独占を警戒したアメリカも,1917年石井=ランシング協定を結んで,日本の行動に歯止めをかけようとした。

●文学革命と五・四運動,モンゴルの独立●
 袁世凱の死後,北京では軍閥政権が交替を続ける一方,大戦末期には,南方の広州に孫文を中心とした広東軍政府が組織された。また,大戦によって列強資本主義勢力が後退した間に,民族資本が成長し,大きな紡績工場もたてられ,中国人の出資経営する銀行もあらわれた。このため労働者の数も増え,学生などの青年知識人も増加した。文学・思想界では,新文化建設のための啓蒙運動が1915年ころからはじまり,儒教道徳にもとづく家族制度をきびしく批判した。
 文学革命といわれるこの啓蒙運動で大きな役割をはたしたのは,陳独秀刊行の『新青年』である。胡適は1917年,同誌上で白話(口語)文学をとなえ,魯迅は『阿Q正伝』『狂人日記』などの作品をつうじて白話運動を発展させ,中国人の人間的・社会的自覚をうながした。また,その中心となった北京大学では,ロシア革命後,李大ャらによってマルクス主義の研究もはじめられ,陳独秀もこれに参加した。
 中国は1919年パリ講和会議で,二十一カ条のとりけしや,山東におけるドイツ利権の返還を提訴したが,列国によってしりぞけられた。中国民衆はこれに激しい衝撃をうけ,同年5月4日,北京大学の学生を中心に抗議デモがおこなわれた。この動きは条約反対や排日の声となって各地に波及し,日本商品の排斥やストライキがおこり,幅広い愛国的運動に発展した。このため,中国政府もヴェルサイユ条約の調印を拒否せざるをえなかった。これが五・四運動で,中国における反帝国主義・反封建主義のあたらしい大衆運動の出発点となった。孫文も1919年10月,国民党の解散以後結成していた非公開組織の中華革命党を公開政党とし,中国国民党を組織した。
 モンゴル高原では,1911年の辛亥革命を機に外モンゴルが独立を宣言し,君主国をたてた。その後,ロシア革命の影響のもとにチョイバルサンらがモンゴル人民革命党を結成し,24年社会主義にもとづくモンゴル人民共和国の成立を宣言した。

●朝鮮の三・一運動●
 朝鮮は日本に併合されたのち,朝鮮総督府によって憲兵警察によるきびしい監視・統制のもとにおかれ,政治団体の解散,集会・言論のとりしまりなど武断政治がおこなわれたため,朝鮮民衆の反発が高まった。1919年3月1日,ロシア革命やウィルソンの十四カ条などの影響をうけて,ソウルで独立を要求するデモがおこり,たちまち全国に広がった。総督府は軍隊も動員して運動を鎮圧したが@,この三・一運動(万歳事件)は,以後の朝鮮民族運動の出発点となった。
 その後,日本は武断政治をある程度ゆるめ,「文化政治」とよばれる同化を進める政策をとったが,朝鮮に対する日本の経済的支配はいっそう強まった。


@ 1年間にわたる鎮圧行動で,朝鮮人のあいだに数千人の死者,5万人近い検挙者がでたといわれている。

●国共の合作と分離●
 二十一カ条問題はワシントン会議でとりあげられ,日本の大陸進出を警戒するアメリカ・イギリスの支持もあって,中国の要求は九カ国条約によってほとんど認められた@。一方,ソ連政府は1919年中国に対し,秘密条約の無効,外国の干渉拒否,平等の善隣関係樹立を求める,外務人民委員代理カラハンの宣言を発して,中国国民から歓迎された。1921年には,コミンテルンの支援によって,陳独秀を指導者とする中国共産党が結成された。
 孫文もソ連の援助をうけいれて顧問をまねき,1924年国民党を改組して,共産党員が個人の資格で国民党に入党することを認めた(第1次国共合作)。彼はまた,「連ソ・容共・扶助工農」Aをかかげて,打倒軍閥・打倒帝国主義の政策をめざした。孫文は25年に病死したが,この国共合作によって国民党の勢力は急激にのびた。また反帝国主義運動は1925年上海における五・三〇事件Bとなって爆発し,この動きにうながされて同年7月,広州で国民党は国民政府(広東政府)を樹立した。しかし,孫文を失った国民党内では左右の対立が表面化した。
 1926年,国民政府軍は蒋介石の指揮のもとに広州から北伐(北方軍閥制圧のための軍事行動)を開始し,27年3月には南京・上海を占領した。これに対し,国民党左派と共産党は27年初めから武漢政府として政務をはじめたが,まもなく共産党は政府からしりぞき,国民党左派は南京政府に合流した。蒋介石は4月,上海クーデタをおこして共産党員を弾圧し,南京に国民政府をたててその主席となった。
 1928年4月,北伐は再開され,まもなく北京にせまった。日本は国民政府の拡大を阻止するために,山東出兵をくりかえし,また当時北京政府の実権をにぎっていた奉天軍閥の張作霖を支持していた。張は東北地方を支配し,南下して直隷派・安徽派Cなどの軍閥諸勢力を破って,北京に進出していたが,北伐軍に敗れて奉天に引きあげた。日本軍(関東軍)は帰路途中の張の列車を爆破して,張を死亡させた(奉天事件)。蒋介石は北京を占領して北伐を完成し,張作霖の子張学良も日本に対抗するため蒋にしたがったので,国民党の中国統一はいちおう達成された。蒋介石は,上海を中心に銀行資本をとおして中国の経済界を支配していた浙江財閥と結び,米・英の支援のもとに国民党一党体制による統一政権をめざしていた。
 これに対して,中国共産党は1927年国民党と分離したのち,江南を中心に都市・農村における武装蜂起や土地改革を推進したが,失敗をかさねたD。そのなかで,農村工作に重点をおき,井崗山を拠点として紅軍(共産党軍)をひきいて活動した毛沢東らの運動は成功し,31年に江西省瑞金に毛沢東を主席とする中華ソヴィエト共和国臨時政府が成立した。こうして,国民党と共産党はたがいに中国の統一をめぐって激しく対決した。


@ ワシントン会議中,日中間での直接交渉によって,1922年2月山東懸案に関する条約が調印され,山東のドイツ利権は中国に返還された。
A これは,三民主義を発展させたものである。1923年,孫文とソ連外交使節ヨッフェの会談の共同宣言などで示された。
B 日本人経営の紡績工場でおこった中国人労働者の待遇改善を求めるストライキを発端とし,反日・反英の民族運動となって各地に広がった。
C 袁世凱の死後,北洋軍閥が分裂してできた地方軍閥で,はじめ安徽派は段祺瑞が指揮し,直隷派は馮国璋がひきいて,北京政府を動かしていた。
D 1927年,広東省の農民運動の拠点である海豊・陸豊に,最初のソヴィエト政権をたてたが,国民党側の攻撃で短期間に崩壊したのはその例である。

●インドの独立運動●
 第一次世界大戦がおこると,イギリスはインドに戦後の自治を約束して,兵員と物資供給の協力をうけた。しかし,戦後,イギリスはこの約束をまもらなかったばかりか,1919年にはローラット法を施行して,インドの民族運動を弾圧した@。これをみてインド民衆は態度を硬化させ,国民会議派のガンディーの指導のもとに非暴力・不服従の運動(サティヤーグラハ)を進め,自治獲得をめざす民族運動を発展させた。大戦中から反英的な姿勢をみせていた全インド=ムスリム連盟もこれに協力して,運動は全インドに広がった。しかし,やがてヒンドゥー・イスラム両教徒の対立などがあらわれ,運動は停滞した。
 1929年になるとネルー(ネール)の指導でラホールでひらかれた国民会議を機に運動はふたたび激化し,完全独立(プールナ=スワラージ)が宣言された。そして翌年からガンディーの方針にしたがって,全国的な第2次の非暴力・不服従運動へと突入した。
 これに対し,イギリスは弾圧を強化したり,また懐柔策としてロンドンにインド人代表をよんで英印円卓会議をひらいたりした。その結果,1935年インド統治法では,各州の自治拡大が認められたが,独立の目的はなお達成されなかった。


@ 1919年4月,パンジャーブ州のアムリットサルの住民が民族指導者逮捕に抗議してひらいた集会に,イギリス軍が発砲し多数の死傷者をだした事件はその代表的な例である。

●東南アジアの独立・改革運動●
 第一次世界大戦後の民族運動の波は東南アジアの諸地域にもおよび,反植民地主義をかかげて,独立や改革を求める運動が広がった。
 フランス支配下のインドシナでは,フランスから帰国したホー=チ=ミンらが,1925年ヴェトナム青年革命同志会を結成し,30年にはこれを基盤にインドシナ共産党が成立した。一方,1927年にはヴェトナム国民党が組織され30年武装蜂起をこころみたが,失敗した。
 1930年代に入ると,インドシナ半島で独立を保っていたタイ王国でも,専制に反対する立憲革命がおこって改革が進み,またミャンマー(ビルマ)でも改革を求めるタキン党などの動きに押されて,1935年,イギリスはミャンマーをインドから分離して,ある程度の自治を認めた。アメリカも35年,フィリピンに独立準備政府を発足させた。
 オランダの植民地支配下におかれていたインドネシアでは,1920年インドネシア共産党が結成されて独立をとなえ,さらに27年にはスカルノが指導するインドネシア国民党が設立されて,独立運動を展開しはじめた。

●トルコ革命とイスラム諸国●
 オスマン帝国(トルコ)は第一次世界大戦に参戦して敗れ,セーヴル講和条約によって異民族の分離,国土の大幅な縮小に直面した。これに抗議し,弱体な政府を批判して,ムスタファ=ケマル(のちケマル=アタテュルク)がトルコ大国民会議を組織してたちあがった。1922年,彼はギリシアとたたかってイズミルを回復してスルタン制を廃止し,ついで24年にはカリフ制も廃止した。この間,23年に連合国とのあいだであらたにローザンヌ条約を結んで新国境を画定し,治外法権の廃止,関税自主権の回復にも成功して,アンカラを首都とする共和国を樹立した。ケマルは大統領となり,24年,共和国憲法を発布し,さらにその後,政教分離,太陽暦の採用,女性参政権を実施するとともに,アラビア文字にかわってローマ字を採用するなど,近代化を推進した。しかし,政治は1945年までトルコ国民党(人民共和党)の一党体制が続いた。
 第一次世界大戦は,トルコ以外のイスラム諸国にも大きな転換をもたらした。
 エジプトは1914年以来イギリスの保護国となったが,戦後ワフド党を中心として民族運動が活発になったため,イギリスは22年保護権を廃止した(エジプト王国)。しかし,イギリスはスエズ運河の確保やさまざまな特権を留保したので,エジプト人の抗議が続いた。36年にエジプトはイギリスとの同盟条約によってその地位を改善したが,イギリスはなお運河地帯の兵力駐留権を手放さなかった。また,イギリスの保護国であったアフガニスタンは,1919年イギリスの勢力を排除して独立した。
 大戦中,中立を宣言しながらイギリス・ロシアの介入によって圧迫されていたカージャール朝のイランは,戦後,自主権を回復した。しかし,その後レザー=ハーンがクーデタによって実権をにぎり,1925年カージャール朝を廃してみずからパフレヴィー朝をひらいた。彼はトルコにならって国内の近代化につとめ,35年国名を正式にイランと改めたが,国内の石油利権は,なおイギリスの手に残された。
 アラビアでは,戦後,イギリスの影響力が増大した。ワッハーブ王国の再興をめざすイブン=サウードは,イギリスの援助のもとに独立してアラビア統一をめざした。彼は,アラブ独立運動の指導者であったヒジャーズ王国のフセイン(フサイン)を破り,ヒジャーズ=ネジド王国をつくり,半島の大部分を統一して1932年サウジアラビア王国を建設した。
 イギリスの委任統治領となったイラクは1932年に,またトランスヨルダンは46年にヨルダン王国としてそれぞれ独立した。フランスの委任統治下にあったシリアは,1941年まずレバノンが分離して独立を宣言し,46年にはシリアも独立した。
 パレスチナ地方については,大戦中,イギリスは1915年フセイン=マクマホン協定によってアラブ人に対してトルコからの独立を約束し,一方,17年のバルフォア宣言によって,ユダヤ人のパレスチナ復帰運動(シオニズム)を援助する姿勢を示して双方から協力をえた。こうしたあい対立する約束に加えて,戦後この地は委任統治領となったので,アラブ・ユダヤ両民族はそれぞれに主権を主張して衝突し,現在まで続く深刻な対立がはじまった。
4 ファシズムの台頭

●世界経済恐慌とアメリカのニューディール●
 1929年10月,ニューヨークの株式市場(ウォール街)で,株価がとつぜん暴落し,これがきっかけとなってアメリカ合衆国で空前の経済恐慌がはじまった。生産の急落,商業・貿易の不振がいっきょに進み,銀行や企業の倒産があいついで失業者があふれ,国民の生活水準も低下した。さらに,アメリカ資本がヨーロッパから引きあげられたので,アメリカ資本にささえられて戦後の復興をはたしていたヨーロッパ諸国も恐慌にみまわれ,まもなく恐慌は全世界に広がった。この恐慌は,それまでにない規模と深刻さから,世界経済恐慌とよばれている。恐慌がアメリカからおこった原因には,世界的な農産物価格の下落で農民が痛手をうけたこと,高関税政策のため国際貿易の流れがさまたげられ,工業製品が生産過剰になったこと,世界の余剰資金がアメリカに集中し,それが土地や株式の投機に使われたことなどがあげられる。
 ときの大統領共和党のフーヴァーは,ドイツの賠償や連合国の戦債の支払いを1年間停止する宣言(フーヴァー=モラトリアム)をだして対応したが効果がなく,1932年の大統領選挙では,民主党のフランクリン=ローズヴェルト(ルーズヴェルト)が当選した。
 ローズヴェルトは,まず農業調整法(AAA)によって農業生産の調整をはかって,生産物価格をあげ,全国産業復興法(NIRA)で政府と企業との協力を強め,企業間での公正な競争をうながした。さらに金本位制を停止して,アメリカを混乱した国際経済から引きはなし,各種の社会政策を拡充して,テネシー川流域開発公社(TVA)のような公共投資による地域開発事業をおこして,失業者も減らそうとつとめた。一方,労働組合を法的に承認し,1935年ワグナー法によって団結権と団体交渉権を認めたことから@,同年産業別組織会議(CIO)が成立したA。これらの一連の政策はニューディール(新規まきなおし)とよばれ,社会対立の激化を阻止し,国民を力づけた。
 対外的には,1933年ソ連を承認し,西ヨーロッパの民主主義諸国を支持しながら,中立を維持する方針をとり,ラテンアメリカ諸国に対しては,それまでの高圧的政策を改め,キューバのプラット条項を廃止するなど,善隣外交政策をとった。


@ 1947年にはワグナー法にかわって,労働組合の不当労働行為をおさえることを重視するタフト=ハートレー法が制定され,労働組合の活動は制限をうけた。
A CIOは1955年アメリカ労働総同盟(AFL)と合併して,AFL=CIOとなった。

●イギリスとフランスの恐慌対策●
 世界恐慌の影響でイギリスも不況におちいり,失業者が急増し,貿易は急速におとろえた。経済危機をのりきるために,第2次マクドナルド内閣は失業保険の削減などによる緊縮財政をたてたが,労働党はこれに反対して党首マクドナルドを除名した。
 このため彼はいったん辞職したが,ふたたび挙国一致内閣を組織し,金本位制の停止や財政削減を断行した。また1932年オタワ連邦会議をひらき@,各自治領間の関税をさげ,他国に対しては高関税を課す「スターリング=ブロック」(ポンド=ブロック)を結成して,景気回復をはかった。しかし,こうしたブロック経済政策は国際経済をますますせばめることにもなった。
 フランスでは恐慌の影響が比較的おそく,1932年になってあらわれた。右派連立政府はこの年の選挙に敗れ,政局はその後混乱した。しかし,33年のドイツのナチス政権の成立,34年の国内の国粋主義勢力の暴動によって左翼勢力の危機感が高まり,35年仏ソ相互援助条約が結ばれた。同年のコミンテルンの方針転換もあって,36年には共産党が協力する社会党・急進社会党の人民戦線内閣Aが成立した。


@ これにさきだち,1926・30年のイギリス帝国会議の決議にもとづいて,31年のウェストミンスター憲章が成立し,各自治領にはイギリス連邦の一員として国王に忠誠を誓うことを条件に,本国と対等の地位があたえられることになった。
A ファシズムの危険に対抗するために,共産党をふくむ左翼勢力が連合することを人民戦線といい,フランスやスペインで1935年に成立した。同年のコミンテルン大会で共産党は人民戦線を公式に認め,翌36年社会党のブルムを首相とする内閣ができた。しかし,スペイン内戦以後内部分裂などによって,38年には崩壊した。

●ファシズム●
 第一次世界大戦後,後発資本主義国を中心に,ファシズム@とよばれる,あたらしい政治運動があらわれた。ファシズムは戦後の危機を,共産主義や議会制民主主義によるものとみてそれを否定し,暴力を政治の手段として使いながら,強力な国家や指導者のもとに国民を統合し,国民生活全体を統制することをめざした(全体主義)。そのために自民族の優秀性を説く人種主義や国益優先をとなえた。大衆運動のかたちをとって権力を獲得したファシスト=イタリアやナチス=ドイツがファシズムの代表的な例であるが,軍部の主導によって上から全体主義的な国家体制をめざした日本もその一例である。


@ ファシズムということばは,はじめはイタリアのファシスト党の運動や思想をさしていたが,その後,類似した政治運動や政治体制に対しても広く使われるようになった。

●ファシスト=イタリアの成立とその政策●
 イタリアは第一次世界大戦の戦勝国であったが,大きな犠牲をはらったにもかかわらず約束された領土をえられず,ヴェルサイユ体制に不満を持っていた。戦後,イタリアは激しいインフレーションにみまわれ,国民の生活が苦しくなって,労働者は急進的な改革を求めた。1920年社会党左派(のちの共産党)の指導のもとに,北イタリアの工業地帯を中心に,労働者が一時工場を占拠し,また農民も各地で土地を占拠した。しかし,この運動は失敗して,社会改革への失望が広がった。
 戦後の混乱のなかで,ムッソリーニのひきいるファシスト党(1919年結成)は,左翼の運動を暴力で攻撃し,弱体な政府を批判して,地主・資本家・軍人層の支持をうけた。彼は政局の混迷に乗じて,22年に政権獲得をめざして支持者による「ローマ進軍」をおこない,国王の指示によってファシスト党を主力とする内閣を組織した。ムッソリーニはその後ファシズム大評議会に権限を集中させ,言論・出版の自由をおさえ,反対派を抑圧する一党独裁の政治体制を確立した。
 また,対外面では,1924年フィウメを併合し,つづいて26年にはアルバニアを保護国化した。さらに,イタリア国家と長いあいだ国交断絶状態にあったローマ教皇庁と29年ラテラン条約を結んで和解し,教皇庁(ヴァチカン市国)の独立を認めた。
 ファシズム体制のもとで,社会事業や国内開発もある程度進んだが,世界恐慌の影響をうけると,国民経済はゆきづまった。ムッソリーニは国家による統制経済を強め,対外侵略に活路をみいだそうとした。1935年,イタリアはエチオピアに侵入し,翌36年全土を征服した。国際連盟はイタリアを侵略国と認めて経済制裁を議決したが,実行は不徹底で効果をあげず,国際連盟の威信はそこなわれた。イタリアはこの後,ドイツに接近していった。

●ナチス=ドイツの成立とヴェルサイユ体制の破壊●
 世界恐慌によって深刻な打撃をうけたドイツでは,1930年からナチスと共産党の,左右の反議会主義勢力が急激に増大した。ナチスは戦後ヒトラーを指導者に発展してきた政党@で,ドイツ民族の優秀性を主張し,ヴェルサイユ条約の破棄,植民地の再分配,ユダヤ人の排斥をとなえた。一方,不労所得の廃止,トラストの国有化などいっけん反資本主義的な政策もかかげて,民族共同体の建設による国民生活の安定を約束した。その暴力的で過激な言動ははじめは支持をうけなかった。しかし,世界恐慌によって失業者が増大し,共産党が進出すると,不安におびえる中産階級を中心にナチスのたくみな大衆宣伝に動かされる人々が増え,産業界や軍部もヴァイマル共和政をみすてて,ナチスに期待するようになった。32年の選挙でナチスは第1党になり,翌33年1月,ヒトラーは首相に任命された。
 新政府は,国会議事堂放火事件を利用して共産党を弾圧し,国会を事実上排除する全権をにぎり,ナチス以外の全政党を解散させて,一党独裁を実現したA。また労働組合を禁止し,言論・出版の自由や反対活動を否定し,教育や文化をふくむ社会のほとんどすべての領域をきびしく統制した。反対派やユダヤ人は,秘密警察・親衛隊・突撃隊などによって監視され,強制収容所に押しこめられた。このため,多くの社会主義者・民主主義者・ユダヤ人が外国に亡命したB。1934年ヒンデンブルク大統領が死ぬと,ヒトラーは総統と称して最高主権者の地位についた。一方,ナチスは四カ年計画によって,アウトバーン(自動車専用道路)建設などの大規模な土木工事や軍需工業をおこして失業者を急速に減らした。
 短期間で国内の支配をかためたナチスは,1933年には軍備平等権を主張して国際連盟を脱退し,35年にはヴェルサイユ条約の規定にもとづく住民投票によってザール地方を編入した。同年,義務兵役制の復活と再軍備を宣言し,イギリスと海軍協定を結んで,イギリスの35%の海軍力保有を認めさせた。また,35年の仏ソ相互援助条約調印を理由に,翌年ロカルノ条約を破棄して非武装地帯のラインラントに兵力を進駐させ,ヴェルサイユ体制の破壊を進めた。


@ ヒトラーはオーストリアでうまれ,ドイツに移って第一次世界大戦に従軍し,戦後ナチス党に加入してその指導者となった。1923年のミュンヘン一揆の失敗後は,選挙による合法的な権力獲得をめざした。なお,ナチス党は正式には国家(国民)社会主義ドイツ労働者党であり,ナチスとは彼らの政敵がつけた呼称である。
A ナチス新政府は,1933年2月の国会議事堂放火事件を共産党の陰謀としてこれを弾圧し,3月に成立した新議会で,以後4年間政府に立法権をあたえる法律(全権委任法)を通過させた。ナチス=ドイツは「第三帝国」ともよばれた。
B 亡命した人々のなかには,アインシュタイン・トーマス=マンのような国際的にも有名な科学者や作家がいた。

●日本軍部の台頭と満州事変●
 日本では1923(大正12)年の関東大震災前後から貿易の不振が続き,27(昭和2)年には金融恐慌がおこって多くの銀行や会社が倒産した。さらに29(昭和4)年の世界経済恐慌の影響で経済界はまったく混乱し,労使紛争が多発した。しかし,既成政党はこの事態に十分な対策を講ずることなく政権争いを続けて,国民の信頼を失い,かわって軍部の影響力が強まった@。
 中国東北地方(当時日本では「満州」とよんでいた)では,張学良が国民政府委員となり,日本の勢力拡大を阻止しようとした。日中両国間には紛争が続いたが,1931(昭和6)年9月18日,日本の関東軍は柳条湖で鉄道爆破事件をおこし,これを機に東北地方全域に軍を進め,その要地の大半を占領した。これが満州事変であり,また,上海にも日本人保護を理由に軍をおくり,32(昭和7)年上海事変をおこした。
 日本の軍事行動は,国際世論から非難され,国際連盟は中国の提訴によってリットン調査団を派遣して調査させることになった。関東軍は1932年3月清朝最後の宣統帝溥儀を執政(のち皇帝)にすえて満州国を建設し,既成事実をつくった。調査団は日本の行動を自衛権によるものとは認めず,連盟もこれを支持したので,日本は33(昭和8)年3月国際連盟脱退を通告した。その後,日本の軍事行動は熱河方面におよび,一時は長城をこえて北京にせまり,華北支配をもねらうようになったA。


@ 1932(昭和7)年の五・一五事件,36(昭和11)年の二・二六事件などの青年将校のクーデタ行動によって,軍部は政治への介入を強めた。
A 日本は1935(昭和10)年,防共の名目で内モンゴル・華北に進出し,河北省東部に国民政府から分離した冀東防共自治政府を設置した。

●抗日民族戦線の成立と日中戦争●
 国民政府は満州事変に対処しながら,国内では共産党ともたたかっていた。1934年瑞金の共産党軍は国民党軍の圧迫をのがれて,江西省から延安を中心とする奥地の陝西・甘粛省をめざす長征(大西遷)を実行した。このなかで共産党内の結束はかたまり,毛沢東の指導力が高まった。35年,国民政府は英・米の援助で通貨を統一したが@,これによって地方に残存する軍閥の力は弱められ,中国国内の実質的統一がうながされた。
 民間の抗日運動は満州事変をきっかけに,全国的に激しくなった。1935年8月1日,中国共産党は内戦を停止して,抗日のために民族統一戦線結成をよびかけた(八・一宣言)。当時,西安にいた張学良はこうした状況に動かされて,共産党軍攻撃作戦を説得にきた蒋介石を幽閉して,逆に抗日・内戦停止を説いた(西安事件)。蒋介石はこれをうけいれて釈放され,こののち国共はふたたび接近した。
 一方,日本の軍部は,華北への侵攻をねらって1937(昭和12)年7月の盧溝橋事件を機に侵略を拡大した。これに対して,中国では9月第2次国共合作がなり,日中両国は全面的な交戦状態に入った(日中戦争)。37年末までに,日本軍は華北の要地や南京を占領したが,とくに南京占領の際には多数の中国人を虐殺して世界の非難をまねいた(南京虐殺事件)。中国側はイギリス・アメリカ・ソ連の援助をうけ,政府を南京から武漢,さらに重慶に移して抗戦を続けた。日本は38(昭和13)年10月に武漢および広州を占領したが,重要都市とそれを結ぶ交通線を確保しただけで,その支配は広い農村地帯にはおよばなかった。日本は40(昭和15)年に東亜新秩序建設をかかげて,重慶政府に対抗して,南京に汪兆銘の親日政権をたてたが広い支持をうけられず,戦局の見通しはまったくたたなくなった。


@ それまで中国の通貨は基本的には銀で,紙幣は各銀行が発行していたため流通価値が不安定であった。国民政府は銀を禁止し,4大銀行が発行するポンドに連動した銀行券を法定通貨(法幣)と定めた。

●スペイン内戦と枢軸の結成●
 スペインでは,1931年国民の支持を失った王政が倒れたのち,政局が混乱していた。36年,選挙で人民戦線派が勝利し,内閣を組織した。これに対し,旧王党派や地主層などの保守派はフランコを中心に反乱をおこした。イギリス・フランスは不干渉の立場をとったが,36年ベルリン=ローマ枢軸を結成したドイツ・イタリアは反乱軍を公然と支援した。一方ソ連は軍需品を提供し,欧米の社会主義者や知識人らは国際義勇軍を編成して政府軍を助けた@。このため,内戦は小規模な国際紛争の様相をおびたが,39年マドリードが陥落して,フランコ側の勝利におわった。
 人民戦線結成など国際共産主義運動の動きに対抗して,日本・ドイツは1936年防共協定を結んだが,37年にはイタリアも参加して三国防共協定が成立した。また,イタリアは37年,日・独の例にならって国際連盟を脱退した。こうして,ヴェルサイユ・ワシントン両体制に挑戦する日本・ドイツ・イタリアの全体主義的国家は,日・独・伊枢軸を結成するにいたった。


@ 国際義勇軍には,アメリカのヘミングウェー,フランスのマルロー,また従軍記者となったイギリスのオーウェルらの作家が参加し,それぞれスペイン内戦をえがいた作品を残している。
5 第二次世界大戦

●ナチスの侵略と開戦●
 ヨーロッパでは,1938年3月ドイツがオーストリアを併合し,さらに同年9月にはドイツ人が多く居住するチェコスロヴァキアのズデーテン地方の割譲を要求した。当時のイギリス首相は保守党のネヴィル=チェンバレンであったが,彼はナチスの反ソ的態度に期待してドイツとの対決をさけ,またイギリス連邦の結束をまもるために,その要求をうけいれる宥和政策をとった。9月末ミュンヘンで英・仏・独・伊の首脳会談がひらかれ,チェコスロヴァキアの代表を参加させないまま,ズデーテン地方のドイツへの割譲を認めた。
 しかし,ドイツはこれに満足せず,ミュンヘンの合意に反して1939年3月,チェコスロヴァキアを解体して西半分のベーメン(ボヘミア)・メーレン(モラヴィア)を保護領とし,スロヴァキアを保護国とした。さらにポーランドに対して,ダンチヒ(現在のグダニスク)の返還と,戦後飛び地となった東プロイセンへの陸上交通路を要求した@。
 イギリス・フランスはこれをみてようやく宥和政策をすて,軍備の拡充を急ぐとともに,ポーランドの安全保障を宣言し,ポーランドもドイツの要求を拒否したA。イギリス・フランスはソ連とも軍事同盟の交渉に入ったが,まとまらなかった。西欧諸国の態度に不安を持ったソ連は,共産主義と思想的に対立していたナチス=ドイツとの提携に転じ,1939年8月23日,独ソ不可侵条約を締結して,世界をおどろかせたB。これに力をえて,9月1日ドイツはかねて準備していたポーランド侵攻を開始し,9月3日,イギリス・フランスはドイツに宣戦して,第二次世界大戦がはじまった。


@ ダンチヒはヴェルサイユ条約によって,国際連盟管理下の自由市となっていた。また東プロイセンとドイツ本国を結ぶ旧ドイツ領は,戦後,海への出口としてポーランドにあたえられ,ポーランド回廊とよばれた。
A ドイツの動きに乗じて,1939年4月,イタリアもアルバニアを併合し,さらに5月,ドイツと友好同盟条約を結んだ。
B この条約には,独ソ両国間で東ヨーロッパの勢力圏を定めた秘密議定書がついていた。

●ドイツの短期戦の失敗と占領地支配●
 ドイツ軍はポーランドの抵抗を圧倒し,1939年9月17日,ソ連軍もポーランドに侵入して,ドイツとのあいだでポーランドを分割した。またソ連は11月フィンランドに宣戦し,翌40年国境地帯の軍事基地を得@,リトアニアなどのバルト3国を併合し,この間ルーマニアからベッサラビアを割譲させた。一方,西部戦線では英・仏は攻勢にでず,しばらく平静であったが,ドイツは40年4月デンマーク・ノルウェー,5月オランダ・ベルギーに侵入し,さらにフランスに進撃して,6月パリを占領した。ドイツの勢いをみて,イタリアもドイツ側について参戦した。
 フランスではペタン政府が成立してドイツに降伏し,北半をドイツが占領し,南半をペタン政府(ヴィシー政府)が統治することになった。しかし,ド=ゴールらはロンドンに亡命政府(自由フランス政府)を組織して抗戦をよびかけ,フランス国内にもやがてレジスタンス(抵抗運動)がおこった。イギリスでは,1940年5月,チェンバレンにかわってチャーチルが首相となり,激しい空襲をしのいで,ドイツ軍の上陸を許さなかった。
 1941年4月,ドイツはイタリアを支援してバルカン半島に軍を進め,ユーゴスラヴィアとギリシアを制圧した。これによってバルカンに関心を持つソ連との関係が緊張し,ソ連は同月,ドイツにそなえて日ソ中立条約を結んだ。41年6月,ドイツはイタリア・ルーマニア・フィンランドとともにとつぜんソ連に侵入し,独ソ戦がはじまった。ドイツ軍は年末にはモスクワにせまったが,ソ連は押しかえし,これを機にイギリスとソ連は同盟を結んだ。さらに,ソ連は米・英両国との協調を深める必要から,43年にコミンテルンを解散したA。
 ドイツは短期決戦に失敗したため,占領地から工業資源や食料をうばい,また数百万人もの外国人を国内の強制労働に連行して,戦争経済をささえた。また,占領地の人々にも人種主義政策を実行し,ユダヤ人などをアウシュヴィッツをはじめ多くの強制収容所で大量に殺害したので,ドイツ軍に対する武装抵抗運動(パルチザン)が各地で広まった。


@ ソ連はフィンランドとの戦争を理由に,1939年12月国際連盟を除名された。
A アメリカは大戦開始以来,中立をまもっていたが,1941年3月武器貸与法を成立させ,これによってイギリス・ソ連など反枢軸諸国に武器や軍需品の援助をおこなった。

●太平洋戦争●
 日中戦争の短期解決の思惑は中華民国の抵抗によってはずれ,日本軍はとくに中国共産党軍(八路軍)のゲリラ戦に苦しめられた。巨額の軍事費と兵員の必要は,日本の経済を強く圧迫した。この状況を打開するために,日本は南方への進出をくわだて,フランスの敗北に乗じて1940(昭和15)年9月,フランス領インドシナ北部に進駐するとともに,三国防共協定を日独伊三国同盟へと発展させた。翌41年4月には北方の安全を確保するために日ソ中立条約を結び,さらに7月フランス領インドシナ南部にも進駐した。
 これに対してアメリカは日本への石油供給を停止し,イギリス・中国・オランダと提携して,いわゆる「ABCDライン」を形成して対抗した。1941年初めからおこなわれていた日米交渉は,ほとんど進展をみないまま,同年12月8日,日本軍はまずハワイの真珠湾にある米海軍基地を奇襲して,アメリカ・イギリスに宣戦し,太平洋戦争に突入した。
 戦争の最初の半年間で,日本は香港・シンガポールを攻略し,ジャワ・スマトラ・フィリピン・ソロモン諸島を占領し,ミャンマーを征服した。日本は「大東亜共栄圏」をとなえ,占領下のフィリピン・インドネシア・ミャンマーには親日政権を樹立させた。インドシナ・タイなども日本との協力を声明させられた。日本国内では,開戦後,軍部の権力はさらに強大になり,言論・報道の統制はいっそう厳重になった。
 占領地では,当初,日本軍を欧米諸国の植民地支配からの解放軍としてむかえるところもあった@。しかし,日本の軍事占領は資源獲得と治安維持がねらいであり,日本語教育や神社参拝など,現地の歴史や文化を無視した軍政がおこなわれA,またシンガポールやマレー半島,フィリピンなどで,残虐行為や捕虜をふくむ強制労働がおこなわれたため,住民の激しい反感をまねき,日本軍は各地で住民の抵抗運動に直面した。
 日本は工業基盤が弱体であったうえ,中国との戦争で国力を消耗していたため,1942年6月ミッドウェーの海戦に大敗すると,戦局を挽回できなかった。


@ 日本軍が東南アジア植民地から欧米勢力を排除したことは,結果として,旧宗主国の戦後の復帰を困難にし,植民地独立の条件の一つをつくりだした。
A 日中戦争前後から朝鮮に対する日本の支配はいちだんと強まり,朝鮮名を日本名に改めさせる「創氏改名」などの同化政策が進められた。戦争中の日本の労働力不足をおぎなうため,朝鮮では労働者の強制連行もおこなわれ,戦争末期には徴兵制も適用された。

●連合国の勝利●
 日本の参戦と同時に,ドイツ・イタリアもアメリカとの戦争に入った。1942年後半から連合国@は総反撃に移り,アメリカ軍は43年,日本をガダルカナル島から撤退させて,ソロモン諸島を奪回し,以後太平洋地域の日本軍をつぎつぎと破った。ソ連もスターリングラード(現在のヴォルゴグラード)でドイツ軍を撃破してから反撃を続け,北アフリカに上陸した連合軍は,シチリア島を占領してイタリア本土にせまった。敗北を目前にしたイタリア国内では,軍部やファシスト党内部からもムッソリーニに反対する動きがあらわれ,43年7月ムッソリーニは国王に解任され,ファシスト党は解散した。同年9月,連合軍がイタリア本土に上陸すると,イタリア新政府(バドリオ政権)は無条件降伏を申しでた。
 連合国はすでに1941年8月のローズヴェルト・チャーチル会談で大西洋憲章を発表し,共通の戦後構想を示した。その後,43年11月,ローズヴェルト・チャーチル・蒋介石のカイロ会談で対日処理方針を定めたカイロ宣言を発表し,これにひきつづいておこなわれたローズヴェルト・チャーチル・スターリンによるテヘラン会談では,連合軍の北フランス上陸作戦などが協議された。これにもとづいて,44年6月アイゼンハウアー指揮下の連合軍がノルマンディーに上陸し,第二戦線を形成した。連合軍は8月パリに入り,ド=ゴールはただちに臨時政府を組織した。45年に入ると,連合軍の空襲によって多くの都市や工業施設,交通網が破壊されていたドイツは,東西で総くずれになり,5月2日ベルリンが陥落し,同7日,ドイツ軍は無条件降伏した。
 これにさきだち,1945年2月,ローズヴェルト・チャーチル・スターリンは,クリミア半島のヤルタで会談し,ヤルタ協定を結んでドイツ処理の大綱,秘密条項としてソ連の対日参戦などを決め,戦後の新国際秩序の基本方向を確認した。
 太平洋地域では,アメリカ軍が1944年中にサイパン・レイテ島をとり,45年2月フィリピンを奪回し,4月には沖縄に上陸した。同時に日本本土への爆撃を強め,東京をはじめ日本の主要都市の施設や住民に大きな被害をあたえた。4月にローズヴェルトが急死したため,大統領に昇格したトルーマンは,7月チャーチル(途中でアトリーとかわった)・スターリンとベルリン郊外のポツダムで会談し,ドイツの管理問題を協議するとともに,日本の降伏を求めるポツダム宣言を発表したA。アメリカは,8月6日広島に,さらに9日には長崎に新兵器の原子爆弾を投下して両市を壊滅させB,一方,ソ連軍はヤルタ協定にもとづき,日ソ中立条約の規定に反して,8月8日に日本に宣戦,中国東北地方をはじめ,朝鮮・樺太に進撃したC。日本の降伏直前のアメリカ合衆国・ソ連の軍事行動は,戦後の国際社会で主導権をにぎろうとする意図がこめられていた。こうした情勢のもとで,日本は8月14日ついにポツダム宣言受諾による降伏を決定し,15日国民にあきらかにした。ここに6年にわたる第二次世界大戦はおわった。


@ 第二次世界大戦において,日独伊三国同盟側に加わった国々(ハンガリー・ルーマニア・ブルガリアなど)を枢軸国といい,これに対抗した国々を連合国という。
A ポツダム宣言は,はじめ米・英・中3国の名で発表され,のちソ連も参加した。宣言は日本軍の無条件降伏の要求や,降伏後の日本の処遇についての基本的方針をあきらかにした。
B 原子爆弾により,被爆直後から1950年までの5年間に,広島で約20万人以上,長崎で約14万人以上の市民が死亡し,いまなお多くの人が原爆後遺症で苦しめられている。
C ソ連は1945年4月,日ソ中立条約の破棄を日本に通告したが,条約には通告後1年間は有効とする規定があった。戦後,ソ連は約60万人の日本人戦争捕虜をシベリアやヨーロッパ=ロシアなどに長期間抑留し,強制労働に従事させて,多くの死者をだした。

●第二次世界大戦の結果●
 第二次世界大戦は,東アジアにおける日本,ヨーロッパにおけるイタリア・ドイツのファシズム諸国家が,領土拡大をめざして,ヴェルサイユ・ワシントン体制を打破しようとする動きからはじまった。国際連盟による集団安全保障体制がくずれるなかで,当初はドイツ・イタリアがヨーロッパ地域で,日本が中国で,それぞれ独自の侵略戦争を開始したが,独ソ戦と太平洋戦争の開始とともに,これらの戦争は一体化して文字通り世界戦争に拡大した。反ファシズムの立場に立つアメリカ合衆国・イギリス・ソ連などは,はやくから民主主義とそれにもとづく戦後の国際秩序を提案して,多くの国々を連合国側に組織したのに対し,ファシズム諸国家は,それぞれの支配圏樹立をめざすだけで,他国民を納得させる普遍的理念を持たず,さらにその暴力的占領地支配は,ヨーロッパやアジア各地の占領地域民衆の多様な抵抗運動をよびおこした。その結果ファシズム諸国家は,事実上,全世界を敵にまわすことになって敗北した。第二次世界大戦の犠牲者は,軍人および民間人など非戦闘員をあわせて数千万人にのぼるといわれる。それには人種的・宗教的差別による追放や大量殺害もふくまれ,戦後になっても各地で多くの難民をうんだ。
 米ソ両国は大戦で傑出した実力を示して,戦後世界での指導的役割を認められ,ヨーロッパの地位は,それまでの中心から一つの地域へと低下した。他方で,アジア諸地域などでの民衆の抵抗運動は,反ファシズム運動をこえて,欧米諸国の植民地支配を打破し,独立する力量を獲得した。多大の犠牲と国土の荒廃,さらに人類の生存そのものをおびやかすことになる核兵器の登場は,戦後の国際体制の方向を決定する影響を持った。
第17章 戦後世界と東西対立

 第二次世界大戦後,国際連合が結成され国際協調と国際平和の実現が期待されたが,いわゆる冷戦がはじまり,世界は米ソ両大国を中心とする二つの勢力に分裂して,その対立はしだいに激しさを増した。ヨーロッパにおける東西対立はベルリン問題でその頂点に達したが,これが東西両ドイツの成立によって一応の安定がえられると,対立の焦点はアジアに移行した。すでにアジアではインドシナ戦争,中国の内戦,朝鮮半島の分断で東西対立がおこっていたが,はじめて直接戦闘をまじえたのが朝鮮戦争であった。この戦争は両陣営に軍事ブロックの結成を急がせ,緊張はさらに高まった。こうした国際情勢に危機感を持ったのがあたらしく独立国家となったアジア・アフリカ諸国であった。1954年周恩来とネルーは平和五原則を提唱し,さらに翌年アジア・アフリカ会議が開催され,いずれの陣営にも属さない非同盟勢力が世界政治に登場して,平和の実現につとめた。戦後の世界の特徴の一つは,この植民地状態からアジア・アフリカの諸国が独立を達成し,国際政治のうえで大きな役割をはたすようになったことである。
 1956年ソ連においてスターリン批判がおこなわれると,その影響下にあった東欧諸国に動揺が生じ,社会主義路線をめぐる中ソ論争もおきて,ソ連の指導力は後退した。また資本主義圏でもヴェトナム戦争の泥沼化によってアメリカの威信にかげりがではじめ,EC諸国と日本の台頭によって世界経済の多極化の傾向が顕著となった。

1 戦後世界の出発

●戦後構想と国際連合●
 第二次世界大戦勃発後の1941年8月,米・英首脳会談の結果,戦後の国際秩序と安全保障の原則をうたった大西洋憲章が発表された。ソ連など15カ国もこれに賛成し,翌42年1月には連合国共同宣言で戦後構想の原則として確認された。その後44年8〜10月,ワシントン郊外のダンバートン=オークスでの米・英・ソ・中4大国会議の結果,国際連合憲章の草案がまとまった。憲章は,45年4月,50カ国が参加したサンフランシスコ会議で正式に採択され,同年10月国際連盟にかわって,国際連合が発足した。
 国際連合は,国際平和を維持し,経済・文化・教育の発展をたすけ,基本的人権を擁護@し,紛争の原因をとりのぞくことを目的にした常設の国際機関であり,ニューヨークに本部がおかれている。国際連合は全加盟国で構成される総会の決定によって運営されるが,国際連盟の非力を反省して,米・英・仏・ソ・中Aの5大国を常任理事国とする安全保障理事会を設置し,国際紛争解決のために経済制裁・軍事行動をふくむ強力な権限をあたえた。また,5大国の共同歩調を重視するうえから,常任理事国には拒否権が認められた。国際連合はその目的を実行するために,ユネスコ(国際連合教育科学文化機関),国際労働機関(ILO),世界保健機関(WHO)など,幅広く活動する専門機関を持っているB。
 戦後の国際経済・金融協力体制もこれと並行して協議され,1944年7月アメリカ合衆国のブレトン=ウッズ会議に連合国代表が集まり,国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行)の設立で合意し,両組織は45年12月に発足した。この結果,アメリカ合衆国のドルは戦後の国際的基軸通貨としての地位を確立した。
 戦後世界の構想は,圧倒的な大国となったアメリカ合衆国の意向をもとにつくられ,その円滑な発展は,大戦の勝利に大きく貢献をしたもう一つの大国ソ連との戦後の協力関係にかかっていた。
 一方,世界各地でも,戦後ただちにそれぞれの再建やあたらしい出発をめざす動きがおこった。


@ 1948年の第3回総会で,達成すべき基本的人権を示した世界人権宣言が採択された。
A 中国代表権は当初の中華民国(台湾)から,1971年中華人民共和国に移った。
B このほか,国連児童基金(ユニセフ)など多くの補助機関がある。

●大戦後のヨーロッパ諸国●
 米・英・ソ3国は,1945年8月のポツダム協定で,フランスをふくめた4国によるドイツの分割占領と共同管理,旧首都ベルリンの分割管理,ドイツの民主化の徹底などの方針を決めた。同時に,ニュルンベルクに国際軍事裁判所を設置し,ナチス=ドイツ指導者の戦争犯罪責任を追及した@。また,オーストリアはドイツと切りはなされて,やはり4国の共同管理のもとにおかれ,イタリア・ハンガリー・ブルガリア・ルーマニア・フィンランドの旧枢軸国とは,47年パリ講和条約が結ばれ,イタリアは海外領土を放棄した。
 西ヨーロッパや北ヨーロッパの諸国は,戦争が終結しドイツの占領がおわると,以前の政治・経済構造を引きつぎ,そのうえにたって戦後の再建にのりだした。イギリスでは,1945年7月の総選挙で労働党が圧勝し,保守党のチャーチルにかわってアトリーが首相となり,そのもとで重要産業の国有化,社会福祉制度の充実がはかられた。また,エールはイギリス連邦を脱して,49年アイルランド共和国となった。フランスは,ドイツからの解放後,ド=ゴールによって臨時政府が組織された。ド=ゴールはまもなく辞任したが,46年10月新憲法が成立して,第四共和政が正式に発足した。しかし,第三共和政以来の政局の不安定はその後も続いた。イタリアでは,45年末キリスト教民主党が政権を担当し,46年国民投票の結果,王政が廃止されて共和政になった。
 東ヨーロッパ・東南ヨーロッパでは,ポーランドのようにドイツの占領下で国土を徹底的に破壊されたり,枢軸国の一員となった国が多かったため,戦後の出発にあたっては西ヨーロッパ諸国より大きな変革をともなった。その際,ドイツからこの地域を解放したソ連が戦後も占領軍としてとどまり,自国の安全保障をはかろうとして,親ソ的な政府の樹立を強く求めた。そのため,ほとんどの国では,ソ連の後押しをうけた各国共産党が,戦後の政権で主導権をにぎることになった。戦後,国境線を西に移動させたポーランドをはじめ,ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・ユーゴスラヴィアA・アルバニアは,いずれもソ連にならって人民民主主義をとなえ社会主義を採用して,土地改革によって地主制を一掃し,計画経済による工業化を進めた。


@ 裁判では平和や人道に対する罪が問われ,主要指導者12名が死刑判決うけた。
A ユーゴスラヴィアは,ティトーの抵抗運動が大戦末期に自力解放に成功したことから,戦後,ソ連に対しても自立的な姿勢を示した。そのため,ユーゴスラヴィアは1948年コミンフォルムから除名され,東欧社会主義圏からはなれて独自の道を進んだ。

●大戦後の東・東南アジアと南アジア●
 第二次世界大戦で,日本の侵略をうけたアジアの諸地域では抗日運動がおこり,解放と独立をかかげる民族運動がいちだんと活発になった。連合国と協力して戦争に参加したインドなどでも,戦後,独立をめざす動きが強まった。これに対して,欧米の植民地保有国は,大戦後も植民地を維持し,本国につなぎとめようとする政策をとるところが多かったため,民族独立運動は戦後もきびしい闘いに直面した。
 降伏した日本は連合国軍に占領されたが@,占領軍は実質的にはアメリカ軍のみであり,そのもとで軍隊の解散,財閥解体,農地改革,教育改革などの民主的改革が実行された。またドイツと同様,東京に設置された極東国際軍事裁判所で戦争犯罪がさばかれたA。1946年には主権在民・戦争放棄をうたった新憲法が公布された。
 日本に併合されていた朝鮮は,すでに1943年の米・英・中首脳のカイロ会談で戦後の独立が了承されていた。戦後,朝鮮に進出した米・ソ両軍は,北緯38度線をさかいに北をソ連が,南をアメリカが分割占領することになった。朝鮮独立にいたる方法をめぐって,米ソ間で対立が続くなかで,48年,アメリカから帰国した李承晩を大統領とする大韓民国(韓国)が南部に成立し,北部でも金日成を首相(72年以降主席)として朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の独立が宣言されて,南北の分立がはじまった。
 大戦中,日本に占領された東南アジアの諸地域では,以前からの独立運動や抗日運動が中心となって,戦後つぎつぎと独立をかちとった。
 抗日運動がもっとも激しかったフィリピンは,すでに1934年にアメリカから10年後の独立を約束されていたが,46年独立宣言を発してフィリピン共和国となった。しかし,アメリカは経済的になお強い影響力を持ち,国内には農村部を基盤にした有力な共産党武装組織が政府に反対していたため,その後も不安定な政局が続いた。
 フランス領インドシナでは,ホー=チ=ミンが,日本の占領下にヴェトナム独立同盟(ヴェトミン)を組織し,戦後ただちにヴェトナム民主共和国の独立を宣言した。フランスはこれを認めず,南部を拠点としてヴェトミンを武力でおさえようとしたので,以後両者のあいだで交戦が続いた(インドシナ戦争)。1949年,フランスは阮朝最後の王バオ=ダイをたてて,フランス連合内の一国としてヴェトナム国を発足させたが,フランスの軍事力にささえられたその基盤は弱体であった。民主共和国側の攻勢はその後も続き,54年ディエンビエンフーでフランス軍が大敗したのち,同年フランスは民主共和国とジュネーヴ休戦協定を結んだ。フランスはインドシナから撤退し,南北間をわかつ北緯17度線が暫定的軍事境界線となった。ヴェトナム民主共和国は統一を主張したが,翌55年境界線南部にヴェトナム共和国が成立し,ヴェトナムは南北に分断されたB。
 また,オランダ領東インド諸島では,戦争中日本と協力して独立の準備が進められていたが,大戦終結直後の1945年8月スカルノを指導者として,インドネシア共和国の成立が宣言された。しかし,オランダは武力で独立を阻止しようとしたため,共和国軍とのあいだで戦闘が続いた。インドネシア共和国はこの危機をのりきって,49年独立を達成した。
 イギリスの支配下にあったマレー半島は1957年に独立してマラヤ連邦となり,63年英領ボルネオ(サバ・サラワク)と合体してマレーシア連邦を形成したが,65年には華人(中国系住民)が多数をしめるシンガポールが連邦から分離して別個の独立国となった。
 一方,南アジアを中心とするイギリスの支配地域でも,戦後,あいついで独立が認められた。戦後の独立が約束されていたインドでは,大戦末期,統一インドを主張するガンディーらと,パキスタンの分離・独立を求める全インド=ムスリム連盟のジンナーが対立した。47年インド独立法が制定されると,ヒンドゥー教徒を主体とするインド連邦とイスラム教徒によるパキスタンの2国にわかれて独立した。しかし,ヒンドゥー・イスラム両教徒の対立はその後もおさまらず,48年ガンディーは急進的なヒンドゥー教徒に暗殺された。インドは初代首相ネルーのもとで,50年,カーストによる差別の禁止など社会の近代化をめざす憲法を発布し,連邦共和国となったC。


@ 連合国軍最高司令官は,米軍のマッカーサーで,彼はのちの朝鮮戦争のときには国連軍総司令官となった。
A この裁判では,東条元首相ら7人が死刑となった。
B ヴェトナムにさきだって,1954年カンボジアは完全独立を達成し,シアヌークのもとで中立政策を進めた。また,ラオスも53年独立したが,左右の対立による内戦がはじまった。
C スリランカ(セイロン)も1948年イギリス連邦内の自治領として独立した。戦争中,対日協力政権がつくられたミャンマー(ビルマ)では,戦後イギリスに対して独立を要求し,イギリスもこれを認めたため,48年イギリス連邦からはなれ,共和国として正式に独立した。

●西アジアとアラブ世界●
 西アジア諸地域は,大戦中直接戦火にさらされることが少なく,そのため,列強と結びついた王政や西欧諸国の利権が戦後も継続し,それに抗議する民族主義運動が広がった。
 大戦中,中立を表明しながら,英・ソ両軍の進駐をうけたイランでは,戦後,外国の干渉に反対する民族主義運動が強まり,とくにイラン産石油を独占していたイギリス系のアングロ=イラニアン石油会社の国有化を求める動きが高まった。1951年,モサデクの指導のもとに国有化が実行されたが,イギリスとの関係が悪化すると,53年国王パフレヴィー2世はクーデタによってモサデク政府を倒し,以後,親英米路線に転じた。
 1945年3月,エジプトなどアラブ7カ国はアラブ諸国連盟@を結成して,アラブの統一行動をめざした。第一次世界大戦後から,アラブ人とユダヤ人の対立が続いていたパレスチナでは,戦後イギリスの委任統治が終了するのを機に,国際連合によってアラブ人・ユダヤ人両地域への分割案が作成された。ユダヤ人はこれをうけいれて48年イスラエルの建国を宣言したが,アラブ諸国連盟はこれに反対してイスラエルと戦争になり(パレスチナ戦争,第1次中東戦争),けっきょく国際連合の調停によってイスラエルは独立を確保した。しかし,パレスチナから 100万以上のアラブ人が追放されて難民(パレスチナ人)となり,イスラエルとアラブ諸国の対立は,以後激しさを増した。
 エジプトでは1952年王政の腐敗に抗議して,ナギブ・ナセルらが指導する将校団が革命をおこし,国王を追放して,翌53年共和国が成立した(エジプト革命)。まもなくナセルが実権をにぎって,大統領となった。


@ エジプト・シリア・イラク・レバノン・トランスヨルダン・イエメン・サウジアラビアの7カ国で結成された。

●中華人民共和国の成立●
 中国は,日本の侵略に耐えぬき,戦後5大国の一員として重要な地位を認められた。しかし,国内では大戦末期から再燃した国共両党の対立が続いた。蒋介石は,1947年には新憲法を発布して,翌年総統となったが,国民党の支配は内部の腐敗や汚職がめだち,経済も悪化したため,民衆の批判をあびた。一方,中国共産党は毛沢東の指導のもとに新民主主義論@をとなえ,農村部で土地改革を指導して支持をかため,47年なかばから人民解放軍によって反攻にでた。国民党軍は敗退をかさね,49年12月蒋介石は大陸から追われて台湾にのがれ,ここで中華民国政府を維持した。
 中国本土を掌握した中国共産党は,1949年9月国民党をのぞく民主勢力を北京に招集して人民政治協商会議をひらき,10月1日毛沢東を主席とし,周恩来を首相とする中華人民共和国の成立を宣言した。新国家の首都は北京と定められた。人民共和国は50年に土地改革法を公布して農民に土地を分配し,さらに財閥所有の企業を国営に移し,伝統的な家族制度の打破を実行した。53年には第1次五カ年計画によって農業集団化と工業化が推進され,翌年新憲法が採択された。50年2月,毛沢東はモスクワで中ソ友好同盟相互援助条約に調印して,社会主義陣営に属する姿勢をあきらかにした。
 第二次世界大戦後,アジアで最初の社会主義大国となった中国は,反植民地運動や民族独立運動にとって一つの手本となった。新中国は,社会主義諸国をはじめ,インド・イギリスなどから承認されたが,アメリカ合衆国は台湾の中華民国政府を正式の中国代表とする立場をとった。


@ 共産党を中心に,他の民主主義勢力を連合して,社会主義実現までの過渡期を進もうとする政策。
2 東西対立と冷戦

●ヨーロッパの冷戦とドイツの分裂●
 東欧諸国で自由選挙によって議会主義を確立させて影響力をえようとする米・英などと,社会主義を実行する人民民主主義を支援して,自国の安全をはかるソ連とのあいだの相互不信は,東西対立となってあらわれ@,やがてこれは,欧米の資本主義諸国と社会主義諸国間での冷たい戦争(冷戦)といわれる状況に発展した。東西両陣営とも,核戦争の脅威のもとに米・ソの直接的衝突をさけながら内部の結束をかため,勢力拡大をはかってアジア・アフリカなどの発展途上国の内紛にも介入した。そのため,戦後の各地域の自主的な歩みは大きく制約され,また各国の戦後改革の方向もその影響をうけた。
 1947年3月,アメリカ合衆国は,ギリシア・トルコへの共産主義の進出を阻止するため,ソ連に対する「封じ込め政策」(トルーマン=ドクトリン)を宣言し,両国への援助を開始した。さらに同年6月,マーシャル国務長官はヨーロッパ経済復興援助計画(マーシャル=プラン)を発表して,ヨーロッパ諸国への経済援助の意向をあきらかにした。西ヨーロッパ諸国はただちにマーシャル=プランのうけいれを決めたが,ソ連・東欧諸国はこれを拒否し,47年9月各国共産党の情報交換機関,コミンフォルム(共産党情報局)を結成して対抗した。49年1月,ソ連は東欧諸国への経済援助計画を示し,それにもとづいて,ソ連と東欧6カ国のあいだに経済相互援助会議(コメコン<COMECON>)を創設しA,社会主義諸国の結束をはかった。
 1948年2月,東西間で独自の地位をまもろうとするチェコスロヴァキアでクーデタがおき,共産党が実権をにぎると,西側のソ連に対する危機感はさらに高まり,3月,西欧5カ国間で西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)が結ばれたB。ドイツでは47年初め,米・英・仏管理地区とソ連管理地区とが事実上東西に分離した。48年6月,西側管理地区で通貨改革が実行されると,ソ連は東ドイツの経済的混乱をおそれて,共同管理下にあった西ベルリンへの空路以外の出入路を封鎖した。西側3国は生活必需品の空輸作戦で対抗したため,49年5月ベルリン封鎖はとかれた。
 1949年,ドイツの西側管理地区は,ボンを首都とするドイツ連邦共和国(西ドイツ)となった。連邦共和国は,キリスト教民主同盟を指導するアデナウアー首相のもとに,西側の一員として経済復興につとめ,54年のパリ協定で主権を回復した。一方,ソ連管理地区も49年,社会主義統一党を中心に,東ベルリンを首都とするドイツ民主共和国(東ドイツ)の成立を宣言し,社会主義陣営に属した。なお,オーストリアは,55年,米・英・仏・ソの占領4大国と国家条約を結んで,中立国として独立を回復した。
 さらに,1949年4月,西側12カ国はソ連の脅威を想定して北大西洋条約機構(NATO)を結成しC,武力侵略に対して,共同して防衛にあたることになった。


@ 1946年,イギリスの前首相チャーチルは,ソ連がバルト海からアドリア海まで「鉄のカーテン」をおろしていると語って,ソ連への不信感を示した。このことばは,その後の冷戦期にソ連の閉鎖性と危険性を示すことばとして西側諸国で広く使われた。
A 東欧6カ国とは,アルバニア・ブルガリア・チェコスロヴァキア・ハンガリー・ポーランド・ルーマニアであり,その後1950年に東ドイツ,62年にモンゴル,72年にキューバ,78年にヴェトナムが加盟した。なお61年にはアルバニアは事実上コメコンから離れた。
B 英・仏・ベルギー・オランダ・ルクセンブルクの5カ国である。
C 西ヨーロッパ連合5カ国に,アメリカ・カナダ・ノルウェー・デンマーク・アイスランド・イタリア・ポルトガルを加えた12カ国で構成した。のち,ギリシア・トルコ・西ドイツ・スペインが加盟した。

●朝鮮戦争とアジアの冷戦●
 東西対立が深まるなかで,南北に分断された朝鮮での統一をめぐる対立もいっそうきびしくなった。
 1950年6月,朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)軍は境界線をこえて侵攻し,半島南端の釜山地域にまでせまった。国際連合は安全保障理事会をひらき,共和国軍の行動を侵略と断定し@,それをうけてアメリカ軍を主体とする国連軍が韓国軍の支援のため朝鮮に出動した。国連軍は共和国軍を北緯38度線に押しもどし,さらに中国国境近くまで追撃した。これをみて,中国は人民義勇軍を派遣し,共和国側を援助して,国連軍に反撃した。以後,戦局は38度線をはさんで一進一退をくりかえしたが,53年7月,ソ連の提案による休戦が成立して,38度線をはさむ停戦ラインで南北朝鮮の分断が固定化された。
 中華人民共和国の成立と朝鮮戦争の勃発によって,冷戦はアジア・太平洋地域にも波及し,アメリカは共産主義の拡大を阻止するために,アジアでも封じ込め政策を進めた。
 日本では,朝鮮戦争に際し,警察予備隊(のちの自衛隊)がつくられ,1951(昭和26)年,社会主義諸国と一部のアジア諸国が不参加あるいは反対のまま,サンフランシスコ講和会議で平和条約に調印した。日本は独立を回復し,朝鮮・台湾・南樺太・千島を正式に放棄したA。平和条約と同時に,日米安全保障条約が結ばれ,アメリカは日本防衛の義務を負い,日本はアメリカ軍の駐留,軍事基地と関係施設の存続を認めた。こうして,日本は自由主義陣営の一国として進むことになった。アメリカは1951年,さらにフィリピンと軍事援助条約を,またオーストラリア・ニュージーランドとのあいだで太平洋安全保障条約(ANZUS)を結び,54年には,アンザス諸国・英・仏にフィリピン・タイ・パキスタンをあわせて,東南アジア条約機構(SEATO)を結成した。中東でも,55年トルコ・イラクに加えて,イギリス・パキスタン・イランが参加するバグダード条約機構(中東条約機構<METO>)が結成されB,対ソ包囲網の一角を形成した。
 これに対し,1955年,ソ連を中心とする東ヨーロッパ8カ国は北大西洋条約機構に対抗して,東ヨーロッパ相互援助条約(ワルシャワ条約機構)を結成し,東西両陣営の対立は軍事的対抗関係へと深まった。


@ 当時ソ連は,安全保障理事会をボイコットして出席していなかったため,拒否権を行使しなかった。
A 歯舞・色丹・国後・択捉の北方領土は日露和親条約以来,日本の領土と認められてきた。戦後,旧ソ連およびロシア連邦はこれらの地域を占領しつづけ,日本はその返還を求めている。
B 1958年,革命によって,イラクは王政から共和政にかわり,翌59年バグダード条約機構を脱退した。このため,バグダード条約機構は中央条約機構(CENTO)と改称して,本部をトルコのアンカラに移した。
3 第三世界の自立と東西ブロック内の動揺

●AA会議とアフリカ諸国の独立●
 冷戦が東西両陣営の軍事ブロック化をうながすなかで,アジア・アフリカ諸国のあいだには自立の姿勢を強め,第三勢力を形成しようとする潮流があらわれた。
 1954年,インドなど南アジア5カ国首脳@がコロンボにあつまり,アジア・アフリカ諸国会議の開催,核実験禁止を提案し,また中国の周恩来首相はインドのネルー首相を訪問し,両国間の友好の基礎として平和五原則Aを発表した。翌55年にはインドネシアのバンドンにアジア・アフリカ29カ国の代表が集まり(アジア=アフリカ会議<バンドン会議>),平和共存・反植民地主義をうたった十原則を採択した。
 エジプトではナセル大統領が積極的中立政策をとなえて,中国の承認など社会主義国に接近する方向をとり,国内の近代化推進のためにアスワン=ハイダムの建設をめざした。1956年,英・米がエジプトへの経済援助を停止すると,ナセルはスエズ運河の国有化を宣言し,ダム建設費の財源を確保しようとした。これに対して,イギリス・フランス・イスラエルは,エジプトに軍事行動をおこした(スエズ戦争,第2次中東戦争)。しかし,英・仏らは国際世論の批判をあび,米・ソも反対したので,3国は撤退し,エジプトはアラブ民族主義の指導的地位にたつようになった。
 また,フランス支配下の北アフリカ地域では,1956年モロッコ・チュニジアが独立し,アルジェリアでも民族解放戦線(FLN)による独立武装闘争が激化した。フランス第四共和政政府はアルジェリア独立に反対するフランス人植民者や現地軍部の反乱に対応できず,58年,ド=ゴールのもとにあらたに第五共和政が発足した。ド=ゴールはアルジェリアの要求をうけいれ,62年アルジェリアは独立をかちとった。
 こうして,戦後もなお多くの植民地が残されたアフリカでも,現状を維持できないことがあきらかになった。1957年,エンクルマを指導者としてガーナが最初の黒人共和国として独立したのをはじめ,60年にはいっきょに17もの新興独立国がうまれた。そのため,この年は「アフリカの年」とよばれた。63年,エチオピアのアジスアベバでひらかれたアフリカ独立諸国首脳会議には30カ国が参加し,アフリカ統一機構(OAU)を結成して,アフリカ諸国の連帯,新旧植民地主義の克服をめざした。
 しかし,新興独立国の経済構造は,本国の経済的利益にあわせてつくりあげられていたため,自立の基盤が弱く,教育・医療など基本的社会制度もほとんど整備されていなかった。さらに,経済的利権を手放したがらない本国のなかには,ベルギーのように独立直後のコンゴに武力で干渉して,コンゴ動乱をおこした例もあった。このため,独立後の国づくりは困難をきわめ,政治・経済も不安定で,部族主義の対立による内戦や軍のクーデタなどがくりかえされ,独裁的政府がしばしばあらわれた。混迷を続ける新興独立国の急進的改革や民族運動は,このなかで当初の勢いを失い,欧米諸国の援助によって近代化をめざす動きが強くなった。


@ インド・パキスタン・インドネシア・スリランカ・ミャンマーの5カ国である。
A 五原則は,領土主権の尊重,不侵略,不干渉,平等互恵,平和共存をさす。

●非同盟諸国の結集とアジア諸国の変化●
 アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国を,米ソ対立のなかにまきこまず,第三世界として積極中立の立場にまとめるため,1961年ユーゴスラヴィア・インド・エジプト・インドネシアのよびかけで,ベオグラードに25カ国が参加して第1回非同盟諸国首脳会議がひらかれた。会議は,平和共存,民族解放の援助,植民地主義の打破を宣言して,共同歩調をとることを誓った。
 1960年代になると,戦後独立したアジア諸国のなかにも独立以来の体制への批判があらわれた。南北対立が続く朝鮮半島では,大韓民国の李承晩の政治に対して,60年学生を中心とする革命運動がおこり,李承晩を失脚させた。その後,朴正サがクーデタによって軍政をしき,63年から民政に移行して,大統領に就任した。韓国は65年日本と国交を結び,経済発展に力をいれた。
 インドネシアのスカルノ大統領は,国内の共産党勢力とも協力し,また中国との提携を強める政策をとっていたが,1965年九・三〇事件を機に軍部が実権をにぎると,共産党は弾圧され,スカルノも失脚した。68年には,スハルトが大統領となった。
 1967年,インドネシア・マレーシア・フィリピン・シンガポール・タイの5カ国は,地域協力機構として東南アジア諸国連合(ASEAN)を結成し,71年には中立地帯宣言をだして,地域紛争の自主解決をめざした@。


@ 東南アジア諸国連合にはその後,1984年にブルネイが,95年にヴェトナムが正式に加盟した。

●ラテンアメリカ諸国とキューバ革命●
 ラテンアメリカ諸国は大戦の被害をうけず,戦後,アメリカ合衆国の強い指導のもとで,1947年,パン=アメリカ会議でリオ協定を採択し西半球地域の共同防衛相互協力を約して,翌48年米州機構(OAS)を結成した。しかし,この地域では,以前からの大土地所有制が続き,議会政治も安定しなかったので,土地改革や政治改革を求める運動があいついだ。
 1951年,中米のグアテマラで左翼政権が成立して,土地改革に着手したが,54年に合衆国の支援をうけた軍部のクーデタによって倒された。またアルゼンチンでは,46年に大統領となったペロンのもとで,民族主義的な路線がとられた。
 1959年,キューバではカストロの指導する革命運動が,親米的なバティスタ独裁政権を倒して,政権をにぎった(キューバ革命)。革命政府が土地改革を実行し,米系企業を接収する政策をとると,キューバと合衆国の関係は悪化し,61年,合衆国はキューバと断交した。合衆国はカストロ政権の武力打倒を支援して失敗し,それに対抗してキューバは社会主義宣言を発表して,ソ連寄りの姿勢を強めた。62年ソ連がキューバにミサイル基地の建設をはじめると,合衆国はミサイル撤去を要求して海上封鎖を実行したため,米・ソの直接衝突の危機がおこり(キューバ危機),世界を緊張させた。けっきょくソ連がミサイルを撤去して,世界戦争の危機は回避された。しかし,キューバの革命政権は維持され,ラテンアメリカ諸国やカリブ海地域の革命運動・民族運動に大きな影響をおよぼした。

●核兵器反対運動と平和運動の拡大●
 米・ソの対立は,核兵器の開発・実験に拍車をかけた@。1949年ソ連が原子爆弾の製造に成功し,つづいて52年には,イギリスも核保有国となった。52年にアメリカは最初の水素爆弾の実験をおこない,翌年にはソ連も水爆の保有をあきらかにした。これを機に,核戦争の危険を警告し,核兵器の実験中止と核兵器禁止を求める世界の声は高くなり,ゲッティンゲン宣言やイギリスのバートランド=ラッセルのよびかけでひらかれたパグウォッシュ会議など,各国の科学者のあいだにも核兵器廃絶の運動が広がった。
 キューバ危機をはさんで,偶発戦争を防止するため,1963年,米ソ間にホットラインが設置され,また米・英・ソ3国間で大気圏内外水中核実験停止条約(部分的核停条約)がモスクワで調印された。しかし,その後,フランス・中国・インドが核保有国となったため,この問題の解決はなお残されたままとなっている。


@ 1946年,国際連合のなかに原子力委員会が設置され,アメリカなどの提案で,原子力の国際管理が検討されたが,米ソ対立によって進展しなかった。

●「雪どけ」と東欧諸国の危機●
 1953年スターリンの死後,ソ連はそれまでの外交政策をみなおし,55年,ユーゴスラヴィアと和解し,西ドイツとの国交も回復して,56年にはコミンフォルムを解散した。
 1953年,アメリカ合衆国ではトルーマンにかわって共和党のアイゼンハウアーが大統領になると,米ソ両国のあいだにもようやく話し合いのきざしがあらわれた。朝鮮戦争の終結やインドシナ戦争解決のためのジュネーヴ会議開催はその成果であり,55年7月には,米・英・仏・ソの4巨頭会談がジュネーヴでひらかれた。
 1956年2月のソ連共産党第20回大会で,フルシチョフ第一書記は資本主義国との平和共存をとなえ,東西間の緊張緩和政策を表明し,さらにスターリン支配下の個人崇拝と不法な抑圧や処刑を批判して(スターリン批判),自由化の方向をうちだした。この転換は「雪どけ」といわれ,それまでソ連型の体制をとっていた東欧諸国にも自立の動きをうながした。
 ポーランドでは,1956年6月ポズナニで生活改善と民主化を要求する運動がおこり,民衆と軍・警察が衝突した。その後,党の指導者はゴムウカに交代して,それまでの政策を修正する自由化路線がとられた。ハンガリーでは,同年10月,社会主義体制への不満が全国的なデモに発展し,ソ連軍の介入によって大規模な武力衝突に拡大したが鎮圧され,首相ナジ=イムレは処刑された。東ドイツの体制とその政策は,自由化の動きにも変化をみせなかったが,50年代末,農業集団化を進めると,東ベルリンから西側に脱出する人々が増えた。そのため東ドイツ政府は61年,東西ベルリンの境界に壁をきずいて交通を遮断する処置をとり,脱出を阻止した。
 こうして,東欧諸国の自由化とソ連からの自立の動きは阻止されたが,1958年第一書記と首相を兼任したフルシチョフは,資本主義に追いつくために経済改革を実行し,大陸間弾道ミサイルの開発,世界最初の人工衛星の成功(1957年)を背景に,アメリカとの直接対話を進めた。59年,フルシチョフはアメリカのキャンプ=デーヴィドで,アイゼンハウアー大統領と会談し,60年のパリ会談は失敗したものの,つぎのケネディ大統領とも対話を継続し,平和共存路線を定着させた。

●中ソ対立と文化大革命●
 ソ連の平和共存政策と対米接近は,帝国主義との対決を重視する中国との対立をもたらした。中国は1958年から工業生産の飛躍的増大をめざす「大躍進」運動を展開し,農村での人民公社設立を強行したが,かえって国内の経済的混乱を引きおこし,59年には毛沢東にかわって劉少奇が国家主席になった。同年,チベット自治区でダライ=ラマを中心とする反中国運動がおこり,これを鎮圧するなかで,中国軍はインドとの国境でインド軍と衝突した。こうした内外の危機のなかで,党主席に留任した毛沢東はソ連の政策転換を修正主義として非難した。ソ連も毛沢東を独裁者として批判し,60年には中国からソ連人技術者を引きあげ,経済支援を停止したため,両国間の関係はますます悪化した。中ソ対立は63年以降公開論争に発展し,69年には中ソ国境で軍事衝突がおこるまでになった。社会主義諸国は,アルバニアをのぞいてソ連を支持したので,中国は孤立したが,64年に核保有国となり,アジア・アフリカ諸国への経済援助をおこなって,民族解放運動を指導しようとした。
 1960年以降,中国は「大躍進」運動をみなおし,経済を調整することになったが,内外の困難は続き,その対策をめぐって共産党内の左右の対立が激化した。66年,毛沢東と軍をひきいる林彪ら左派は,劉少奇・ュ小平らを資本主義の復活をはかる党内の修正主義者(「実権派・走資派」とよばれた)と批判し,こうした党幹部を一掃するために,全国にプロレタリア文化大革命をよびかけた。これにこたえて,紅衛兵として組織された若い世代を中心に大衆運動が広がり,党の幹部や知識人を攻撃して,その多くを追放した。劉少奇らは失脚して,国家主席は廃止された。10年にわたる文化大革命によって,中国内部の混乱はいっそう深まり,経済・文化の発展も大きく阻害された。

●ECの成立とヨーロッパ●
 マーシャル=プランによって,経済復興をうながされた西ヨーロッパ諸国では,経済協力を強めて,相互の対立を防止しようとする動きがあらわれた。フランスの外相シューマンの提案(シューマン=プラン)にもとづいて,1952年,フランス・西ドイツ・ベネルクス3国・イタリアとのあいだで,ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足した。こうした動きは58年にはヨーロッパ経済共同体(EEC)の設立をうながし,加盟国相互の関税引き下げ,共同の商業・農業政策や資本・労働力移動の自由化が実施された。さらに,EECは,58年に発足したヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)と67年に合併して,ヨーロッパ共同体(EC)となり,西ヨーロッパ統合の基礎となった。
 第五共和政のフランスは,ド=ゴールのもとで,第4の核保有国となって独自の外交姿勢をとり,アルジェリアの独立を認めたのち,1964年には中国を承認し,66年には北大西洋条約機構への軍事協力を拒否して,アメリカから離反する傾向をみせた。しかし68年,学生・労働者を中心に戦後の諸制度の改善を求めるデモが全国的に広がって「五月危機」がおこり,改革に失敗したド=ゴールは翌年辞任した。
 経済回復が奇跡とよばれたほど急速に成功した西ドイツでは,戦後の政治を指導してきたキリスト教民主同盟のアデナウアーが1963年辞任し,66年末には,キリスト教民主同盟・社会民主党など議会の全政党で構成されるキージンガー大連合内閣が成立した。これに対して,学生運動を中心に戦後体制の改革を求める議会外反対派があらわれ,大連合内閣は69年に退陣した。
 イギリスは,EECに参加せず,1960年ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)@を結成してこれに対抗した。64年の選挙では,13年ぶりに労働党が勝利し,ウィルソン内閣が成立し,スエズ以東からの撤兵方針を定め,経済たてなおしにつとめた。しかし,67年にはポンド切り下げに追いこまれ,70年の選挙に敗れて保守党と政権を交代した。


@ 当初イギリスのほか,スウェーデン・デンマーク・ノルウェー・オーストリア・スイス・ポルトガルが参加したが,EECより結びつきはゆるやかであった。
4 米ソ超大国の動揺

●アメリカ合衆国とヴェトナム戦争●
 アメリカ合衆国では,1961年,民主党のケネディが大統領に就任し,ニューフロンティア政策をかかげて,国内改革を進めた。対外的には,ソ連との全面対決をさけながら,キューバ革命やインドシナ半島での民族解放運動の拡大をくいとめようとする政策をとったが,63年11月南部を遊説中に暗殺された。
 ケネディのあとをついだジョンソンは,国内では1964年,黒人の差別撤廃をめざす公民権法を成立させ,65年からは「偉大な社会」計画を発表して,差別と貧困の解消をめざす社会政策を推進した。しかし,対外的には,とくにヴェトナム内戦への軍事介入を強化する方針をとった。
 南北に分断されたヴェトナムでは,統一をめざすヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)の支援をうけて,60年ヴェトナム共和国(南ヴェトナム)に南ヴェトナム解放民族戦線が結成され,ゲリラ戦が続いていた。南ヴェトナムではゴ=ディン=ディエム大統領の独裁的体制への批判が強まり,解放戦線の勢力がのびたため,ゴ大統領は63年軍部のクーデタによって倒された。アメリカ合衆国は,南ヴェトナム新政府を援助し,65年から北ヴェトナムへの爆撃にふみきり,さらに南に地上兵力を派遣し,その数は68年には50万人に達した。しかし,ソ連と中国の援助をうけた北ヴェトナムと解放戦線の抵抗によって,戦局は泥沼化した。合衆国の軍事介入は国内でも世論の分裂を引きおこし,国際的にも批判をあびた。苦境にたったジョンソン大統領は,68年北爆停止を発表して,パリで北ヴェトナムとの和平交渉に入った。
 1969年に大統領に就任した共和党のニクソンは,段階的撤兵とヴェトナム人自身による解決策に転じたが,和平交渉ははかどらず,アメリカ軍は一時ラオス・カンボジアにまで戦闘を拡大し,北爆も再開した。73年1月になって,ヴェトナム(パリ)和平協定が調印され,アメリカ軍は南ヴェトナムから完全撤退し,ラオスでも和平が成立した。南ヴェトナムでは,その後も解放戦線と政府軍との戦闘が続いたが,75年4月,北ヴェトナム軍と解放戦線はサイゴンを占領し,76年南北ヴェトナムはハノイを首都とするヴェトナム社会主義共和国として統一された。
 カンボジアでは,1970年クーデタによって,シアヌーク元首が親米右派勢力に追われたのち,ポル=ポトの指導する赤色クメール(クメール=ルージュ)を中心とする解放勢力と政府軍のあいだで内戦が続いていた。75年解放勢力が勝利して,民主カンプチア(民主カンボジア)を名乗った。また,60年代前半から政権をにぎる右派と,左派(ラオス愛国戦線<パテト=ラオ>)とのあいだで同じく内戦状態にあったラオスでも,愛国戦線側が勝利し,75年ラオス人民民主共和国成立を宣言した。

●「プラハの春」の抑圧と社会主義国の停滞●
 ソ連では1964年10月フルシチョフが解任され,コスイギン首相・ブレジネフ第一書記の体制にかわった。内外の政策に大きな変化はおこらなかったが,自由化の進展やスターリン批判の声はおさえられた。
 社会主義国のなかでは,ルーマニアが,1960年代前半からソ連からはなれ独自の外交を展開しはじめていたが,68年,チェコスロヴァキアで民主化の要求がおこり,ノヴォトニーにかわって共産党書記長に選ばれた改革派のドプチェクが自由化を推進した。この動きは「プラハの春」とよばれたが,自由化の波及をおそれたソ連は,ワルシャワ条約機構の4カ国軍とともにチェコスロヴァキアに軍事介入をおこない,改革の動きを力でおさえこんだ。
 この行動は,ソ連の国際的威信を大きく低下させ,社会主義圏の改革の動きも阻害したので,以後,社会主義諸国の政治や経済は停滞した。
 アメリカ合衆国・ソ連とも,なお軍事超大国ではあったが,東西陣営内や第三世界の自立的な動きをまえに,1970年代初めにはその地位は大きくゆらぎはじめた。
第18章 現代の世界

 1970年代に進んだ世界の多極化現象は,国際関係に大きな変動をもたらした。米・中は国交を回復し,米ソ両国による軍縮が進展した。80年代後半になるとソ連にゴルバチョフが登場し,ペレストロイカのもとで内外の政策の全面的みなおしに着手すると,米ソ関係の改善はいっきょに進展し,東西対立は劇的に変化して,冷戦状況は消滅した。ソ連内部でも民族共和国の分離独立運動が進み,1991年ソ連は消滅し,諸共和国のゆるやかな結合体へと転換している。さらに東欧諸国の民主化も進み,東ドイツは西ドイツに吸収されて消滅し(ドイツの統一),東欧社会主義圏は解体した。資本主義圏ではEC諸国や日本の経済力が比重を高め,アメリカ合衆国1国だけでは,もはや世界経済を調整できない事態となった。一方,いわゆる南北問題,先進工業国と発展途上国との格差は,この間も拡大しているが,NIESやASEAN諸国の近代化の成功はそれをいっそう複雑なものにしている。発展途上地域の人口爆発,経済的苦境は,宗教対立や民族対立をめぐる多くの紛争となってあらわれ,世界に不安をあたえている。現代世界は,アメリカ・ヨーロッパ・日本の世界経済の中心地域,市場経済への移行をはかる旧ソ連・東欧諸国,混迷の度を深める発展途上地域が重層的にからみあうなかで,あらたな地域間協力と安定した経済圏の形成の方向を模索している。
 20世紀は2度の世界大戦と核の脅威のもとでの冷戦を経験して,直線的な進歩観への懐疑が強まり,現代社会での人間の生き方を問いなおし,人間の不安や孤独をうったえる文学や芸術が数多くあらわれた。しかし,現代の科学技術文明は確実に人々の生活空間や価値観を変容させていき,情報文化にささえられたあたらしい大衆文化をうみだしている。その反面,現代文明は資源の大量消費や廃棄物によって,地球的規模で深刻な環境破壊を引きおこしている。これにこたえるためには,それぞれの国民国家の枠をこえて人類が共同してとりくむ道をみいだすことが求められている。

1 冷戦の解消と国際関係の変化

●米ソ軍縮の進展とヨーロッパの安定●
 アメリカはヴェトナム戦争によって財政的にも苦境にたってドル危機をまねき,ソ連も増大する軍事費の圧迫になやんでいた。また世界の世論が,核の恐怖のもとでの東西均衡を批判していたこともあって,米ソ両国間で核兵器の制限を中心とした話しあいが進められた。1969年ヘルシンキではじまった両国間の第1次戦略兵器制限交渉(第1次SALT)の結果,72年には,核兵器の現状を凍結する協定が迎撃ミサイル制限条約(ABM条約)とともに調印され,翌年には米ソ間に核戦争防止協定が調印された。さらに82年には戦略兵器削減交渉(START)がはじまり,87年,中距離核兵器(INF)全廃条約が調印された。また核兵器の半減についても合意がなり,91年にはSTARTも調印された。
 米ソ間の緊張緩和進展の影響は,まずヨーロッパにあらわれた。1969年,西ドイツでは大連合内閣にかわって社会民主党と自由民主党の連合によるブラント政府が成立した。ブラント首相は,社会主義国との関係改善をめざす東方政策にのりだし,70年,ソ連と武力不行使を約束した独ソ条約を結び,またポーランドとも戦後国境(オーデル=ナイセ線)を認めあう国交正常化条約を締結したのをはじめ,東欧諸国との外交正常化を進めた。一方,米・英・仏・ソ4国は,72年ベルリンの現状維持を約した協定に調印し,同年末,東西ドイツ間に基本条約が結ばれ,両ドイツは相互に承認しあい,翌73年,両国とも国際連合に加盟した。
 ソ連のブレジネフ書記長が1966年に全欧安全保障協力会議(CSCE)を提案して以来,これをめぐって東西間で交渉が続いていた。その結果75年,ヘルシンキに,アルバニアをのぞく全ヨーロッパ諸国とアメリカ・カナダの首脳が参加して全欧安全保障協力会議@がひらかれ,主権尊重,武力不行使,科学・人間交流の協力をうたったヘルシンキ宣言が採択された。
 緊張緩和の潮流のなかで,西ヨーロッパの共産党のなかには,イタリア・スペインのようにソ連の権威から自立し,複数政党を認め,議会による改革を重視するユーロコミュニズム(西欧共産主義)もあらわれた。
 ヨーロッパ最後の植民地帝国といわれたポルトガルは,1961年以来アンゴラなどの植民地で民族解放運動の拡大に直面し,国内の独裁体制は危機にあった。74年軍事クーデタによって独裁体制が倒された後,新政府によってモザンビーク・アンゴラ・ギニアビサウの独立が認められ,国内の民主化も実行された。また,フランコの権威主義的体制が維持されていたスペインでは,75年フランコが死ぬと,かねてから後継者に指名されていたブルボン朝のフアン=カルロス1世が即位したが,78年,新憲法が承認されて民主的君主制に移行した。一方,ギリシアでは戦後復帰した王政が67年に軍事クーデタによって倒され,軍事政権が成立した。しかし74年に軍事政権が倒れ,翌年の新憲法で民主政に復帰した。
 南ヨーロッパ諸国の変革によって,東欧をのぞくヨーロッパでは議会制民主主義という共通の政治基盤が広がった。


@ CSCEは1995年,全欧安全保障協力機構(OSCE)と名称を改め,常設の地域機構となった。

●米中国交正常化と中国の内政転換●
 アメリカ合衆国では,ニクソン大統領のもとでアジアへの直接的軍事介入をさけるニクソン=ドクトリンがだされ,1971年中国との接近をめざしてキッシンジャー補佐官が中国に派遣された。72年2月,ニクソンは中国を訪問し,中華人民共和国を中国と認めることをあきらかにした。ニクソンはその後,ウォーターゲート事件@で批判をあびて辞任したが,民主党のカーター大統領によって,79年米・中の国交正常化がはたされた。中国は71年10月に,中華民国政府にかわって国際連合の代表権を認められた。
 合衆国の対中接近は,アジア諸国に大きな衝撃をあたえA,日本も1972年9月,田中内閣のもとで中国との国交正常化にふみきり,台湾との外交関係を断ち,さらに78年日中平和友好条約を結んだ。
 この間,中国はなお文化大革命のなかにあった。1971年,毛沢東の後継者とみなされていた林彪が失脚しB,ュ小平ら文化大革命初期に批判された一部の旧幹部が復活したが,文化大革命推進派も勢力を維持して,両派の対立が続いた。76年1月,両派の調停役をつとめていた周恩来首相が死ぬと,4月には天安門広場で彼を悼む人々によって文化大革命と毛沢東の専制を批判する動きがおこった。9月毛沢東が死去すると,華国鋒首相は,江青(毛沢東未亡人)ら文化大革命指導者(「四人組」)をクーデタで逮捕し,党主席を兼任した。77年,華国鋒は文化大革命の終了を告げ,農業・工業・国防・科学技術の「四つの現代化」を推進し,文化大革命の犠牲者の名誉回復をおこなって,中国の立ち遅れを克服しようとした。


@ 大統領再選をめざす共和党のニクソン陣営が,ワシントンのウォーターゲートにある民主党本部を盗聴しようとした事件。ニクソン自身も関与していたが,それを否定したため,世論の批判をまねき,下院の弾劾をうけて辞任した。
A こうした緊張緩和や参加国の利害の多様化の結果,SEATOは1977年に,またCENTOも79年に,それぞれ解消された。
B 林彪は毛沢東を排除しようとして失敗し,飛行機で逃亡して,モンゴルで墜死したとされている。しかしこの事件の詳細はあきらかにされていない。
2 世界経済の変容と南北問題

●イスラム世界と石油危機●
 中東におけるアラブ諸国とイスラエルの対立は,スエズ戦争以後もおさまらず,1964年にはパレスチナ難民によるパレスチナ解放機構(PLO)が設立され,イスラエルに対するゲリラ活動が続いた。1967年6月,イスラエルはエジプト・シリアなどを奇襲し,シナイ半島・ゴラン高原を占領した(第3次中東戦争)。70年,エジプトのナセル大統領が死ぬと,サダトがあとをつぎ,73年10月,シリアとともにイスラエルに反撃したが,まもなく停戦となった(第4次中東戦争)。その後,サダト大統領はイスラエルとの和解に転じ,アメリカの仲介で79年エジプト・イスラエル平和条約が締結された。サダトは81年に暗殺されたが,ムバラクはその政策をうけつぎ,イスラエルは82年にシナイ半島をエジプトに返還した。一方,イスラエルとパレスチナ解放運動との武力対決はやまず,イスラエルがヨルダン川西岸などの占領地を併合する姿勢をみせたため,占領地のアラブ人の抵抗運動も強まった。1993年,イスラエルとパレスチナ解放機構はそれまでの武力対決方針から一転して,話し合いによる解決にふみきり,9月,相互承認,パレスチナ人の暫定自治樹立で合意した。これによって,イスラエルとアラブ世界の関係はあたらしい時代に入った。
 なお第4次中東戦争の際,サウジアラビアなどアラブ石油輸出国機構(OAPEC)は,原油生産を減らし,また非友好国への輸出停止・制限をふくむ石油戦略をとった。同時に,石油輸出国機構(OPEC)は原油価格の大幅引き上げを決定したため,先進工業国をはじめ,世界経済に衝撃をあたえた(第1次石油危機)。
 イランは,国王パフレヴィー2世の指導で,反対派をきびしく弾圧する一方,1963年から「白色革命」とよばれる経済・社会の近代化を実行した。その政策は一時成功したかに思われたが,急速な工業化のために農村に打撃をあたえ,貧富の差はかえって増大した。78年から国王の独裁に反対する運動が全国に広がり,79年1月,国王は亡命して,フランスから帰国した宗教指導者ホメイニのもとにイラン=イスラム共和国が成立した(イラン革命)。新国家はイスラム教を国家原理にかかげ,とくに王政の支持者であったアメリカとのあいだでは,アメリカ大使館員を人質とする紛争がおこった。厳格なイスラムへの復帰を説き,欧米諸国との対立を辞さないイラン革命の成功は,アラブ世界の亀裂を深めることになった。
 隣国のイラクではサダム=フセインが大統領になって,1980年,国境問題の対立からイランに侵入したため,88年の停戦うけいれまで続く長期の戦争となった(イラン=イラク戦争)。その後,イラクは90年8月クウェートにも侵攻し,占領したが,翌年1月,国際連合の決議をうけて,アメリカ軍を中心にアラブ諸国軍を加えた多国籍軍の攻撃によって,撤退した。
 こうして,アラブ諸国家の結束は破れ,主導権争いと宗派対立による混迷と分裂がなお続いている。有力な産油地帯での紛争の多発は,世界経済にも不安をあたえている。

●EC(EU)諸国と日本●
 ヨーロッパ共同体は,成立後堅実に発展し,1990年代前半には,東ヨーロッパ諸国をのぞくほとんどのヨーロッパ諸国をふくみ@,92年に調印したマーストリヒト条約にしたがって,域内市場完成を実現し,ヨーロッパ連合(EU)へと統合の強化をめざしている。
 フランスでは,1981年の選挙で,社会党出身者としてはじめてミッテランが大統領に当選した。86年の国民議会選挙で保守派が勝利したため,彼は保守派の首相と組むことになったが,政策に大きな変化はなかった。西ドイツでは,70年代に社会民主党の首相が続き,社会の自由化をいっそう促進する政策が実行された。しかし,82年の選挙ではキリスト教民主同盟が勝ち,同党のコールが首相となった。イギリスでは,74年から労働党政権が続いたが,79年の選挙で保守党が勝利し,イギリス初の女性首相サッチャーが登場した。サッチャーは国家財政のたてなおしと経済活性化をかかげて,社会政策費の削減,国営企業の民営化を進める一方,82年にはアルゼンチンとのフォークランド戦争に勝って,外交的にも強硬な姿勢をとったが,90年増税に対する国民の強い不満がおこり,辞任した。
 南ヨーロッパ諸国の工業化は進んだが,西ヨーロッパ諸国では,石油危機を切りぬけたものの,その後の経済回復はかならずしも順調ではなく,英・西独などでは青年層の高い失業率も続いた。また,工業化の進展による環境汚染・地域格差も深刻で,環境保護運動や地域の自立運動が活発になっている。
 一方,日本は1960年代の高度経済成長期をへて,世界的な工業国へと発展し,72(昭和47)年には,沖縄がアメリカ合衆国から返還された。日本は石油危機を乗りきり,輸出拡大を続けて資本力を強め,経済大国とみなされるようになった。しかし,急速な工業成長と国土開発による公害や自然破壊も著しく,大きな社会問題となっている。
 ECと日本が経済力を増し,世界経済の機軸に成長する一方,アメリカ合衆国の経済は以前の力を失い,1971年には1世紀近く続いていた貿易収支の黒字も赤字となった。ニクソン大統領は71年ドルの金兌換停止,ドルの切り下げを発表し(ドル=ショック),73年以降,主要国は変動相場制に移行した。アメリカ合衆国は,単独ではもはや世界経済をささえることができないことがあきらかになり,戦後の国際経済・金融体制の基盤は大きくかわった。また先進工業国でも経済成長の鈍化,スタグフレーションAなどの傾向や多国籍企業の問題があらわれたため,フランスの提唱により,75年以降毎年先進国首脳会議(サミット)Bがひらかれて,経済政策の相互協力と調整を協議している。こうして,世界経済は1970年代以降,米・欧・日を中心とする3極化の構造をとるにいたった。


@ 1973年にはイギリス・アイルランド・デンマーク,81年ギリシア,86年スペイン・ポルトガルが加盟した。さらに95年にはオーストリア・フィンランド・スウェーデンの3国が加盟した。
A 経済が不況で,失業率が高いにもかかわらず,物価も上昇する現象をさす。
B 先進国首脳会議の構成国は,アメリカ・日本・ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・カナダである。

●南北問題の重層化●
 アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの南半球に集中する発展途上国の多くは,この間も北半球の先進工業国への工業原材料・農産物供給国としての地位にとどまり,南北の経済格差はいっそう深刻になった。
 先進国が指導するGATT(関税と貿易に関する一般協定)貿易体制に対し,1964年,発展途上国71カ国グループは国連貿易開発会議(UNCTAD)設立によって,南北間での経済問題の話しあいをうながそうとしたが,十分な成果をあげていない。また,発展途上地域でも,韓国・台湾・香港@・シンガポール・ブラジルなどは,70年代から工業の育成に成功し,新興工業経済地域(NIES)とよばれる中所得国に上昇したため,南の諸地域でも格差が広がっている。しかし,一部の新興工業国はなお膨大な対外債務をかかえ,産油国も80年代の石油価格の低下によって動揺している。さらに,アフリカやアジアの低所得国では人口の爆発的増大,首都への人口集中が進み,内戦や自然災害による農業不振によって,食料危機のため飢えに苦しむ人々や故郷をはなれて難民となる人々の数がいぜん多い。
 発展途上国でも民主化の動きは広まっているが,経済の苦境のために政治はなお不安定で,独裁体制も少なくなく,地域紛争,宗教・民族対立などが多発している。


@ 香港はイギリス行政下におかれていたが,1997年7月,中国に返還された。

●発展途上地域の改革と苦悩●
 ラテンアメリカでは,1970年,チリで人民連合に推されたアジェンデが大統領に当選し,銅資源の国有化など社会主義をめざす政策をとったが,73年アメリカに支援されたクーデタによって倒され,その後は軍事独裁政権ができた。しかし,88年の国民投票の結果,軍事政権は信任されず,しりぞいた。また,中米のニカラグアでは,長年続いた独裁政権が倒され,左翼政権が登場したが,アメリカの援助をうけた反革命派との戦いが続き,90年,選挙に敗れて退陣した。一方,76年に成立したアルゼンチンの軍事政権は,経済危機が続くなかで82年イギリス領のフォークランド諸島を占領したが,イギリスに敗れ,83年民政に復帰した。
 アジアでは,大韓民国の朴政権が,輸出工業の育成につとめる一方,1974年以降国内の反政府活動のとりしまりを強めたが,朴大統領は79年暗殺された。その後,80年に光州でおこった反政府民主化運動を弾圧して力をえた軍部を背景に,大統領となった全斗煥は日韓関係の強化をはかりながら,国内の規制をゆるめる政策に移った。88年,大統領に選ばれた盧泰愚は,90年ソ連,92年中国と国交を回復し,国内の近代化につとめ,91年には朝鮮民主主義人民共和国とともに国際連合に加盟した。
 フィリピンは,1965年以来政権にあったマルコス大統領のもとで,経済の不振と政治腐敗が進んだ。86年大統領選挙の不正に抗議して大衆運動がおこると,マルコスはアメリカ合衆国の支持も失って亡命し,その後アキノ・ラモスと民主選挙による政権が続いている。しかし,貧富の格差はいぜんとして大きく,軍の反乱もあいつぎ不安定な状況はなおおさまっていない。
 インドでは,1964年のネルーの死後も,国民会議派の政権が続いた。65年,インドはパキスタンとカシミールの領有をめぐって衝突し,さらに71年,東パキスタンの難民をめぐってふたたびパキスタンとたたかって,東パキスタンをバングラデシュ人民共和国(ベンガル共和国)として独立させた。国民会議派を指導するインディラ=ガンディーは80年,首相に復帰し,中央政府の強力な指導による政治を実行したが84年暗殺され,あとをついだ長男のラジブ=ガンディーも91年に暗殺された。インドでは議会政治が一応定着し,近代化も前進しているが,地域の自治,分離要求をかかげる急進的運動も広がり,言語問題や宗教対立ともかさなりあって,不安定要因を形成している@。
 アフリカでは,白人少数支配をとっていた国で改革が進んだ。ローデシア白人政府は,1965年,イギリス連邦から一方的に独立を宣言した。しかしその後,解放運動の武装抵抗や国際的圧力を前に,黒人多数支配を受け入れ,80年国名をジンバブエとする黒人主体国家へと移行した。南アフリカ共和国は,第二次世界大戦後,アパルトヘイト政策Aを導入したが,国際連合の経済制裁やアフリカ民族会議のはげしい抗議運動をうけて,孤立した。80年代になって,共和国政府はアパルトヘイトを全面的にみなおし,91年差別諸法を全廃した。94年には,平等選挙権も認め,選挙の結果,アフリカ民族会議が過半数を制して勝利し,白人少数支配はおわった。
 なお,ハイレ=セラシエ皇帝の専制のもとで,伝統的な貴族制を維持していたエチオピアでは,1974年軍部が蜂起して皇帝を廃し,社会主義を宣言して,土地改革を実行した。しかし,ソ連などの援助にもかかわらず経済改革に失敗し,国内では難民が増え,91年エリトリア解放戦線などの反政府勢力の反撃によって社会主義政権は崩壊した。


@ スリランカは,1972年自治領から共和国になり,国名をセイロンからスリランカと改めたが,国内では少数派のタミル人が,シンハラ人に対して分離独立を求めて抗争が続いている。ミャンマーは1962年ネ=ウィン将軍がクーデタによって権力をにぎり,以後軍政のもとに国有化政策と鎖国政策がとられ,74年民政に移ったが,実質的には軍部の支配が続き,民主化運動を阻止している。89年国名をビルマからミャンマーと改称した。
A 少数白人の優位をまもるために,第二次世界大戦後以降に法制化された政策。非白人の公民権の制限,居住区制限など,白人・非白人間の差別的分離を目的としていた。
3 社会主義圏の解体と地域の再編

●社会主義諸国の混迷●
 カンボジアではヴェトナム戦争後に成立した民主カンプチアが,ポル=ポトの指導のもとに,農業を基盤にした共産主義社会の建設を強行して,多くの犠牲をだした。ヴェトナムは反ポル=ポト派を支援して,1978年末カンボジアに侵攻し,翌年首都プノンペンを攻略して,ヘン=サムリンを元首とするカンボジア人民共和国を樹立させた。民主カンプチア側を支援する中国は,これに反対してヴェトナム国境で軍事行動をおこしたため,中国・ヴェトナムの関係は悪化した。民主カンプチア勢力はタイ国境付近にのがれ,ヘン=サムリン政府への抗戦を続けた。89年ヴェトナム軍はカンボジアから撤退し,91年末,内戦当事者は停戦と統一政権樹立に合意して,最高国民評議会を組織した。この間,内戦やヴェトナム経済の不振のために,ヴェトナム・カンボジアから脱出する難民は国際問題となっている。
 戦後,金日成を指導者として,一党独裁のもとで独自の社会主義建設を進めてきた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は,この間も閉鎖的対外姿勢をとってきた。しかし,経済は対外貿易の不振が示すように,必ずしも順調ではなく,80年代に入って,韓国との対話の方向をみせはじめて,国際社会への参加を模索し,91年には国際連合にも加盟した。
 中国では,1981年,華国鋒にかわって,胡耀邦が党主席となり,憲法改正によって国家主席制を復活して李先念が就任した。ュ小平を中心に趙紫陽首相などの新指導部のもとで,人民公社の解体や外国資本・技術の導入による経済改革,ソ連との関係修復がめざされた。しかし,急激な開放経済は,国内の経済格差の増大や失業者をうみだし,民主化の遅れにも批判があらわれた。89年,学生・労働者は天安門広場に集まって民主化を要求したが,政府はこれを武力で弾圧し,首相は李鵬にかわって,政治的な引きしめを強めている。この事件によって中国は国際的にきびしい批判をうけた。
 一方,ソ連は,1979年不安定な革命政権が成立したアフガニスタンに軍をおくって支援したが,反政府ゲリラ側の抵抗や内外の批判をうけ苦境におちいった。
 1980年,東欧社会主義圏のポーランドでは,政府に抗議するストライキ運動が広がり,ワレサを指導者とする労働者は自主管理労組「連帯」を組織して,改革運動を広げた。81年首相となったヤルゼルスキは,戒厳令によって連帯をおさえたが,ポーランドの連帯の改革運動は,社会主義体制全体のゆきづまりを示す兆候であった。

●ソ連の消滅と社会主義圏の崩壊●
 ソ連では,1982年11月ブレジネフが死に,あとをついだアンドロポフ・チェルネンコもあいついで死んだため,85年3月,ゴルバチョフが書記長に推された。ゴルバチョフは,ソ連社会の停滞を打ち破るために,まず情報公開(グラスノスチ)による言論の自由をうちだし,翌年からペレストロイカ(改革)をかかげて,ソ連の政治・社会体制のみなおしをはじめた。86年4月,ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所でこれまでで最悪の事故がおこり,管理体制や事故対策の欠陥があきらかになって,改革の必要は広く認められた。
 国内では,1988年にソヴィエト型民主主義が修正され,翌年複数候補者制選挙による連邦人民代議員大会・連邦最高会議制が実行され,90年には強力な権限を持つ大統領制も導入されて,ゴルバチョフが大統領に就任した。一方,経済ではそれまでの中央指令型計画経済から市場経済への移行にふみだした。ペレストロイカは,こうしてそれまでのソ連の制度や歴史の全面的再検討に発展した。
 中央集権的連邦体制の改革は,連邦を構成する諸民族共和国の自立・分離要求をいっきょに噴出させた。バルト3国やグルジアはソ連からの離脱を要求し,またウクライナやイスラム教徒の多い中央アジアの諸共和国も,それぞれの共和国の権限を強めることを求めた。
 この間ソ連は,外交面では,アメリカ合衆国との協力と軍縮の進展につとめ,1988年にはアフガニスタンからの撤兵を表明して,翌年に撤兵を完了した。さらに中国や韓国など隣接諸国との関係改善をめざすなど,冷戦外交からの脱却をはかった。88年3月の新ベオグラード宣言では,各国それぞれの社会主義の道を認め,ソ連の指導性を否定した。
 1991年8月末に連邦体制の維持をねらった保守派の反ゴルバチョフ=クーデタがおきたが,民衆の抵抗によって短期間で失敗した。その後,ただちにバルト3国をはじめ,ウクライナ・アゼルバイジャンなどほとんどの共和国が連邦からの離脱を宣言し,ソ連全体を結びつけていたソ連共産党も解散した。同年12月,エリツィンを大統領とするロシア連邦を中心に,ウクライナ・ベラルーシ(白ロシア)など11の共和国が独立国家共同体@を結成し,これによってついに連邦国家ソ連は消滅して,ゴルバチョフも大統領を辞任した。しかし,あたらしい独立国家共同体内での各共和国間の関係はなお不安定で,この間経済の混乱もいっそう進み,軍事力の管理や民族間の調整など多くの問題が未解決のまま残されている。
 ソ連の大改革は,西側との経済格差に不満を持つ東ヨーロッパの社会主義国にも波及した。1989年10月,東ドイツのホネカー書記長が退陣し,11月東ドイツ政府はベルリンの壁を開放して,東西ドイツ間の自由な行き来を認めた。その後,東ドイツでは急速にドイツ統一要求が高まり,90年3月の自由選挙で,早期統一を主張する連合党派が勝利すると,米・英・仏・ソの承認もえて,同年10月,西ドイツによる東ドイツの吸収という形でドイツ統一が実現した。
 東ドイツとならんで,ハンガリー・チェコスロヴァキアA・ブルガリアでも民衆の運動によって共産党の支配はくずれ,自由選挙による議会制民主主義が確立し,それまでの社会主義経済体制からも離脱することになった。チャウシェスクの独裁体制が続いていたルーマニアも,89年12月に反体制運動がおこり,チャウシェスクは処刑された。またポーランドでも89年には憲法が改正されて民主化が実現され,90年にはワレサが大統領に当選した。その後,東欧諸国の各共産党はすべて解散あるいは社会民主主義政党へと改編された。さらに,独自の社会主義体制をとっていたユーゴスラヴィアでも,経済不振と民族対立が表面化して,91年クロアチア・スロヴェニアが連邦から離脱し,セルビア・クロアチア間で激しい内戦がおこり,現在も緊張が続いている。こうして,東欧の社会主義圏は消滅しB,第二次世界大戦以来のヨーロッパの構図は大きくかわった。
 半世紀近くにわたって,世界を核戦争の脅威のもとにおいた東西対立の解消は,それまでの西側世界の政治も変容させた。アメリカ合衆国では,共和党のレーガン大統領による対ソ軍事力再強化の試みが,ブッシュ大統領による修正をへて,1993年に就任した民主党のクリントン大統領のもとで,軍事費削減,国内経済再建重視に転じはじめた。また,92年,大韓民国大統領に61年以来はじめて文民政治家として当選した金泳三も,こうした政治の脱軍事化の傾向を象徴している。世界の地域紛争の調停に,国際連合の平和維持活動(PKO)が主導的役割を演じることが多くなったC。
 現在も旧ユーゴスラヴィア地域では後継諸国の国内体制や相互の関係は安定せず,ソマリア・ルワンダなどアフリカ諸国,スリランカなどでも民族・宗教対立にからむ紛争で多くの犠牲者がでるなど,いぜんとして地域紛争はたえず,むしろ激しくなる傾向すらみられる。
こうしたなかで,世界は政治的安定と経済発展を求めて,あらたな諸地域間の協力や再編を模索しているD。


@ 共同体には1995年末の時点で,3国のほか,ウズベキスタン・カザフスタン・アゼルバイジャン・タジキスタン・モルドバ・キルギス・トルクメニスタン・アルメニア・グルジアが参加している。
A 1993年からチェコスロヴァキアは,チェコとスロヴァキアの2国に分離した。
B コメコン・ワルシャワ条約機構も1991年に解消された。
C 最近では,カンボジア・旧ユーゴスラヴィア・ソマリアでの活動の例がある。
D 1992年にアメリカ合衆国・カナダ・メキシコ間で合意された北米自由貿易協定(NAFTA)はその例である。
4 20世紀の文化

●現代科学文明の成立と現代社会●
 19世紀末からの科学の進展は,工業技術の改良や工業能力の拡大と結びついて,人々の生活空間,人間と自然の関係を根底から変化させ,人間観・世界観・宇宙観を変革して,現代文明をつくりあげた。
 物理学は,20世紀初め,アインシュタインが相対性理論を提唱して以来,飛躍的に発展し,物質の構造や宇宙の生成についての認識を深めた。原子物理学の成果は,第二次世界大戦後,原子力発電などに応用されたが,また核兵器開発にも使われた。生物学は,分子生物学から生化学・生命工学(バイオテクノロジー)へと進み,医学の分野でも貢献しているが,他方で,遺伝子操作によって,生物の種そのものを人為的に変化させる能力をも開発した。医学においても,ペニシリンの発見以来,抗生物質が広く導入され,予防医学の進歩も加わって人間の平均寿命を大きくのばしている。
 科学技術分野では,ライト兄弟が発明した航空機が,その後プロペラ機からジェット機にかわり,世界の交通手段として不可欠のものとなった。第二次世界大戦中の兵器として出発したロケットは,戦後,ひきつづき大陸間弾道ミサイルなど軍事面での利用に改良された。しかし,1969年,アポロ11号が月面往復を達成したように,宇宙科学での利用や,気象・通信衛星の打ち上げにも使われている。自動車も,フォードによる大量生産方式によって,まずアメリカ合衆国で,ついで第二次世界大戦後には,ヨーロッパ・日本で大衆的交通手段として普及し,輸送手段としても鉄道にとってかわろうとしている。
 人々の日常生活を大きくかえたのは,とくに電子工学(エレクトロニクス)と化学工業部門での多様な進展である。電子工学は,レーダーの発明によって,第二次世界大戦での連合国の勝利に貢献したが,戦後,トランジスター・集積回路(IC)の導入によって,コンピューター・通信機器・電気製品などで画期的な改良をうみだした。その結果,工業生産のオートメーション化・ロボット化が進み,また日常生活の合理化や快適さがもたらされ,情報社会の基礎となった。化学工業では,石油を原料としたナイロン・プラスチックなどの人工素材が開発されて,天然素材を圧倒している。先進工業国,とくにその大都市は加速度的に発展する近代科学技術の成果と最新情報の集積の場となり,現代文明を集約的に表現している。
 現代文明にささえられた先進諸国では,重工業を中心にした産業構造から,都市を中心とする金融・流通・情報などのサーヴィス産業が著しく発展した構造へと変容した。そこでは農民や工業労働者にかわって,高等教育をうけ,余暇をふくめた個人生活を重視する中間階層を主流とする社会に移行している。また,先進国社会では医療の発達によって死亡率が低下し,他方,出生率も減少しているため,これまでの家族観やライフ=サイクル観では考えられなかった高齢化社会となる傾向もあらわれている。このため,経済的豊かさを集中させ人口が停滞している先進地域と,急速に人口が増え貧しい発展途上地域(第三世界)の格差はいちだんと増大し,発展途上地域から先進地域への人の移動は,先進地域の社会構成にも大きな影響をあたえている。
 現代文明はエネルギーや各種資源の大量消費を進め,また大量の廃棄物をうみだしている。それによって,先進国の自然のみならず,発展途上国の生活環境や熱帯林などの自然が破壊され,温暖化や砂漠化,オゾン層減少など地球的規模で環境や生態系が危機に直面している。さらに,科学技術はそれ自体巨大な破壊力を持っているため,それが暴走する危険は人類全体の生存をおびやかすまでになっている。
 こうして,現代文明のつくりだした世界は,これまでのせまい国民国家の枠にとらわれた,ものの見方や政治にも反省をせまっている。

●現代思想と現代文化●
 現代文化は,19世紀末からあらわれたヨーロッパ近代に対する批判や懐疑から出発している。近代批判は,近代産業社会・大衆社会における人間の不安や孤独の問題をみすえ,それを分析して克服するためのさまざまな試みであった。
 思想では,ニーチェが近代合理主義を批判し,第一次世界大戦後にはそれをうけついでヤスパース・ハイデッガー,さらにサルトルが,人間存在の不条理から人間の生き方を考える実存哲学をみちびいた。また,フロイトは,個人の不安や心理の根源にせまろうとする精神分析学をうみだした。
 近代資本主義社会の欠陥を社会主義革命によって克服しようとするマルクス主義は,レーニン・毛沢東によるあたらしい考えを加えて,第三世界の解放運動に影響をあたえた。第一次世界大戦や世界恐慌を前に,資本主義の修正を求めるケインズは,近代経済学のあたらしい理論をうちたて,その後の資本主義国家の経済政策に指針をあたえた。また,マックス=ヴェーバーは,社会学・宗教学などをつうじて近代社会の成り立ちと官僚制への発展傾向を指摘した。一方,アメリカでは,合理主義の流れをひくジェームズ・デューイらのプラグマティズムが有力になった。
 しかし,20世紀後半には,ヨーロッパ近代がうみだしたこれまでの思想では対応しきれない,社会の複雑さや世界の多元性が認識されてきた。問題をいっきょに,しかも全体的に解決することをとなえる政治がもたらした犠牲や,科学技術への一方的な依存に対する反省が高まり,性差別などの社会のなかで日常生活にかかわる課題や人種差別あるいは環境問題など,国境をこえた問題を手がかりに,近代社会を再検討しようとする方向が強まっている。
 文学や芸術においても,現代の不安や現代社会における人間の生き方は重要な主題になった。絵画では,印象派にかわって,主観を重視する傾向が強まり,立体派・野獣派・超現実主義など多くの流派がでた。
 20世紀の思想や文芸は,ヨーロッパ以外の思想・文学・芸術の影響をうけ,ヨーロッパでうまれた近代文化をみずから相対化してきた。そのなかで,それぞれの民族の自覚をうながす文学や,各地域の伝統芸術を継承,革新して発展させる動きもさかんになった。
 また,現代文化では,映画・ラジオ・テレビ・舞台演劇などによって普及した大衆文化も重要である。たとえばジャズは世界の多様な民衆文化・若者文化を吸収した音楽として,世界に広まった。都市を基盤とする大衆文化は,古典文化や近代文化あるいは民族文化と融合しながら,国境をこえたあたらしい現代文化を形づくっている。

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